植田実のエッセイ
美術展のおこぼれ38

メトロポリタン美術館展

会期:2012年10月6日―2013年1月4日
会場:東京都美術館

 ついこのあいだ「大エルミタージュ美術館展」を見たとき、サブタイトルの「西欧絵画の400年」という数字に威圧されたが(「おこぼれ」34)、対するアメリカの大美術館展のサブタイトルは「大地、海、空―4000年の美への旅 西洋美術における自然」である。メソポタミアのブロンズ装飾(紀元前2600-前2350頃)あたりから、杉本博司の≪ボーデン湖、ウットヴィル≫(1993)あたりまでを網羅しているので、4000年でもまだ控えめな数え方なのだ。いささか怖気づいたが展示構成がよくできていてけっこう楽しかった。
 エルミタージュ展が、16、17、18、19、20世紀と五つの部屋に明快に分けていたのがとても見やすかったのだが、こちらはテーマ別の構成で、
第1章 理想化された自然
第2章 自然のなかの人々
第3章 動物たち
第4章 草花と庭
第5章 カメラが捉えた自然
第6章 大地と空
第7章 水の世界
 これがさらに細分されて、全13セクションをそれぞれ時代を追って見ることになる。今回の展示作品は全133点、各セクションに割り振られた作品は5-16点で平均約10点。その意味では多くはない点数のなかに長い歳月が凝縮している。たとえば第2章2部「狩人、農民、羊飼い」では紀元前14世紀エジプトの大麦のレリーフから始まってゴッホの油彩に至る。第6章3部「空」では12世紀頃のフランスの天使の柱頭を起点としてオキーフが描く骨盤の空洞ごしの青空までを辿る、という具合に。
 セクションごとの古い時代から近・現代までの流れがスピーディで、次々とテーマが切り換わっていく。あわただしく思えるかもしれないが実際に会場を歩くうちに悠久たる時のリズムに乗っている。彫刻、工芸品、タピスリーなど、絵画主体の展示だとどうしても補完的に見えてしまうジャンルのものもこういう構成のなかではうまく織り込まれて興味深く見ることができるし、またこれまであまり知らなかったアメリカ人作家たちの仕事がとても新鮮に思えた。たとえば、トマス・コール、アッシャー・B・デュランド、トマス・エイキンズ、チャイルド・ハッサムなど。ヨーロッパの絵画を受け継ぎつつ、それとは違う風景の感触に切り替えている。19世紀アメリカという時代が垣間見え、メトロポリタン美術館の大きさが序々に迫ってくる。
 当美術館中世美術部門・クロイスターズ美術館担当部長のピーター・バーネットが図録の序論を書いているが、その前半の具体的な沿革史で、いろいろなことがよく分かった。たとえば1960年代の館長トマス・ホーヴィングが企画した「ブロックバスター展」(大量の観客を動員する大型展)には当時批判の声も挙がったが、今日では馴染み深い。ほかの美術館でも当然のようにやっているその源流がここにあったのだ。ニューヨーク5番街の小さなビルからスタートした美術館がおよそ100年後には現在の、ハント父子やマッキム、ミード&ホワイトによる壮麗なボザール様式の建築に成長し、さらにローチ、ディンケルー&アソシエイツによるガラッと現代調の増築棟が加わるが、このローチらを起用したのもさきのホーヴィングだという。建築的側面についてもこのように最小限言及されている。
 敷地20万㎡のなかに建つメトロポリタン美術館の所蔵品は17学芸部門、約200万点。その「百科全書的な広がり」のなかで選ばれた133点は「時系列の提示では、あまりにも散漫になってしまい、魅力的に見せることはできない」ので、上記のような「ゆるやかな方法で枠にはめる必要性があった」と。東京都美術館学芸員の中原淳行の写真セクションについての論文以外は、メイン論文はこのバーネットの「序論」だけである。これも多くの図録のルーティン編集から脱け出して、あとは巻末の作品解説にすべてをゆだねている。執筆者はメトロポリタンのスタッフ40名。
 なんだか数にやたらこだわっているが、この解説がじつに読み応えがあり教えられることが多い。つまり厖大な所蔵品のなかから133点を選び出し筋道をつけるまでの重みがひしひしと伝わってくるからである。解説というよりひとつひとつが掌編論文だ。全体を見渡す総論をいくつも立てるよりもこれらの小さな各論の単位の集積が、あらためてひとつひとつの作品の奥行きを見直す仕掛けになっていて、それが今回の「大地、海、空」展である。日本人にとっては身近な、いや身近すぎてこれまでやや安易にテーマづけしてきたともいえるジャンルだ。この枠にそって日本の美術館や寺院や個人が所蔵している日中韓美術の「大地、海、空」空想展を考えてみたくなった。ハンディとして国宝、重文クラスまで動員すればゼッタイ負けないんじゃないか。
 今回展のなかであえて1点だけ選ぶとすれば、私はティントレットの≪モーゼの発見≫(1570年頃)ですね。滅多に実物を見る機会がないからでもあるが、この作品はとりわけティントレット的特質が発揮された傑作だと思う。ふたりの女性が幼児モーゼを中心に、いいかえればおそるべき運命に直面して身をかがめているその中間に背景の木立ちがもうひとりの人間が割り込んでいるように見えていたり、画面中央に置かれた籠から取り出されようとしている白い襁褓(むつぎ)や、左右の背景に見える釣竿を持った女たちや弓に矢をつがえて鹿を追う男たちを描く妙に素気ない筆づかいのために全体は時間感覚を失った幻影とも思えたりとか、どこか不安感に満たされている。解説はちゃんとこの彼の描き方にも触れていて、「非常に素早い、一見したところでは無意識にも見える筆致、すなわちイタリアで「プレステッツァ(敏捷さ)」と呼ばれる特性」が評判だったらしい。印刷された複製では、彼の有名な「竜を退治する聖ゲオルギウス」や「動物たちの創造」、とくに「聖マルコの遺体を盗み出すヴェネチアの商人たち」や「聖マルコの遺体の運搬」をどうしても絵柄で見てしまうために、異常の印象が強くなる。だからこうしてたまに実物に触れると、絵柄とこまかいところまでの筆致とが相まって体感でき、それは複製でしか見ていないほかの作品にも影響を及ぼす。異常というよりは不安がティントレットの絵に帯電しはじめる。
 不安は永続的に眼の底に根づいていく。それが心のもっとも強固な現実だから。彼の扱う画題は神話や宗教史上の物語なのに、その陰影の深い不安な空気を通して、遠く古い時代という不安までひっくるめた今ある現実として、そこに私を誘いこむ。もしも彼の絵が安定した方向に向かうとしたら、現実は皮を剥ぐように薄れてゆき、物語の形式性に傾いていくだろう。ティントレットの全作品を見ているわけではないが、彼はさいごまで「無意識にも見える」筆を走らせていたと思う。現代画家と見做したくなる所以である。ダリ(とくに初期の)を思い出させるところがあるが、ダリがまず個人的私的な不安を速効的に表したのに対して、ティントレットは人類が共有する物語のなかに迷いこむがごとく踏み入り、そこで見てしまったものを血肉化した。16世紀のイタリア画家たちに通底するともいえる深度がそこにある。
(2012.10.16 うえだまこと

20121006メトロポリタン美術館展 表

20121006メトロポリタン美術館展 中

20121006メトロポリタン美術館展 裏