植田実のエッセイ
美術展のおこぼれ40
「生誕120年 木村荘八展」
会場:東京ステーションギャラリー
会期:2013年3月23日―5月19日


本業の建築関係の用事に振りまわされて、ちょっとのあいだこの欄を休んでいたつもりが、気がついてみると4ヵ月以上も空いていたのに驚いた。理由はほかにもあって、同じときの忘れものでの連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」に気持ちが入りこんでしまってなかなか脱け出せない。
それも、そろそろ終わりが見えてきて、第12回では竣介が編集・発行した月刊誌『雜記帳』(1936年10月―39年12月)を読みはじめている。その第5号(37年2月号)に木村荘八がデッサンとエッセエを寄稿している。「降誕祭 夕」と題されたそれは、三田通りのレストラン内の賑わいを洒脱なタッチで描き、クリスマスという行事は「日本の、西洋好みの、餘程烈しい一つの異例として、後世の史家に點檢される現象でせう。實は却つてクリスマスは段段すたるんぢゃないかと思はれます」と書いている。いまの日本でも相変わらずのクリスマス騒ぎを見たら、画家はどう思うだろうか。
竣介は東京生まれではあるが、物心がつく前に家族とともに岩手に引越し、東京に戻ってくるのは17歳のときだから、彼の描いた東京風景は初めて遭遇した新しい世界を散策者としてあるいは旅人として、あるいは異邦人としての詳細かつ発見的な記録、つまりは外から見た風景といってもいい。
これにたいして竣介よりほぼ20歳年上の木村荘八は東京日本橋の牛肉店「いろは」で生まれ、その家業の環境のなかで育つ。ハイティーンのころは萬鐵五郎や岸田劉生など当時の前衛にたいする意識が強かったようだが、1930年代に入ると≪歌妓支度≫、≪牛肉店帳場≫、≪浅草寺の春≫など、私たちにとって親しい「荘八の世界」が現れてくる。彼は40歳を迎えている。あまりにも自分そのものの記憶であるために外部において成立する作品としては本来は描けないものを描くために、いいかえればたんなる「懐しさ」に堕さないために、荘八は記憶に虚構性あるいは記憶から微妙に隙を空けたシナリオを介入させることによって懐しい光景を強靭化した。いや、内側からの東京を辛うじて絵にすることができたというべきか。
そして荘八が『雜記帳』に寄稿した1937年は、あの『濹東綺譚』の挿絵が登場した年でもある。今でも受け継がれている新聞の連載小説に説明的な絵をつけるという形式にとくに人物描写は見事に応えていると同時に、家々やまちの様子はたんなる説明をこえた異常な密度で描き込んでいる。硬質な線を銅版画のように張りめぐらし、小塔が並び連なるような家並み、どの路地にも共通する底知れない奥の気配は、ドイツ表現主義の絵画や映画のセットみたいに、ただの写実を突き抜けるような迫力がある。でもそれは紛れもない東京の今は失われた風景なのだ。荘八の内側からの東京の描きかたを、そのように辿るしかない。
生粋の東京人、風俗画の名手などと呼ばれる木村荘八像はある意味で明快である。絵も文章もシャキッとしている。でも本当は幻視の人ではなかったか。絵になり得ない絵を、空しいまでに、しかし決してあきらめずに見続けていたのではなかったか。それを裏づけるように思われるのが最初期から最晩年まで断続的に描き継がれていた油彩である。1910年代の≪日比谷公園≫、≪虎の門付近≫、≪窓外屋根≫、≪樹の風景≫、≪坂のある風景≫、≪大学構内≫、20年代の≪於東京帝大構内≫、そして40年代50年代にかけての≪庭日沒≫、≪風吹く≫、≪窓外風景≫、≪和田日沒≫、≪新宿遠望≫等々、建物や樹木を一応題材としているが、いわゆる絵画としての構図や筆致が支えようもなく押し流され消失する瞬間だけを捉えている眼差し、いいかえれば風景が風景としてある根を刈り取って、自律的な諧調の色彩や輪郭線という要素にシフトし、その結果として建物や樹木を写実の外に生かしている眼差しを感じてしまう。眠りから目覚めた瞬間、それまで唯一の現実だった夢がもう絵にも文章にもとどめられない感覚に近いというか。作品タイトルにもうかがわれるように、風の、日沒の、遠くの、窓外の一瞬を追っている。すなわち自分の内側を幻視している。
ごく当然のものとして自分が生きてきた時間を突然眼に見える絵画として考えたとき、どういう折り合いがつくのか。木村荘八の作品は切実で不思議な位相のなかに見えてくる。
(2013.5.22 うえだまこと)
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植田実のエッセイ
美術展のおこぼれ41
