桐生の大川美術館で開催されている「生誕100年 オノサト・トシノブ」展についての感想を書き出したのですが(前回)、いろいろなことが思い浮かんで何をどう書き進めるか思案投げ首。
20121005オノサトトシノブ展 表20121005オノサトトシノブ展 裏

今回の大川美術館の回顧展が、今までの練馬区立美術館(1989年)、長野県信濃美術館(1992年)、群馬県立近代美術館(2000年)の展示と大きく異なるのはそのセレクションで、1970年代以降の作品はばっさり削り、1955~1959年までの僅か5年間に描かれた「ベタ丸」作品を中心に展示したことだと思います。
上掲のチラシを見ればおわかりの通り、オノサト・トシノブの昨今の市場的評価に見事に対応したセレクションといえますが、ではなぜ1969年以前のものばかりが評価されるのか。
「初期のものがいい」というのは物故作家への定番の言い方で、陳腐でさえありますが、亭主のひとつの推論は1970年代以降、晩年にいたる膨大な作品群がそもそも生前にはちゃんと紹介されなかったことが今日の低評価の原因ではないか。
かく言う亭主だってたまにアトリエに伺い(版画制作のために)、壁面を埋め尽くすそのときどきの新作群を見ていただけで、まめにその変遷をおっていたわけではありません。

そもそもオノサト先生の作風の変遷について、きちんと説明しないと、読んでいる皆さんもなんのこっちゃと思われるでしょう。
作風の変遷について、時代区分を明快に分析したのが、オノサト先生をよく知るコレクター故・藤岡時彦さんでした。
藤岡コレクションとしてご自分の家(マンション)を公開していた藤岡さんが2005年の大川美術館カタログに長文の「オノサト芸術」を執筆されています。
1970年代以降のオノサト先生を最もよく知る立場からの説得力ある指摘なので、ここでは藤岡さんの時代区分を援用・引用させていただきます。
<>内が藤岡さんの文章からの引用です。

第1期 戦前の模索時代(1931~1942年)
600大川美術館カタログより1935~1940年の作品

<具象から始まり、半抽象、1940年には丸や四角による純粋抽象にまで進んでいるが、同時に完全な具象の風景画も制作したりして、画風は一定していない。>

第2期 戦後の模索時代(1949~1954年)
600大川美術館カタログより1949~1950年頃の作品

<帰国してからは、また具象からのスタートであった。やがて半抽象、アンフォルメル風の抽象とさまざまな様式を模索した後、1955年に、1940年に試みたことがある丸の絵のい様式に戻るが、これがその後の大きな発展へのスタートラインとなった。>

第3期 ベタ丸の時代(1955~1959年)
生誕100年 オノサト・トシノブ展 中3
大川美術館カタログより1959年頃のベタ丸作品

<丸を単一の色で塗る方式(オノサトはこれをベタ丸と呼んでいた)は1960年に丸が分割されるまで続いた>

第4期 丸の分割の時代(1960~1968年)
600大川美術館カタログより1961~64年の作品

<1960年に丸の分割が始まって、(中略)最初は意識しないうちに丸がモチーフからルールに転化した><この丸の分割時代はそれ以降1986年にオノサトが死去するまで続く>

第5期 多様化の時代(1969~1980年)
600大川美術館カタログより1970~74年の作品

生誕100年 オノサト・トシノブ展 中1
大川美術館カタログより1974~79年の作品

<1968年の末にオノサトは正方形の卍型分割という新しいシステムを開発した><1969年6月の南画廊での個展には、従来のすべての構成要素を四角のみで作るシステムによる絵とともに、この新システムによる絵も発表した。この卍型分割は以来オノサトのほとんどの絵の基本的な分割方法となった。>

昨今の市場の評価がどうであれ、
ここまでは、オノサト先生の前進に次ぐ前進の時代であったといえるでしょう。

しかしこの時代以降はまたオノサト先生の不遇の時代でもあります。
藤岡さんは以下のように述べています。
<この第5期は今までと比べ大きな環境の変化があった。それはオノサトが現代美術の第一線から一歩も二歩も退き、極論すれば美術界から忘れられたような存在になったことである。その最大の理由は、1969年の個展の後、志水がオノサト展を開催しなくなったので、オノサトが重要な作品発表の場を失ったことである。しかし、他の画廊が「南画廊のオノサト」に手を出すことはタブーであったので、志水が1979年に死去し、同年南画廊が廃業するまで、有力画廊によるオノサト展は実現しなかった。>

第6期 総合の時代(1981~1986年)
生誕100年 オノサト・トシノブ展 中2
大川美術館カタログより1980~86年の作品

<1981年に体調に異変をきたして以来、1986年に亡くなるまで、体力、気力が急速に衰えたオノサトは、時として過去の手法をそのまま繰り返す様になり、新しい、創造的な仕事が少なくなった。
 オノサトルールの多様化、複雑化は功罪相半ばする。これはオノサトの絵に新たなる発展のチャンスを与えたが、一方では自ら創出したルールの多様化、複雑化に振り回され、それの追及に深入りするあまり、袋小路に入り込んだとしか考えられないような絵が、第5期および第6期に非常に多くなったことである。
 オノサトは第3期に自己の方法を見い出して以来、絵が描けなかった時期はない。私は1966年以降39回桐生のアトリエを訪問しているが、一日として絵を描いていないオノサトの姿を見たことはなかった。オノサトのシステムによると、意欲、気力、体力が如何なる状態であれ、毎日、毎日、朝から晩まで、アトリエにひき込もって画架にむかっていたオノサトの絵は、どしどし生み出された。こうして充実して「描いた絵」と、そうでは無く単に惰性で「塗った絵」も、ともにオノサトの作品である。手間のかかる描き方ではあるが、オノサトの絵は数多く残された。
 セザンヌやモンドリアン、その他のヴァザレリやステラなどの他の画家の絵について、驚くほどの審美眼を持ち、適格な評価を下していたオノサトではあったが、不思議なことに、自分の絵のよしあしは全くわからなかったようである。この結果オノサトは、描きあげた自分の絵を取捨選択することは無かった。私はオノサトは生涯に、実に2000点内外の油絵を描いたと推定しているが、その大半はこの第5期及び第6期のものである。
 先に記したように、この時期、大きな発表の機会が少なくなったオノサトは、世の批評にさらされることも少なくなり、時として低迷したのである。
 しかしこの時期のオノサトは、「絵画」の可能性を一歩も二歩もおし進めた独創的な作品を作り出したことを特筆したい。この時代の卍型分割や丸型カンバスの絵の秀れた作品は数少ないが、これらの傑出した作品こそは、オノサトが、それ迄誰も成し得なかった「新しい絵画の世界」を世に示したものとして、今後ますます評価が高まるであろう。

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藤岡さんが万感の思いをこめて書いた通り、南画廊と絶縁した以降のオノサト先生は発表の機会もなく、たまにあってもほとんどは版画展で、オノサトルールによって描かれた膨大な油彩群は公開されず、従って批評の対象にすらならず、後述するように数人のコレクターたちに買われるほかは、むなしくアトリエに積まれたままとなります。

今回大川美術館の思い切りのいい展示を見ながら、亭主はしばし考え込みました。
藤岡さんが<それ迄誰も成し得なかった「新しい絵画の世界」を世に示したものとして、今後ますます評価が高まるであろう>と期待した第5期、第6期の作品群が、今の冷たい評価を潜り抜けて果たして高い評価を獲得することができるのでしょうか・・・・・

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