生きているTATEMONO 松本竣介を読む 8

巡回展が終わった
植田実

 その画家の名を知らないわけではなかったし、作品もいくつかは見てはいたものの、松本竣介について書くことなど思いもよらなかった私がいきなり綿貫不二夫さんから10回ぐらいの連載をやれと言われ、西も東も分からないままに松本竣介生誕100年を記念する大回顧展の第一会場である岩手県立美術館に連れていかれたのはつい先日のことであったのに、もう五美術館を巡回して終わりの日を迎えている。あっと言う間だ。こちらはまだ何も始まっていない。予備知識もろくにないままにそれぞれの美術館を訪ねた。その巡回展のリストをまずまとめておく。

 第1会場 岩手県立美術館 2012年4月14日-5月27日
 関連イベントとして、
 開幕記念対談「竣介が生きた時代」松本莞・寺田農 4月14日
 講演「竣介があるいた街、東京」川本三郎 4月29日
 講演「松本竣介と「社会」-絵画という橋に立つひと-」小沢節子 5月13日
 館長講座「松本竣介のこと-中野淳氏に聞く」原田光・中野淳 5月26日

 第2会場 神奈川県立近代美術館 葉山 2012年6月9日-7月22日
 関連イベントとして、
 講演「松本竣介と都市風景の発見」海野弘 7月7日
 講演「松本竣介とその時代」長門佐季 7月14日

 第3会場 宮城県美術館 2012年8月4日-9月17日
 関連イベントとして、
 対談「松本竣介の絵画が今、私たちに語りかけるもの」松本莞・佐伯一麦 8月4日
 まちなか美術講座「生誕100年 松本竣介の魅力」加野恵子 8月11日

 第4会場 島根県立美術館 2012年9月29日-11月11日
 関連イベントとして、
 講演「父・竣介、母・禎子、そして松江のこと」松本莞 9月30日
 講演「松本竣介という画家 わたしたちの同時代人として」水沢勉 10月14日
 美術講座「松本竣介-その多彩な表現・多様な魅力」柳原一徳 11月3日

 第5会場 世田谷美術館 2012年11月23日-13年1月14日
 関連イベントとして、
 講演「松本竣介の生涯と作品」粟津則雄 11月24日
 対談「画家・竣介の実像、生活と芸術と」中野淳・松本莞 12月15日
 
 関連イベントの項は各美術館発行のパンフレットから拾っている。松本莞さんの講演と対談にはすべて参加できたのと、海野弘さんのお話も聴くことができたのが収穫だったが、そのほかの講演もタイトルがいかにも魅力的で、聴き逃したのが残念だ。これだけ多角的でヴィヴィッドな松本竣介論考集は五つの美術館でまとめて共同出版したらよいのにと思うがそう簡単にはいかないだろう。で、一応タイトルと講演者名を記録として書き並べてみた。

 同じ作品が、会場によって微妙に印象が違うことにもはじめて意識した。第3会場の宮城県美術館まではそのことに触れたが、そのあとの島根県立美術館と世田谷美術館の対照もおもしろかった。まず設計者が島根は菊竹清訓、世田谷は内井昭蔵。内井さんは菊竹さんの設計事務所のスタッフを長年勤めたのちに独立した。だから師弟のふたりがそれぞれ個性的な空間に松本作品を迎えいれたともいえる。
 島根は菊竹さんの晩年の仕事で、宍道湖の岸辺に、その地形をなぞるように大きく不整形な曲面の屋根を拡げている。入口ロビーも広く、なかに入ると視界が湖の水面で満たされている。莞さんが「企画展示室はややコンパクトで」と言われていたように、壁に架けられた絵の間隔が僅かにつまってみえる。だがそれが竣介の絵の本来的な親密さを高めているとも思えるのだ。一方の世田谷は幹線道路と清掃工場・卸売市場とにはさまれた砧公園のなか、というアクセスの難しい立地で公園を引き立てるような形態と緻密なディテールに腐心した、内井さんらしさがよく発揮されている建築だが、なかでも特徴的な四分の一円形の展示室は、どの企画展でも否応なくそこで劇的効果をあげることになるという、これはメリットなのか制約なのか、いつも考えさせられる。今回は予想どおり4点の「画家の像」。大舞台でも臆することなく立っている。ふたつの美術館であらためて竣介の絵の見えかたの幅の広さというか、展示される場所に応じてその場所にふさわしくイメージを切り換えられる弾力性に気づかされた。
600島根県立美術館
(撮影:植田実)
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600世田谷美術館
(撮影:植田実)
setabi

