昨日、神戸のTさんから「母 平田和子は十一月二十八日九十一歳にて永眠いたしました」という喪中のご挨拶のはがきをいただきました。

平田さんに最後にお会いしたのは2007年の秋でした。
そのときはお体は丈夫でしたが、「おたくさん、どちらからいらっしゃいましたの」というばかりで、もう私たち夫婦のことをお分かりにはなりませんでした。
またお見舞いに行きたいと思いながらいつの間にか時間が経ってしまい、あの溌剌としたお声を聞くことはもうできないと思うと後悔ばかりが先にたちます。

1980年8月9日~17日まで、神戸市生田区山本通2丁目ローズガーデン1階にあった「ギャラリー・ド・ラ・ぺ」で元永定正展が開催されました。
元永定正「白い光が出ているみたい」
元永定正「白い光が出ているみたい

出品作品は亭主が主宰していた現代版画センターのエディションで、真夏の短い会期にもかかわらず100点近く売れて、これは全国で何十箇所も開催した「元永定正展」の中でもダントツの売り上げでした。
安藤忠雄先生の初期の設計作品であるローズガーデンには平田さんが経営する帽子のお店とギャラリーが入っていました。
最初は帽子のお店だけだったのですが、他のテナントが一軒出てしまい、大家さんに頼まれてギャラリーも開いたということでした。

専業主婦だった平田さんが新聞記者のご主人に先立たれ、還暦を過ぎて始めたギャラリーを紹介してくれたのは宝塚にお住まいの元永定正先生でした。
「絵には全く素人のおばはんだから、綿貫さん助けてやって」と言われたのがきっかけですが、その後は神戸に行くと平田さんは必ず美味しいレストランに連れて行ってくださり、亭主にとって神戸は行商の旅の途中でオアシスにたどり着くような安らぎと、もちろん経済的な潤いをもたらしてくれました。

山口県に生まれ、東京の自由学園に学んだ平田さんは、もうお孫さんもいる歳でしたがフランス語をよくし、単身フランスを往来して帽子や絵の買い付けをするという活発で進取の気性に富む女性でした。

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 ギャラリー・ド・ラ・ぺと言ったと思う。とてもしゃれた画廊が、三宮駅から山手に上がった山本通にある。その画廊の女主人は婦人帽子のデザイナーでもあって、やはりとてもしゃれた帽子をつくる。平田和子さんである。平田さんは、もう一度とてもと書くが、とてもスマートな大柄な人である。(中略)
 この文章に平田さんをとり上げたのは、平田さんが神戸の代表的な婦人であると思ったからである。(中略)
 神戸的ということで私が考えたのは、美しいことはもちろんだが、それよりも明るく生き生きしているという条件にかなわなければならない。エネルギーが全身から溢れ出ていて、本人はもとより、応対しているすべての人たちまでもたのしくさせなければならない。それは神戸という街の性格である。(中略)
 平田和子さんは、中国との戦争が始まったばかりの頃に戦病死した平田耕一という友人の妹である。平田耕一とは大学を卒業した頃、ずいぶん親しくしていた。同じ同人雑誌の文学仲間でもあった。徐州作戦に動員され、激戦のための消化器障害で入院生活をつづけ、一日一日衰弱死が迫って来る経過を丹念にノートに書きとめているうちに死んでしまった。私はそのノートが彼のかたみのように思えて、清書し、製本して保存していたのだが、五十年という歳月がそれから過ぎて、共通の友人もつぎつぎ死んでいき、仲間のうち、私一人だけ残った。私は保存していたそのコピーをどう処理すればよいかと考えはじめていたのだが、ちょうどそんな時に和子さんの消息がわかったのだ。(中略)
 平田さんは私に会うと、右手であったか左手であったかは忘れたけれども、片手をさっと高く差し上げて、「わたし、平田和子!」と言った。いかにも神戸の人らしい挨拶であった。(後略)  
     田宮虎彦「神戸の人」(『平田耕一全著作』所収)より引用


