生きているTATEMONO 松本竣介を読む 6
建築という死と、生(承前)
植田実
松本竣介がなぜ東京駅や国会議事堂を絵の対象にしたのか、そしてなぜあのように描いたのか、それをずっと考えているのだけれどまだよく分からない。
彼は建物が好きだった。自分でもそう文章に書いているし、遺された素描や油彩にもそれは一目瞭然だろう。でも花が好きで花ばっかり、鳥が好きだからその生態までよく観察し、描いて倦むことがない、などというのとすこし違う。彼本来の感じかたや考えかたの構造が建物の存在原理に近い、そんな印象なのである。
そのことを自分なりにすこし整理してみると、ある種の建築はまず観念として存在する。実際に建っていない幻想の、というのではなく、また文章や写真によって心に思い描いていたそれ、というのでもない。後者なら現実の建築と出会ったときにその思い入れの質量がすぐあきらかになる。ようするにパリのノートルダム寺院は予想をこえた美しさだったとか、東京タワーは意外に小さかったとか。でもそういった現実との差異は建築に限ってのことではない。
私が勝手に言っている観念の建築はじつは建築を排除することで成立している。つまり政治とか経済とか文化とかは本来は人の活動であるのだが、それが特定の建築のなかに集約されているのを現実に見るとき、それが単なる建物であることに唖然とするのだ。失望なのではない。それがどれほど堂々とした構えでも建物であること、いや建物でしかないことに変わりはない。新聞やテレビで十分すぎるほどよく知っていても、はじめて現実に出会ったとき、それがまぎれもなく建物であることの不思議さに圧倒されてしまうのだ。
だからある特殊なビルディングタイプに限られるといえるのかもしれない。私はかつて内幸町にあった日本放送協会会館や兜町の証券取引所をはじめて見たときも同じような気持ちに襲われたが、そこには人それぞれの違いがあるだろう。だが誰にも共通するのは、一瞬の感慨の後はそれが存在する事実にたちまち慣れていってしまうことだ。前回に「都市体験の『死』」と書いたのはこのことを指しているわけだが、この種の施設が都市の中枢を形成しているのが東京の特性であり、この慣れを、たとえば地方にたいして優位と思い変えているのが東京に住む人の特性である。だが慣れは無意識裡に真の都市体験を失なった「不本意の日々」を生み出す。不治の病は日々ますます進行する。
松本竣介はそのような意識によってあえて東京駅や議事堂を画題としてそこから意味を剥ぎとり、断片的なタワーやドームだけを残して純粋な建築を描こうとしたのかどうか。少なくとも私が確かだと思うのは、彼が建物を変容させた手法そのものである。なぜなら彼はその後いわば肩書きなど持たない建物や街を、生きている「TATEMONO」として、東京でもどこでもない彼だけの場所に建造してゆくからである。
はなしは変わるが、1960年代ころから建築界の一部でfunctional traditionという言葉がよく使われるようになったことがある。多分イギリスの建築誌などで提唱されはじめたと思うが、「機能的伝統」と直訳された日本語も原語も、いまは手元にある建築論関係の資料を探してもすでに見当たらない。ようするに整合的スタイルに無頓着に、必要な機能をどしどし加えて出来ている、どちらかといえば不格好な町場の建物を見直そうじゃないか、そこに新しい建築への道が開けるという考えである。実際にそういう建築作品が出現する。ジェームズ・スターリングのレスター大学工学部棟とか。ポピュラーなものでは70年代後半に出現するピアノ+ロジャース+アラップによるパリのポンピドーセンター。倉庫みたいな構造体にエスカレーターやダクトが剥き出しのまま取り付けられて建築の内外観になっている。ただこれをまた新しい時代の「スタイル」だとして安易に設計に取り入れれば、建築の道は再び閉じてしまう。
もうひとつ、同じころanonymous(無名の、匿名の)という言葉を、おそらくはイタリアの建築雑誌だったと思うが小さな記事に見つけたときの驚きはいまも忘れられない。建築作家によるという格づけを外した集住体づくりの主張だったが、アノニマスという未知の形容詞がじつに新鮮だった。この言葉はその後はずっと蔓延してきて、アノニマス的な設計を心掛けたというような建築家のコメントがあったりする。これに前後してバーナード・ルドフスキーの「Architecture without Architects」(1964)という、近現代的範疇における建築家の関与から逃れた古今東西の建築がいちばん美しく内容があるんじゃないか、というダメオシ的写真展と図録がニューヨーク近代美術館で実現され出版された。この図録の邦訳『建築家なしの建築』(渡辺武信訳)は当時私が編集に関わっていた「都市住宅」(鹿島出版会発行)という雑誌の別冊として刊行され、のちに同出版会のSD選書に収められていまも読まれているはずである。