「生誕百年 桂ゆき―ある寓話―」
会場:東京都現代美術館
会期:2013年4月6日―6月9日

その第1室に入るなり嬉しくなった。最初期の日本画習作やコルクのコラージュと並んで、松本竣介の編集・発行による『雜記帳』のために描かれたデッサン2点と習作1点が壁にある。桂ゆきは引き裂いた風景写真や布やコルク片をランダムに、だが椆密に貼り合わせる試作を手がけ(海老原喜之助がそれはコラージュという手法なんだよと彼女に教え、その初個展を支持して実現させたエピソードは素敵だ)、それをそのまま克明に描き写してもうひとつの作品としている、その最初(たぶん)のデッサンが『雜記帳』に寄せられたのである。今回展示されているその原画は、新しい時代をどんな先入観も知識もなしで彼女が直感的に捉えた兆しでもある。『雜記帳』の誌面のフレッシュな感触もさらに生きいきと蘇ってきた。
この画家の名を知ったのは≪進め≫(1952? 今回は展示されていない。人参を鼻先にぶら下げた馬の絵柄。図録にはそれが花田清輝の著書『政治的動物について』のジャケットに使われた写真が載せられている)≪みんならくじゃない≫(1954)、≪虎の威を借りた狐≫(1955)などによるが、それは桂ゆきという名だけにとどまらず、私にとっては大きな窓が開いて見えてきた戦後の新しい絵画の名でもあった。今回の回顧展では彼女の一貫した手法がじつはすでに1930年から、そして最晩年の90年までほとんどブレることなく高いテンションを保ったまま維持されていたことをあらためて教えられる。いいかえれば桂ゆきのどの時代もどの作品も文句なく私は好きなのだが、でもベストはと言えば上の3点あたりになってしまう。
「あるとき二階から屋根瓦を目近く見下していて、あるショックみたいなものを感じた。同形の瓦の起伏が規則的に際限もなくひろがっている、といっただけのことだったが、私は瓦とは関係のないある画面みたいなものを予感して、なんとなくガタガタ身がふるえた」(『美術手帖』1979年7月 今回展図録に収録)と画家自身が回想する特異な視覚によって、コルク片はもとより木株、着物の布地、新聞紙、花、野菜、魚からなんでもかでも全て押しつぶしたような細密な断片が「際限もなく」集積されてゆくのだが、それらは真っ当な作品へと傾斜しているといっていい。そして時代を追ってさらに自由闊達な昔話的色合いを帯び、大根や薩摩芋や人参や野の花と共棲する、桂キャラとでも呼べそうな、とぼけた目玉の愉快な鳥や動物や、そのなかに同化していく生きものたちの別天地もつくり出されている。マンガチックでもあり、とんでもなく楽しい。
けれども上の3点、つまりスーパーリアリズム風に描かれた籐の籠や藁編みの綱のかたまりが突然パカッと割れて、いたずら描きみたいな単純な線の馬や狐につなげられる独自の分割と連結は、絵画でもマンガでもない、桂だけの世界が決定している。そこでは細密描写の重厚と単線描きの軽妙とが同じ力でぶつかり合っているように見えながら、全体はいわばいたずら描きの方向性に支配されている。むしろ細密描写がその方向へと加速しているのだ。
結果としてその絵はあるメッセージを伝えようとしているのだが、私はそうした解読にうかうかと乗じたくはない。どうしたって権力への告発とか諷刺とかいった常套的な見方に陥ってしまうからだ。そんなものを超えて彼女の作品のすべてに漲る、子どもでも分かる幸福感、その絵を見る幸福感というよりその絵と一緒にいる幸福感をこそ、まったく別のアングルから解読したいのだが手がかりがまだ見つからない。とりあえず考えたのは、今回の展示会場にたくさんの椅子やベンチ(背のあるのがいい)をバラバラの向きで配置する。作品観賞にはこれまでどおりの動線を確保して、それとは別に桂ゆきの作品のある空間をひとときでも生活できる場所に切り換える。美術館的展示では見えにくい桂ゆきの身体性を、それなら感じることができるんじゃないか。そんな空想に襲われたのだけれど。
(2013.5.25 うえだまこと)
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*久しぶりの植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、二回分を一度に掲載させていただきました。ともに松本竣介の『雜記帳』に関連した記述があり、著者の意向で一挙掲載となりました。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、随時更新します。
同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