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1985年1月、亭主の放漫経営がたたり、現代版画センターは倒産寸前でした(翌2月自己破産)。
このときの悪夢のような日々は今思い起こしても冷静ではいられません。
混乱の中で社員の心は離れ、モラルも秩序も崩壊し、社員は自己防衛の気持ちから勝手に(亭主に内緒で)作品を定価の10%という捨て値で知り合いの業者に叩き売り、その代金を自主管理(?)していました。さすがにそれは相談した労働基準監督署のお役人から「そんなことをしたら刑事罰を受ける」と諭され、戻してきましたが、債権者が連日押し寄せる異常事態が続いていました。
倒産間近と聞きつけた某出版社や某額縁屋さんは亭主の知らぬ間に、トラックで事務所に乗りつけ大量の作品を勝手に持ち去っていきました(もちろんそれらは詐害行為で破産後に管財人のもとに返却されましたが・・・)。

亭主と社長(当時は経理担当者)は金策にあがき、疲れ切って、昼でも雨戸を締切り、食事も喉を通らないようなある日のこと、平田さんが突然神戸から上京してきました。
必死に体裁をつくろう亭主。
平田さんは何も知らないふりをして快活に「ワタシそこに掛かっている版画欲しいのよ、ワタヌキさんこれでおろせるだけおろしてきて」と、太陽神戸銀行のキャッシュカードを渡してくれたのでした。
当時、カードでおろせる上限は30万円でした。
作品を抱え「元気でね、また神戸に遊びに来て」と手を振りながら帰ってゆかれました。
あの日、平田さんが買ってくださった30万円のことは、私たち夫婦は死んでも忘れません。

それから間もなく、社員全員に解雇を告げ、かき集めた現金で解雇予告手当て、退職金を支払い、裁判所に自己破産を申請したのでした。労働債権が無かったことだけが救いでした。
破産の前夜、10万円以下の小口の債権者の皆さんには、友人に現金封筒を託して始末をつけ、破産の朝を迎えたとき、手許に残っていたのは2千円ばかりの現金でした。
それから17年かかって現代版画センターの負債を返済できたのは、平田さんのような方がいて支えてくれたおかげでした。


晩年の平田さんが精力を注いだのは敬愛していたお兄さん、平田耕一(1912~1938)の遺稿集を出版することでした。

「兄は学生時代から戦争に反対していて、獄に入れられ、又戦地・北支に送られて、栄養失調と過労で病院で戦病死してしまった。日本の戦争は侵略戦争で人権どころか人命さえ無視したものであった。多くの日本人が犠牲になった。そして、この戦争は何にたいして何の為にしたのか、未だに反省されていないのは恐い気がする。
    平田和子「兄・平田耕一のこと」(『平田耕一全著作』所収)より引用」


1988年に自殺した田宮虎彦さんから託された兄のノートをもとに、『平田耕一全著作』を平田さんが刊行したのは、2002年のことでした。
平田耕一全著作「戦争の犠牲になった若き文学者の全記録。
田宮虎彦・佐々木基一に敬愛され、坂口安吾以上に矢田津世子と親密でありながら、徐州戦線で空しく戦病死した平田耕一全著作決定版。
兄も生きていたらよいものを成しただろうと残念だ 平田和子(序より)
矢田津世子との文学的交換書簡徹底収録」と帯に書かれたこの本の目次をご紹介します。

『平田耕一全著作』
発行日:2002年3月30日
著者:平田耕一
著作権者:平田和子
編者:山崎行雄
発行所:邑書林


 兄・平田耕一のことー平田和子
 神戸の人・発行人のお人柄ー田宮虎彦

Ⅰ詩
 ニユウ・スプウン・リブ(抄)
   看板屋・マルクス
   セルマ・ラムストラム
   ジヨセフ・フイロツク
   ユウリイビス・アレクソポウロス
 マキシム・ゴーリキイおくる詩
 臨城駅にて
 張集にて

Ⅱ評論
 「ユリシイズ」以前のジエイムス・ジヨイス
 和辻哲郎「現代日本と町人根性」批判

Ⅲ平田耕一・矢田津世子書簡 

Ⅳ聯隊書簡

Ⅴ陣中日記

Ⅵ追憶
 平田の陣歿ー三矢正城
 故平田耕一君を偲ぶー摩壽意善郎
 平田君を惜しむー田宮虎彦
 追憶ー澤壽次
 『故平田耕一君遺稿集』後記に寄せてー菅原芳郎
 『故平田耕一君遺稿集』後記ー永井善次郎(*)
 夭折の友ー佐々木基一
 遠國の蛍ー矢田津世子

平田耕一年譜

解題ー山崎行雄
解説ー山崎行雄

*註 佐々木基一の本名
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謹んで平田和子さんのご冥福をお祈りします。
ほんとうにほんとうにありがとうございました。