はなしが脇道に外れた。私が驚くのは松本竣介がそうした建築界における意識の覚醒に先行するような絵を1940年以降、集中的に描いていたことである。無名の、あるいは建築家のない建築は、多くの画家も共通して風景画のなかに取り入れている。しかし竣介の作品は風景画というより建物画あるいは土木構築物画である。とくに工場、運河、鉄橋付近などを描いたものがそうだが、建物を真正面から描いている以上に建物を風景のなかから自立させている。それには建物にひそんでいるもっとも強い力を取り出す必要がある。その選択眼がさきに触れたfunctional traditionに重なるように思えるのである。
《霞ヶ関風景》(1943)と題された素描は「霞ヶ関ビルディング」の看板を掲げた建物を描いているが、まず目につくのはその外壁に沿って剥き出しに立ち上がる長短6本のストーブ煙突である。これを設計した者から見れば建物の美観を台無しにしている。でもこれを取り除いたら絵としてはあまり面白くない。油彩の《運河風景》(1943)では運河に面した画面右手の建物からも煙突が1本、上に突き出ているが、逆に壁から下向きに伸びた黒い2本のパイプも見える。屋上に溜まった水を、パラペットの下端に穿った孔からパイプを通して抜く工夫らしい。パイプの先端部は壁から離すようにくの字に折れている。汚れた水を壁にかからないように運河に直接落とすためだろうが、こんな強引で愉快な仕掛けは今は見ることが少ない。素描の《運河風景a》とそのヴァリアント(ともに1941)では建物の一部が運河に突き出ている。建物全体に曲面を使った表現主義ともいえる面白いかたちだが、突き出た部分は床底が口を開いて、背後の工場か倉庫から出された荷を真下の桟橋か艀に直接下ろせるようになっているようにもみえる。こんなふうにしたたかで手応えのある建物を探して画家は東京のあちこちを歩いていたにちがいない。
松本竣介
《霞ヶ関風景》
1943
鉛筆・墨・紙
32.7x58.0cm
茨城県近代美術館
松本竣介
《運河風景》
1943
油彩・画布
45.5x61.0cm
個人蔵
松本竣介
《運河風景a》
1941
鉛筆・コンテ・紙
38.0x45.7cm
大川美術館
建物に自分の心象を託すのとは反対に、むしろ心象に逆らう建物の外力を、画家は克明に辿っている。でもそれはノイズのままではなく絵に純化されている。電柱もこの時期の作品に多く登場するが、それらを結ぶ電線はほとんど省略されているから幾本もの孤立した黒い垂直線が、高い煙突や外灯や信号機などと一緒に虚空の静けさを際立てている。朝井閑右衛門や泉茂が電線の旺盛なノイズを楽しんで描いたのとは対照的だ。ついでに思い出したのは1948年(偶然だが竣介逝去の年)の伊藤大輔の名作「王将」の冒頭が、四方に電線を張り渡した1本の電柱を下から見上げるショットだった。それに続いて大阪・天王寺の貧民街が現れる。長い線路ぎわに立ち並ぶ電柱群は貧しさに追いつめられた悲しみの表象である。
松本竣介
《駅》
1942
油彩・板
38.0x45.6cm
福島県立美術館
松本竣介の電柱は寂しげにもみえるが、童話風ともいえる。またしつこく言うけれど宮澤賢治の描いた歩く電信柱の絵の童話風ともまったく違う。ようするに建物およびその構成要素の野生を、ひとつは生々しく写実風に描く方向と、もうひとつは屋根や壁や窓を建物の現実から遠ざけて、角錐や長方体その他幾何学形体の集合のように抽象的に単純に描く方向との、二方向のなかに竣介の絵は架け渡されている。そこに彼独自の遠近が生じ、その距離が的確なスピードで見る者に届く。松本竣介の描いたものに旋律を感じる一瞬である。
(2012.11.26 うえだまこと)
*11月に休載した第6回を変則ですが本日掲載させていただき、12月15日に第7回を掲載します。
*明日のブログは、小林美香のエッセイ「写真のバックストーリー」第27回カリン・シュケシーを掲載します。
*ときの忘れものは本日(9日)と明日(10日)は休廊です。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。

前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
●『松本竣介展』図録
価格:800円(税込、送料無料)
執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
*お申し込みはコチラから。
建築という死と、生(承前)
植田実