 一方、東京国立近代美術館での開館60周年記念特別展(2012年10月16日-13年1月14日)には巡回展のラインナップから外れて一足早く家に戻ってきたみたいな感じで、竣介の特徴をよく伝える≪並木道≫(1943頃)と、遺作となった≪建物≫(1948)が、「ベストセレクション 日本近代美術の100年」のなかにどう位置づけられているかが迫ってくるように展示されている。画家の展開を内側から辿る巡回展で見ていた同じ作品がまるで違って感じられるのだ。その第II部の「実験場1950s」では鶴岡政男による油彩≪松本竣介の死(死の静物)≫(1948)に言葉を失った。このような絵が描かれていたとは思いもよらなかった。

 もうひとつ、ときの忘れものでの「松本竣介展」がある。2012年12月14日-29日(前期)、2013年1月9日-19日(後期)も終わりに近い。12月14日のオープニングに出かけて行った。素描30点を前・後期に分けて展示している。油彩などと並ぶとどうしても補完的なものとして見てしまいがちな素描が、生活空間ともいえる画廊ではゆっくり観賞できる、いや素描と同居しているような環境のなかで、竣介の線は次々と新しく現れてくる。
03ときの忘れもの「松本竣介展」
展示風景
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 これらの作品は額装される前に先立って見せてもらっていたのだが、1998-99年に、練馬区立美術館、岩手県民会館、愛知県美術館で催された、没後50年を記念しての「松本竣介」展の図録と、さらに遡って1977年、綜合工房から出版された大判の「松本竣介素描」とをこのオープニングのときはじめて手にしたのである(この2冊、さっそく買わせていただきました)。
 この連載にあたって綿貫さんからまず見せられたのが、昨年の春、岩手に向かう新幹線のなかで、やはり綜合工房によるスケッチ帖の復刻セット。岩手県立美術館では当然、今回展の図録と、松本竣介の文集『人間風景』をミュージアム・ショップで見た。そして帰京後に、上の2冊に加えて送られてきた、
 朝日晃『松本竣介』日動出版部 1977年
 村上善男『松本竣介とその友人たち』新潮社 1987年
 中野淳『青い絵具の匂い 松本竣介と私』中公文庫 1999年
 を読んで、私は松本竣介の絵を見始めることになった。いいかえれば、いかに少ない資料を踏まえただけで勝手なことを書いてきたか、竣介をよく知る方々には申しわけなく思う一方、先入観をほとんど持たないままに自分なりの見方をしてきたのはかえってよかったとも思う。綿貫さんもその辺はお見通しだったにちがいない。
 それにしても、ときの忘れものの竣介展図録に彼の線描についての小文を書かされたあとに、没後50年展図録と「素描集」で、彼の素描作品はまだこんなにたくさんあるよ、と見せられたときはいささかショックだった。没後50年展の図録はとてもよく出来ている。油彩の色や筆致の再現性が素晴らしいし、私が気になっていた≪三人≫と≪五人≫の関係≪Y市の橋≫の写実と脚色についての精密な論考もあった。もうひとつ興味をひかれたのは≪西銀座風景≫(1941)というペンの素描に水彩と油彩を施した作品(今回は展示されていない)である。「解放された線がのびのびと画面をかけめぐりながら街角の光景を再現している(村上博哉)」と解説されている。見るなり、左側の建物は徳田ビルじゃないか。このこともすでにどなたかが指摘されているのかもしれないが、私としてはとくに思い入れのある建物である。2階から5階、さらにペントハウスまでほぼ四面全体をぐるりと、連窓とベルト状の壁で層をなすようにデザインされている。しかも角に丸味をつけられ、屋上にタワーが聳えているところまで的確に描かれている。建物の左側が空白となっているのはそこが泰明小学校の校庭だからだ。建築家・土浦亀城がフランク・ロイド・ライトのもとで修行して帰国後5年目に設計し完成した(1932)。「昭和以降の日本でいちばん美しい併用住宅は、といわれれば、私の勝手な好みとして即答できる」と、拙著『集合住宅物語』のなかで徳田ビルを挙げ、オーナー徳田鐡三の子息でありそこに住んでおられた肇さんにインタヴューして、覚えておられる限りのことを話していただいた(1999)。その頃には所有者が変わり、窓枠や壁面も一変して尾羽打ち枯らした姿ではあったが、まだ建っていた。今は無い。私の取材記事をとても喜んでおられたという肇さんも亡くなられた。
 小さいけれどそのモダンさが際立っていたビルだったと思う。小松崎茂がそれをみゆき通りから見た姿を例の写実的なスケッチで記録しているし(昭和初期)、木下恵介の「お嬢さん乾杯」(1949)のラストシーンでは、やはりみゆき通りの突き当たりに徳田ビルが現れる。
 竣介の≪西銀座風景≫は徳田ビルが面しているみゆき通りと斜交いに連らなる数奇屋通りの先に、都心環状線越しの現在の有楽町マリオンの方向を、たぶん見ている。そこには朝日新聞社と日本劇場があった。半円形あるいは円形の小窓が連らなり、新聞社には塔屋があった。画面中央の道路の先に見えるのはそれらしいイメージとも思える。だがそこに立ちどまっていたらこうは見えない。歩きはじめるとすぐ見えてくる。だから動きのなかにあるが心象としては静止し、こちらから向こうまで連続して道が拡がっている。
600松本竣介
≪西銀座風景≫
1941年
水彩・油彩、紙
25.5x34.5cm
百点美術館
(『没後50年 松本竣介展』(1998) 共同通信社 148頁より)
 
