生きているTATEMONO 松本竣介を読む 2

こちらと向こう

 1926(大正15・昭和元年)、松本竣介14歳のとき、「この頃、大正12年に設置された測候所下の、岩手郡浅岸村大字新庄第4地割字山王33番地(現在の盛岡市山王町)に移る」と年譜にある。市内中津川に近い住まいから、まちを見下ろす丘に引越してきたのだ。そこは、父の銀行の業績が好調で、測候所への坂道の中腹に建てられた社宅の一軒である。3歳違いの兄・彬が油絵の道具を彼に買い与えたのもこの頃らしい。早速描きはじめている。その集中のほどが最初からすでによく表れている。

 中津川ぞいの紺屋町一帯から、綿貫さんたちと美術館に戻ったあと、やはり今日のオープニングに参加されていた盛岡在住のアーティスト、戸村茂樹さんに綿貫さんが山王の観測所へ行く地理をあれこれ聞いた挙句、厚かましくも戸村さんの車で連れて行ってもらうことになった。折れ曲がる坂道を経て丘を昇りつめたところは、あきらかに新しく建て替わった茶色のタイル貼りで2階建て、横長の事務所然とした建築になっていた。見下ろす一帯の現在はどこも同じような民家やビルに埋めつくされている。とはいえそこに窺える地形と遠くの山々には、ある親しみがたしかに残されている。そこに立つ若き画家の姿が見えてくる。
 「当時の画学生の憧れであった長谷川利行をも彷彿とさせる(今回展図録解説)」風景画≪丘の風景≫(1931頃)の画面右端に建物としてはそれだけ見えるのが盛岡観測所らしい。2階建てで出隅の階段室が上に突き出ている点は現在の建物も同じだが、当時のはスパンが短く白一色の、むしろタワー状といえるほどのいかにも観測所らしい佇まいである。もう1点、≪山王の街≫(1933)では、今度は多分観測所近くから街の方向を見る構図になる。手前に丘の隆起が迫っている。ここから降りたところに続く道がくの字に折れて画面中央の小高い丘を昇って行く様子を一望している。その先にやはり白く小さくマッシブな2階建てが、絵の主題のように画面の上座を占めている。春から夏にかけての季節なのか、全体はいきいきとした緑が主調で、背後の山なみも緑、さらにその奥に重なる山の連なりはより深い青味を帯びて、画面全体にみなぎる緑を引き締めている。こうした色彩のテクスチャの只中、あきらかに意図的な位置に建物の白いマッスが置かれている。その左右には水平に街の建物が伸びているが、それらはむしろ中央の白い建物を際立たせている。これは岩手県立公会堂だというが、≪丘の風景≫にしろ≪山王の街≫にしろ、茫漠と拡がる視野のなかで建物ひとつを、見る意識の繋留点として画面の端あるいは中央にまず置いてしまうという構図の決めかたは風景画としては特異なのではないか。油彩をいきなり始めた若者は、早くもそんな構成力を身につけていた。
 ≪盛岡の冬≫(1931)はさらに興味をそそる。これも測候所近くの小高い場所から遠くの街と山を見ている。冬だ。画面の下半分は雪で白く塗りつぶされている。すぐ脚元の家の屋根を見下ろしている。もっと手前には煉瓦造の武骨な煙突がぬっと突き上げている。その大きさや形からして住宅ではなく町工場か銭湯の煙突のようでもある。これが画面上の位置としても、雪原を背景にがっちりとした筆致にしても、中心となっている。というのも雪原の先に水平にひろがる街や山なみは、眼下の煙突や屋根に比べればより抽象化されたタッチで処理されているからだ。さらには左下から画面の中心に向かって雪原のなかを真っすぐ伸びる黄色い道が全体のひろがりを感じさせるために、前景がいっそう強調されている。と同時に、このパースペクティブな黄色い道の消失点と、手前の赤い煙突の先端部が触れ合わんばかりになって、画面左下に直角三角形をつくりだしているあたりは、きわめて意識的な操作だと思わざるをえない。
 この3点の油彩に共通する印象がある。それは前景と後景あるいは遠景との対比(一見そう見えるが)で画面を構成しようとしているのではないという気配である。
 ≪丘の風景≫では画面右端の観測所のわきに高い木がそびえている。そして画面左下には背の低い木が1本だけ立っている。この木から右に向かって歩き出せば丘の麓にめぐらされた道(右下にちらっと見える)が観測所まで自然に導いてくれるのだろう。だがそれ以上に麓の木と丘の上の木は親しげに結ばれているようにみえる。2本が兄弟のように血を分けているかに見えるのだ。2本を視線で結ぶならば、画面を斜めに横切る直線になる。そして≪山王の街≫では眼下の丘と公会堂とを結ぶ視線はさらに中央に移行し垂直に立ち上がる。その垂直線は≪盛岡の冬≫で赤い煙突となり可視化する。どの絵においても道は補助線として手前と奥を繋いでいるが、その中間部が丘であろうと谷であろうと平原であろうと、垂直のいわば切り立った視線は全体を等質のものとしてどんな遠くのものまでもひとつに結びつける。前景、中景、遠景といった水平方向の風景がレイヤー状に重なる構成と少し違うのである。
 いいかえれば画家の立つ場所、というより画家自身と、見晴らす限りの世界が切ないまでに連続している。山王はそのように遥かまで眺める歓びを彼にもたらし、画家はもっとも的確な構図と色彩と筆致でそれを表した。