松本竣介がなぜ東京駅や国会議事堂を絵の対象にしたのか、そしてなぜあのように描いたのか、それをずっと考えているのだけれどまだよく分からない。
彼は建物が好きだった。自分でもそう文章に書いているし、遺された素描や油彩にもそれは一目瞭然だろう。でも花が好きで花ばっかり、鳥が好きだからその生態までよく観察し、描いて倦むことがない、などというのとすこし違う。彼本来の感じかたや考えかたの構造が建物の存在原理に近い、そんな印象なのである。
そのことを自分なりにすこし整理してみると、ある種の建築はまず観念として存在する。実際に建っていない幻想の、というのではなく、また文章や写真によって心に思い描いていたそれ、というのでもない。後者なら現実の建築と出会ったときにその思い入れの質量がすぐあきらかになる。ようするにパリのノートルダム寺院は予想をこえた美しさだったとか、東京タワーは意外に小さかったとか。でもそういった現実との差異は建築に限ってのことではない。
私が勝手に言っている観念の建築はじつは建築を排除することで成立している。つまり政治とか経済とか文化とかは本来は人の活動であるのだが、それが特定の建築のなかに集約されているのを現実に見るとき、それが単なる建物であることに唖然とするのだ。失望なのではない。それがどれほど堂々とした構えでも建物であること、いや建物でしかないことに変わりはない。新聞やテレビで十分すぎるほどよく知っていても、はじめて現実に出会ったとき、それがまぎれもなく建物であることの不思議さに圧倒されてしまうのだ。
だからある特殊なビルディングタイプに限られるといえるのかもしれない。私はかつて内幸町にあった日本放送協会会館や兜町の証券取引所をはじめて見たときも同じような気持ちに襲われたが、そこには人それぞれの違いがあるだろう。だが誰にも共通するのは、一瞬の感慨の後はそれが存在する事実にたちまち慣れていってしまうことだ。前回に「都市体験の『死』」と書いたのはこのことを指しているわけだが、この種の施設が都市の中枢を形成しているのが東京の特性であり、この慣れを、たとえば地方にたいして優位と思い変えているのが東京に住む人の特性である。だが慣れは無意識裡に真の都市体験を失なった「不本意の日々」を生み出す。不治の病は日々ますます進行する。
松本竣介はそのような意識によってあえて東京駅や議事堂を画題としてそこから意味を剥ぎとり、断片的なタワーやドームだけを残して純粋な建築を描こうとしたのかどうか。少なくとも私が確かだと思うのは、彼が建物を変容させた手法そのものである。なぜなら彼はその後いわば肩書きなど持たない建物や街を、生きている「TATEMONO」として、東京でもどこでもない彼だけの場所に建造してゆくからである。
はなしは変わるが、1960年代ころから建築界の一部でfunctional traditionという言葉がよく使われるようになったことがある。多分イギリスの建築誌などで提唱されはじめたと思うが、「機能的伝統」と直訳された日本語も原語も、いまは手元にある建築論関係の資料を探してもすでに見当たらない。ようするに整合的スタイルに無頓着に、必要な機能をどしどし加えて出来ている、どちらかといえば不格好な町場の建物を見直そうじゃないか、そこに新しい建築への道が開けるという考えである。実際にそういう建築作品が出現する。ジェームズ・スターリングのレスター大学工学部棟とか。ポピュラーなものでは70年代後半に出現するピアノ+ロジャース+アラップによるパリのポンピドーセンター。倉庫みたいな構造体にエスカレーターやダクトが剥き出しのまま取り付けられて建築の内外観になっている。ただこれをまた新しい時代の「スタイル」だとして安易に設計に取り入れれば、建築の道は再び閉じてしまう。
もうひとつ、同じころanonymous(無名の、匿名の)という言葉を、おそらくはイタリアの建築雑誌だったと思うが小さな記事に見つけたときの驚きはいまも忘れられない。建築作家によるという格づけを外した集住体づくりの主張だったが、アノニマスという未知の形容詞がじつに新鮮だった。この言葉はその後はずっと蔓延してきて、アノニマス的な設計を心掛けたというような建築家のコメントがあったりする。これに前後してバーナード・ルドフスキーの「Architecture without Architects」(1964)という、近現代的範疇における建築家の関与から逃れた古今東西の建築がいちばん美しく内容があるんじゃないか、というダメオシ的写真展と図録がニューヨーク近代美術館で実現され出版された。この図録の邦訳『建築家なしの建築』(渡辺武信訳)は当時私が編集に関わっていた「都市住宅」(鹿島出版会発行)という雑誌の別冊として刊行され、のちに同出版会のSD選書に収められていまも読まれているはずである。