美術展のおこぼれ40
「生誕120年 木村荘八展」
会場:東京ステーションギャラリー
会期:2013年3月23日―5月19日


本業の建築関係の用事に振りまわされて、ちょっとのあいだこの欄を休んでいたつもりが、気がついてみると4ヵ月以上も空いていたのに驚いた。理由はほかにもあって、同じときの忘れものでの連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」に気持ちが入りこんでしまってなかなか脱け出せない。
それも、そろそろ終わりが見えてきて、第12回では竣介が編集・発行した月刊誌『雜記帳』(1936年10月―39年12月)を読みはじめている。その第5号(37年2月号)に木村荘八がデッサンとエッセエを寄稿している。「降誕祭 夕」と題されたそれは、三田通りのレストラン内の賑わいを洒脱なタッチで描き、クリスマスという行事は「日本の、西洋好みの、餘程烈しい一つの異例として、後世の史家に點檢される現象でせう。實は却つてクリスマスは段段すたるんぢゃないかと思はれます」と書いている。いまの日本でも相変わらずのクリスマス騒ぎを見たら、画家はどう思うだろうか。
竣介は東京生まれではあるが、物心がつく前に家族とともに岩手に引越し、東京に戻ってくるのは17歳のときだから、彼の描いた東京風景は初めて遭遇した新しい世界を散策者としてあるいは旅人として、あるいは異邦人としての詳細かつ発見的な記録、つまりは外から見た風景といってもいい。
これにたいして竣介よりほぼ20歳年上の木村荘八は東京日本橋の牛肉店「いろは」で生まれ、その家業の環境のなかで育つ。ハイティーンのころは萬鐵五郎や岸田劉生など当時の前衛にたいする意識が強かったようだが、1930年代に入ると≪歌妓支度≫、≪牛肉店帳場≫、≪浅草寺の春≫など、私たちにとって親しい「荘八の世界」が現れてくる。彼は40歳を迎えている。あまりにも自分そのものの記憶であるために外部において成立する作品としては本来は描けないものを描くために、いいかえればたんなる「懐しさ」に堕さないために、荘八は記憶に虚構性あるいは記憶から微妙に隙を空けたシナリオを介入させることによって懐しい光景を強靭化した。いや、内側からの東京を辛うじて絵にすることができたというべきか。
そして荘八が『雜記帳』に寄稿した1937年は、あの『濹東綺譚』の挿絵が登場した年でもある。今でも受け継がれている新聞の連載小説に説明的な絵をつけるという形式にとくに人物描写は見事に応えていると同時に、家々やまちの様子はたんなる説明をこえた異常な密度で描き込んでいる。硬質な線を銅版画のように張りめぐらし、小塔が並び連なるような家並み、どの路地にも共通する底知れない奥の気配は、ドイツ表現主義の絵画や映画のセットみたいに、ただの写実を突き抜けるような迫力がある。でもそれは紛れもない東京の今は失われた風景なのだ。荘八の内側からの東京の描きかたを、そのように辿るしかない。
生粋の東京人、風俗画の名手などと呼ばれる木村荘八像はある意味で明快である。絵も文章もシャキッとしている。でも本当は幻視の人ではなかったか。絵になり得ない絵を、空しいまでに、しかし決してあきらめずに見続けていたのではなかったか。それを裏づけるように思われるのが最初期から最晩年まで断続的に描き継がれていた油彩である。1910年代の≪日比谷公園≫、≪虎の門付近≫、≪窓外屋根≫、≪樹の風景≫、≪坂のある風景≫、≪大学構内≫、20年代の≪於東京帝大構内≫、そして40年代50年代にかけての≪庭日沒≫、≪風吹く≫、≪窓外風景≫、≪和田日沒≫、≪新宿遠望≫等々、建物や樹木を一応題材としているが、いわゆる絵画としての構図や筆致が支えようもなく押し流され消失する瞬間だけを捉えている眼差し、いいかえれば風景が風景としてある根を刈り取って、自律的な諧調の色彩や輪郭線という要素にシフトし、その結果として建物や樹木を写実の外に生かしている眼差しを感じてしまう。眠りから目覚めた瞬間、それまで唯一の現実だった夢がもう絵にも文章にもとどめられない感覚に近いというか。作品タイトルにもうかがわれるように、風の、日沒の、遠くの、窓外の一瞬を追っている。すなわち自分の内側を幻視している。
ごく当然のものとして自分が生きてきた時間を突然眼に見える絵画として考えたとき、どういう折り合いがつくのか。木村荘八の作品は切実で不思議な位相のなかに見えてくる。
(2013.5.22 うえだまこと)
~~~~
植田実のエッセイ
美術展のおこぼれ41
「生誕百年 桂ゆき―ある寓話―」
会場:東京都現代美術館
会期:2013年4月6日―6月9日