徳田ビル徳田ビル
(植田実『集合住宅物語』(2007) みすず書房 83頁より)
 と書いて気がついたのだが、例の新宿のガードの向こうに神田のニコライ堂が見える油彩≪ニコライ堂≫(1941頃)などは、異なる場所をコラージュして緊張感と劇性を高める、つまり切断と縫合の手法と思いこんでいたのだけれど、画家にとっては新宿から神田を心のうちに眺めた、いわば連続した風景ともいえるのではないか。≪ニコライ堂と聖橋≫(1941)も、聖橋とあえて具体的な名を挙げながら、二連アーチで完結している橋(つまり眼鏡橋)とも思えるように描いている。神田川はお茶の水駅のところで深い峡谷になっているから実際の聖橋(1927完成、山田守設計)は大きな拠物線アーチで両岸を一跨ぎして、橋詰のところで補助あるいは余韻としての小さなアーチを陸側に繰り返しているにすぎない。それを橋の全体像のように描いたとすれば、竣介の聖橋の下に流れているのは他の作品にも屡々登場する浅い川あるいは運河であり、そんな身近な流れの岸からニコライ堂を眺めていることになる。ひとつの橋の二重の表れに、やはり場所の連続性を感じてしまう。

600松本竣介
≪ニコライ堂≫
1941年頃
油彩・画布
37.8x45.3cm
宮城県美術館
600松本竣介
≪ニコライ堂聖橋≫
1941年
油彩・板
37.7x45.0cm
東京国立近代美術館

 数奇屋橋界隈のようないわば名所を画題にしている竣介作品は少ない。街の裏側や名もなき建物をかっちりと描く線とは違う西銀座の素描は、たしかに「のびのびと」「かけめぐ」る「解放された線」によっているが、同時に、よく知られている華やかな建物群のイメージを攪乱し、ずらしながら、心象としての街角に移しかえていく線の表れとも思えるのである。

 どの美術展に行っても、これであの実物にお目にかかることができたという満足感が残るのだが、今回の松本竣介展は五美術館(館によっては数回)を訪ねたせいか逆に、もうこれで実物にまとめて接する機会は終わりだという寂しさが迫ってくる。見落したことがまだいくらでもありそうだ。でももう少し書き続けさせてもらいます。
(2013.1.9 うえだまこと

*画廊亭主敬白
大雪をついて植田実先生も最終日を迎えた世田谷美術館に向かったことは昨日のブログに書きましたが、その後ファックスで続報がありました。
<帰りは歩いてなんとか用賀に辿りつきました。L.L.Beanブーツの威力です。4時半頃美術館を出たのですが、その頃でも雪のなかを平然とやってくる来館者たちにびっくり。松本竣介の威力です。
帰ってから、吹雪のなかの美術館の写真1点をカミさんに頼んでメールでそちらに送ってもらいました。 植田実>
世田谷美術館植田撮影600
九ヶ月に及んだ巡回展の最終日は爆弾低気圧による大雪。
2013年1月14日世田谷美術館
撮影:植田実

◆ときの忘れものは、1月9日(水)~1月19日まで素描による「松本竣介展(後期)」を開催しています。
DMの代わり(後期)
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
『松本竣介展』図録
価格:800円(税込、送料無料)

執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
*お申し込みはコチラから。

●ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを特別頒布しています。