はなしが脇道に外れた。私が驚くのは松本竣介がそうした建築界における意識の覚醒に先行するような絵を1940年以降、集中的に描いていたことである。無名の、あるいは建築家のない建築は、多くの画家も共通して風景画のなかに取り入れている。しかし竣介の作品は風景画というより建物画あるいは土木構築物画である。とくに工場、運河、鉄橋付近などを描いたものがそうだが、建物を真正面から描いている以上に建物を風景のなかから自立させている。それには建物にひそんでいるもっとも強い力を取り出す必要がある。その選択眼がさきに触れたfunctional traditionに重なるように思えるのである。
《霞ヶ関風景》(1943)と題された素描は「霞ヶ関ビルディング」の看板を掲げた建物を描いているが、まず目につくのはその外壁に沿って剥き出しに立ち上がる長短6本のストーブ煙突である。これを設計した者から見れば建物の美観を台無しにしている。でもこれを取り除いたら絵としてはあまり面白くない。油彩の《運河風景》(1943)では運河に面した画面右手の建物からも煙突が1本、上に突き出ているが、逆に壁から下向きに伸びた黒い2本のパイプも見える。屋上に溜まった水を、パラペットの下端に穿った孔からパイプを通して抜く工夫らしい。パイプの先端部は壁から離すようにくの字に折れている。汚れた水を壁にかからないように運河に直接落とすためだろうが、こんな強引で愉快な仕掛けは今は見ることが少ない。素描の《運河風景a》とそのヴァリアント(ともに1941)では建物の一部が運河に突き出ている。建物全体に曲面を使った表現主義ともいえる面白いかたちだが、突き出た部分は床底が口を開いて、背後の工場か倉庫から出された荷を真下の桟橋か艀に直接下ろせるようになっているようにもみえる。こんなふうにしたたかで手応えのある建物を探して画家は東京のあちこちを歩いていたにちがいない。
松本竣介《霞ヶ関風景》
1943
鉛筆・墨・紙
32.7x58.0cm
茨城県近代美術館
松本竣介《運河風景》
1943
油彩・画布
45.5x61.0cm
個人蔵
松本竣介《運河風景a》
1941
鉛筆・コンテ・紙
38.0x45.7cm
大川美術館
建物に自分の心象を託すのとは反対に、むしろ心象に逆らう建物の外力を、画家は克明に辿っている。でもそれはノイズのままではなく絵に純化されている。電柱もこの時期の作品に多く登場するが、それらを結ぶ電線はほとんど省略されているから幾本もの孤立した黒い垂直線が、高い煙突や外灯や信号機などと一緒に虚空の静けさを際立てている。朝井閑右衛門や泉茂が電線の旺盛なノイズを楽しんで描いたのとは対照的だ。ついでに思い出したのは1948年(偶然だが竣介逝去の年)の伊藤大輔の名作「王将」の冒頭が、四方に電線を張り渡した1本の電柱を下から見上げるショットだった。それに続いて大阪・天王寺の貧民街が現れる。長い線路ぎわに立ち並ぶ電柱群は貧しさに追いつめられた悲しみの表象である。
松本竣介《駅》
1942
油彩・板
38.0x45.6cm
福島県立美術館
松本竣介の電柱は寂しげにもみえるが、童話風ともいえる。またしつこく言うけれど宮澤賢治の描いた歩く電信柱の絵の童話風ともまったく違う。ようするに建物およびその構成要素の野生を、ひとつは生々しく写実風に描く方向と、もうひとつは屋根や壁や窓を建物の現実から遠ざけて、角錐や長方体その他幾何学形体の集合のように抽象的に単純に描く方向との、二方向のなかに竣介の絵は架け渡されている。そこに彼独自の遠近が生じ、その距離が的確なスピードで見る者に届く。松本竣介の描いたものに旋律を感じる一瞬である。
(2012.11.26 うえだまこと)
*11月に休載した第6回を変則ですが本日掲載させていただき、12月15日に第7回を掲載します。
*明日のブログは、小林美香のエッセイ「写真のバックストーリー」第27回カリン・シュケシーを掲載します。
*ときの忘れものは本日(9日)と明日(10日)は休廊です。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。

前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
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執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
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