大竹昭子のエッセイ「レンズ通り午前零時」第11回

11.擦過した影

NY39「キャストアイロンビルの大窓」

 ソーホーはもとは倉庫街だったということはだれでも知っていると思うが、その建物のファサードが鉄で出来ているという事実は、案外知られていないかもしれない。前回触れたように鉄を鋳型に溶かし込んで造るキャストアイロンという工法だが、これでファサードを造る利点は、石積みの建物ではサイズが小さく制限されてしまう窓を、大きく切っても持つことだった。つまり鉄の利用により大きなショーウィンドウのある建物が可能になったのである。
 時代がくだって倉庫としての役目が終わった60年代、ソーホーは、圧倒的な存在感をもった鋳鉄ビルが、陽の射さない狭いストリートに折り重なるように影を落す暗くておぞましい場所になった。殺人が起きても「我関せず」と言ったふうにビクともしない鉄の沈黙が無人のビルを覆っていた。
 私が住んでいた80年代はじめはすでにアートの街になっており、ファッション性に惹かれて弁護士や医者などが住みだすなど、観光地になるのも時間の問題という感じがした。とくに歩きたい場所ではなかったが、キャストアイロンビルの質感だけには惹かれるものを感じ、できるだけ人のいない裏道を選っては歩いていた。
 建物は天井が高く普通のアパートの2倍はあり、かならず地下室がある。路面よりも高い位置にその地下の天井があるために、1階の床が持ち上がっているケースがよくあり、その場合はビル全体が腰高になっている。腰回りの部分はゴミの山積場になること多く、板きれのようなものが必要とあれば、そこをひっかきまわすとたいがい手に入る。玄関まわりからして泥棒の入ったあとのような雑然とした雰囲気だった。
 建物のなかがどうなっているかはまったく窺い知れず、外まわりがそのようでも、なかがすばらしく上品に改装されている場合もあるし、反対に外とおなじように雑ぱくななりのまま暮らしが営まれていることもあるが、共通しているのは部屋がだだっ広いことで、その広さに惹かれて住んだのだから、わざわざ細かく区切って使う人はいないのだった。
 だが、こうしたロフトの空間は私には人間的なスケールを逸脱しているように思え、寒々とした印象ばかりが際立っていた。住みたいと思ったことは一度もないし、たとえ住んだとしても、隅っこに巣のように持ち物を集めてネズミのように暮らすことはまちがいなかった。
 住人のにおいを少しも滲ませることのない建物は、その前を通りがかっても生きている者の気配を感じさせない。あのビルとこのビルのどこがちがうかとか、隣りのビルとどこで切れているかとか、入口はどこか、といった一般の住宅が開示している情報に対しても一切口を閉ざしている。
 このように考えると、あの午後のひとときがいかに特別な瞬間だったかが明らかになる気がする。ギャラリーを見に行ったあとか、それもソーホーの東側のイタリア人街に住んでいる友人を訪ねた帰りだったか、ともかく鉄の街を横切ってわがイーストビレッジの傾きかかったレンガ造のアパートにもどろうとする途中、建物が割けて中身が飛びだしてきたような唐突さで、視界の横をなにかが矢のように走った。
 撮影が目的で出ていたわけではなかったので、心の用意はしていなかったが、いつもの習慣でバッグにカメラは入れてあった。それを取り出し構えるまでに、いまならかなりもたつくところを、そのときはよほど素早かったとみえる。横切った影にすぐさまレンズをむけてそれをとらえた。
 カメラのボディーをずだ袋のなかに隠したまま、その袋のひもとカメラのストラップとを一緒に肩にかけて歩くのが、当時の外出のときのお決まりのスタイルだった。それだとカメラが外から見えず、しかも撮りたいときには片手でつかんでさっと取り出せる、と書きながらいまその感触が手によみがえってくる。かなり身に馴染んだ仕草だったと見える。
 窓のむこうに走った影はいったい何だったのだろうか。いまだに確信がもてないでいる。鼻の尖っているところがイノシシのようだが、ロフトでイノシシを飼う人がいるだろうか。なんでもありのニューヨークだからいないとも限らないが、やはりこれは犬だと考えるのが順当のように思えた。
 ところが、どんな種類の犬かと問われると、答えに詰まるほどひどく獰猛な印象だった。牙をむきだして猪突猛進するイノシシの勢いがあり、飼い犬の従順なイメージとはひどく隔たっていたのである。
 犬と見えたものの背後にはどっしりした布がさがり、ロフト特有の大きな窓を上から下まで覆っていた。その奥がどうなっているか見当もつかない。人が住んでいるならソファーやテーブルを配した生活空間が広がっているはずだが、それを思い描くのはむずかしく、人の暮らしが営まれていること自体が想像のかなたにあった。
 ずっとむかしに無人になった建物に取り残された生き物がそこで野生化して生きている、とそんな考えが一瞬スパークし、頭のなかがカーテンと同じ白さに包まれた。白昼、通りすがりの人の視界のなかを横切り、人々をぎょっとさせ、腰を抜かせることが彼の生き甲斐らしく、シャッターを切ったあとはもう出番は終わったとばかりに影も形も消えていた。  
(おおたけあきこ)