 隔てられた向こうだからこそ、その場所が輝いている風景を絵画史上に探せば、優れた作例はいくらでもあるだろう。たとえば駒井哲郎の最初期の銅版画≪河岸≫(1935)は手前に日本橋川が左右いっぱいに流れている。川に面して大小10あまりの建物がこれも左右いっぱいに隙間もなく肩を寄せ合っている。その一軒が駒井の生家である。15歳の少年が自分の家と隣近所を距離をおいて風景として眺め、その詳細を版に彫る楽しさが文句なく伝わってくる。同じ年に制作された≪船着場のある風景≫も、向こう岸の家並みと船着場と川という構成に加え、前景として手前の岸にもやっている船の一部を見せて、よりオーソドックスな構図であるが、レイヤー状に前、中、後景を重ねた効果を遺憾なく発揮したといえるだろう。
 もうひとつ、唐突な例かもしれないが、ポール・ゴーギャンの傑作≪説教のあとの幻影―ヤコブと天使の闘い≫も、前景の白い頭巾の女たち(画家もそのなかに混じっていると思うほど間近である)と右下から左上に伸びる太い木の幹に対して、右上の小さな空地でヤコブと大きな翼を持つ天使が格闘している。地面は手前からそこまで続いてはいるが、女たちが見守っているのは非地上的、神話的な彼方の出来事である。
 こちらと向こうを一瞬でも隔絶することで日常に相対する詩性の劇的効果をつくり出す。絵画の構図における潜在能力といっていいが、松本竣介はそれを踏まえるように見えながら逆に、こちらと向こうを一体的に結びつけ、思いがけない親密の劇的効果を喚起する。