その第1室に入るなり嬉しくなった。最初期の日本画習作やコルクのコラージュと並んで、松本竣介の編集・発行による『雜記帳』のために描かれたデッサン2点と習作1点が壁にある。桂ゆきは引き裂いた風景写真や布やコルク片をランダムに、だが椆密に貼り合わせる試作を手がけ(海老原喜之助がそれはコラージュという手法なんだよと彼女に教え、その初個展を支持して実現させたエピソードは素敵だ)、それをそのまま克明に描き写してもうひとつの作品としている、その最初(たぶん)のデッサンが『雜記帳』に寄せられたのである。今回展示されているその原画は、新しい時代をどんな先入観も知識もなしで彼女が直感的に捉えた兆しでもある。『雜記帳』の誌面のフレッシュな感触もさらに生きいきと蘇ってきた。
この画家の名を知ったのは≪進め≫(1952? 今回は展示されていない。人参を鼻先にぶら下げた馬の絵柄。図録にはそれが花田清輝の著書『政治的動物について』のジャケットに使われた写真が載せられている)≪みんならくじゃない≫(1954)、≪虎の威を借りた狐≫(1955)などによるが、それは桂ゆきという名だけにとどまらず、私にとっては大きな窓が開いて見えてきた戦後の新しい絵画の名でもあった。今回の回顧展では彼女の一貫した手法がじつはすでに1930年から、そして最晩年の90年までほとんどブレることなく高いテンションを保ったまま維持されていたことをあらためて教えられる。いいかえれば桂ゆきのどの時代もどの作品も文句なく私は好きなのだが、でもベストはと言えば上の3点あたりになってしまう。
「あるとき二階から屋根瓦を目近く見下していて、あるショックみたいなものを感じた。同形の瓦の起伏が規則的に際限もなくひろがっている、といっただけのことだったが、私は瓦とは関係のないある画面みたいなものを予感して、なんとなくガタガタ身がふるえた」(『美術手帖』1979年7月 今回展図録に収録)と画家自身が回想する特異な視覚によって、コルク片はもとより木株、着物の布地、新聞紙、花、野菜、魚からなんでもかでも全て押しつぶしたような細密な断片が「際限もなく」集積されてゆくのだが、それらは真っ当な作品へと傾斜しているといっていい。そして時代を追ってさらに自由闊達な昔話的色合いを帯び、大根や薩摩芋や人参や野の花と共棲する、桂キャラとでも呼べそうな、とぼけた目玉の愉快な鳥や動物や、そのなかに同化していく生きものたちの別天地もつくり出されている。マンガチックでもあり、とんでもなく楽しい。
けれども上の3点、つまりスーパーリアリズム風に描かれた籐の籠や藁編みの綱のかたまりが突然パカッと割れて、いたずら描きみたいな単純な線の馬や狐につなげられる独自の分割と連結は、絵画でもマンガでもない、桂だけの世界が決定している。そこでは細密描写の重厚と単線描きの軽妙とが同じ力でぶつかり合っているように見えながら、全体はいわばいたずら描きの方向性に支配されている。むしろ細密描写がその方向へと加速しているのだ。
結果としてその絵はあるメッセージを伝えようとしているのだが、私はそうした解読にうかうかと乗じたくはない。どうしたって権力への告発とか諷刺とかいった常套的な見方に陥ってしまうからだ。そんなものを超えて彼女の作品のすべてに漲る、子どもでも分かる幸福感、その絵を見る幸福感というよりその絵と一緒にいる幸福感をこそ、まったく別のアングルから解読したいのだが手がかりがまだ見つからない。とりあえず考えたのは、今回の展示会場にたくさんの椅子やベンチ(背のあるのがいい)をバラバラの向きで配置する。作品観賞にはこれまでどおりの動線を確保して、それとは別に桂ゆきの作品のある空間をひとときでも生活できる場所に切り換える。美術館的展示では見えにくい桂ゆきの身体性を、それなら感じることができるんじゃないか。そんな空想に襲われたのだけれど。
(2013.5.25 うえだまこと)
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*久しぶりの植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、二回分を一度に掲載させていただきました。ともに松本竣介の『雜記帳』に関連した記述があり、著者の意向で一挙掲載となりました。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、随時更新します。
同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
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