 1929年、竣介は上京する。まず現・豊島区西池袋、次いで現・豊島区長崎一丁目、そして36年、松本禎子と結婚して、現・新宿区中井に新居を構える。37年には長男・晉が誕生するが翌日に死亡。と年譜にある。この時期の「郊外」シリーズと呼ばれている、≪郊外≫(1937)、≪郊外≫(1938)、≪茶の風景≫(1940)、≪郊外風景≫(1940)などは当時の中井の住宅地の雰囲気を下敷きにしているようだが、山王時代と同じように、画面の中心に垂直に視線軸を置いていると思える。でも実景というよりは画家によって再構築された心象の郊外だろう。≪郊外≫の2作品を見ると左端に脚元をトリミングした木立ち、右端にはそれよりやや先にある木立ち、という構図はそっくり共通していながら、建物がまったく違うからだ。
 「≪郊外≫の犬と遊ぶ子どもの姿には、新生活の夢に邁進するなかで長男を亡くした竣介の哀感の眼差しを感じずにはいられない」と、今回展図録の解説にある。子どもと犬がいる原っぱのすぐ奥には水平に伸びる建築あるいは建築群(コンプレックス)がある。これが画面の前・中景、いいかえれば主景となっているが、山王での解読をそのまま応用すれば「こちら」側はすなわち画家自身の表れである。それは悲しみによって画面下半分を占めるまでに拡がっている。
 その背後の丘陵に点在する家々は、垂直の視線軸に沿ってこちら側とやはり等しく連続している。これは実際に絵と向き合ってとくに感じたことだった。画面全体が緑あるいは青味を帯びた「地」におおわれ、その上にいくつもの建築が「図」として載せられていると見えるが、むしろ建物群を一種の余白として残しながら緑あるいは青味の絵具が分厚く連続して塗られている。この一体化した緑のテクスチャのなかに象嵌されたいくつかの家は、画家の悲しみを受けとめる友人たちのようでもある。しかし予備知識なしに無心に見れば、子どもと犬、主景の建物、後景の家々が木の優しさに囲われた平穏な世界である。その印象は≪茶の風景≫や≪郊外風景≫にも及ぶ。端的にいえばスマートな絵だ。その二重性こそ松本竣介ではないか。
 二重性という表現が適切なのか、というより、松本竣介の天性に早くも言及しようとしてしまったことが、書き手としては気になっている。ようするに彼の絵は一元的には読みとれないと言いたいのだが、その検討はまだ先の段階である。にもかかわらず初期の作品からこの画家の資質に直面せざるを得ない。それが松本竣介なのではないか。
 画家それぞれの資質という問題は、だれもが長く考えてきたにちがいない。たとえばセザンヌとピカソなどはその典型で、なんというか暴力的なまでに内面を表出していた画家が突如、風景や静物という外部を一分の隙もなく構築しはじめる。一方、ティーンエイジャーにしてすでに完璧な古典的写実に達していた画家が突如、終わりのない自己破壊即新らたな写実の創出を開始する。その革新のなかで両者それぞれの資質の起爆力をわが事のように思わざるを得ない。
 見るものを描こうとしたとき、松本竣介の資質はどのように正確に機能したのか。それを肯定するためにとりあえずは二重性という、ばあいによってはネガティブともとれる表現を担保にしたのだが、それほどに難しい問題に書き手は出会ってしまっている。 
 山王では見晴らせるすべてをあるがままに描いていると思えるが、聴覚を奪われた当の画家にとってそれは無音のなかの風景だった。だから画家は丘や道や建物の発する幽かな声に耳をそばだてていたにちがいない。その集中が独自の視軸に重なっているのかもしれない。「郊外」シリーズはそれに続く風景の、明暗の階調が複雑に交叉した作曲とも思えてくる。

 丘上の観測所から尾根づたいに立原道造の詩碑が立つ林、そしてけっこうモダンなデザインの展望台へと、戸村さんは私たちを案内して下さった。木立ちが深くなり街は遠のく。恵まれた都市の規模である。近く銀座の画廊で個展をやるというはなしをきいて、後日、拝見に行った(ギャラリーせいほう5月21日―6月2日)。じつに淡い、だが精緻きわまりない鉛筆の線に誘われて木立ちや野に残る雪が少しづつ姿を現わしはじめている。星降る夜空の作品もある。盛岡の空は今でもこのように夢見ているのだろうか。先日のあわただしい盛岡行きでは見落しているものがまだいくらでもあった。
(2012.6.8 うえだまこと
丘の風景p23edit松本竣介≪丘の風景≫ 
1931年頃
油彩・板
24.0x33.0cm
岩手県立美術館
25edit松本竣介≪山王の街≫
1933年
油彩・板
24.3x33.0cm
個人蔵
盛岡の冬edit松本竣介≪盛岡の冬≫
1931年
油彩・板
24.2x33.2cm
岩手県立美術館
41edit松本竣介≪郊外≫
1937年
油彩・板
96.6x130.0cm
宮城県美術館
43edit松本竣介≪郊外≫
1938年
油彩・板
52.5x72.5cm
個人蔵
44edit松本竣介≪茶の風景≫
1940年
油彩・画布
50.0x73.0cm
岩手県立美術館
45edit松本竣介≪郊外風景≫
1940年
油彩・画布
73.0x91.0cm
岩手県立美術館

*作品図版は「生誕100年 松本竣介展」より転載させていただきました。
*植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」の第二回を掲載しました。
毎月15日に更新予定で、次回は7月15日に掲載します。
植田さんの「美術展のおこぼれ」は引き続き毎月数回、更新は随時行います。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。

*「生誕100年 松本竣介展」は全国5美術館で巡回開催されます。
20120414松本竣介展 表
岩手県立美術館(終了)
2012年4月14日~5月27日

20120609松本竣介展 表20120609松本竣介展 裏

神奈川県立近代美術館 葉山(ただいま開催中)
2012年6月9日~7月22日

宮城県美術館
2012年8月4日~9月17日

島根県立美術館
2012年9月29日~11月11日

世田谷美術館
2012年11月23日~2013年1月14日