鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」 第3回
無色有情
若い頃は、仕事以外でもわりとよく海外へ旅行をしたほうだ。普通の観光旅行と違って、重くて肩に食い込む撮影道具一式を抱え、デジタルカメラに移行するほんの数年前までは、カラーとモノクロのフィルムを何10本と準備して別の缶に入れ、飛行機に乗るたびに係員と交渉してX線検査を避けるのも常だった。写真家としての宿命だ。すでにカラー写真が席巻していた時代にわざわざモノクロフィルムを持参したのは、作品づくりが頭にあり、その場合はモノクロフィルムと決めていたからだ。カラーフィルムだと、ある意味で仕上がりは現像所任せになってしまうのだが、モノクロは自分で現像ができるうえ、暗室では自由に自分なりの表現を追求することができた。デジタル化した現在では考えられない究極の手作業の世界だ。「自分のなかではかなり早い時期から、旅行先で人さまにお見せできるものが撮影できたら、個展をしたいと思っていた。この商売をしていると、自分の作品を買っていただいて、部屋に飾ってもらえることは最高なことだと思う。子どもの頃は絵が好きで、絵描きになりたいと思っていたほどだから、写真も絵と同じように考えているところがあるんだね」
そんな百瀬が、写真家として初めて個展をしたのが1991年、その前年に旅行したモロッコの古都フェズの旧市街メディナの写真だった。
「ジブラルタル海峡を越えてみたい」と、パリから飛行機でマラケシュに降りたったモロッコでは、レンタカーを借り、まずは南に下りて砂漠に足を踏み入れたあと、北上して古都フェズから首都ラバト、それから海岸沿いにカサブランカとまわってマラケシュに戻った。その旅行中、おもにカラーフィルムを装填したカメラで撮影していた百瀬が、モノクロフィルムを装填したカメラに替えたのは一カ所のみ。それがフェズの旧市街で、砂漠でも、道中で目にした珍しい街道沿いの市場でも、ラバトはむろん、映画で有名なカサブランカでもなかった。「フェズの光景にピンとくるものがあった。それまでいろんな旅行をして異文化を見せてもらっていたんだけれど、その少し前からかな、世界じゅうが画一化されていくなかで、何100年前からの生活が残っていた。それもいつなくなるかわからないと思って、記録するつもりで写真を撮った」
1990年撮影
サイン入り
1990年撮影
サイン入り
1990年撮影
サイン入り
写真で個展をするには、テーマの統一性はもちろんとして、いい写真が1、2枚あるだけではダメ、ある程度の枚数がないと成立しない。その点でも、フェズでは「まとまったものが撮れた」と思った。そして個展のタイトル『無色有情』は、このとき一緒にモロッコを旅した詩人、谷川俊太郎さんにつけてもらった。
けれどもじつは、この初の個展では作品に値段を提示しなかった。というのも日本には、写真を作品として購入してもらうのがややはばかられるような風潮があり、それを考慮したからなのだが、それでも、写真を見た人の何人かから「買いたい」という申し出があった。「あのときの喜びは忘れられない」 写真を絵と同じように扱ってもらいたいという思いにはずみがついた、大きな第一歩でもあった。
『ときの忘れもの』では、来年2014年の春、このモロッコの写真シリーズ『無色有情』から、よりすぐったものを展示させていただく予定だ。「あれから20数年、人間の生活ってなんなのかを、もう一度、思い出してもらいたいな」とは百瀬からのメッセージです。
(とっとりきぬこ)
■鳥取絹子 Kinuko TOTTORI(1947-)
1947年、富山県生まれ。
フランス語翻訳家、ジャーナリスト。
著書に「大人のための星の王子さま」、「フランス流 美味の探求」、「フランスのブランド美学」など。
訳書に「サン=テグジュペリ 伝説の愛」、「移民と現代フランス」、「地図で読む世界情勢」第1弾、第2弾、第3弾、「バルテュス、自身を語る」など多数。
■百瀬恒彦 Tsunehiko MOMOSE(1947-)
1947 年9 月、長野県生まれ。武蔵野美術大学商業デザイン科卒。
在学中から、数年間にわたってヨーロッパや中近東、アメリカ大陸を旅行。卒業後、フリーランスの写真家として個人で世界各地を旅行、風景より人間、生活に重きを置いた写真を撮り続ける。
1991年 東京「青山フォト・ギャラリー」にて、写真展『無色有情』を開催。モロッコの古都フェズの人間像をモノクロで撮った写真展 。
タイトルの『無色有情』は、一緒にモロッコを旅した詩人・谷川俊太郎氏がつける。
1993年 紀伊国屋書店より詩・写真集『子どもの肖像』出版(共著・谷川俊太郎)。作品として、モノクロのプリントで独創的な世界を追及、「和紙」にモノクロプリントする作品作りに取り組む。この頃のテーマとして「入れ墨」を数年がかりで撮影。
1994年11月 フランス、パリ「ギャラリー・クキ」にて、写真展『TATOUAGES-PORTRAITS』を開催。入れ墨のモノクロ写真を和紙にプリント、日本画の技法で着色。
1995年2月 インド・カルカッタでマザー・テレサを撮影。
1995年6月 東京・銀座「愛宕山画廊」にて『ポートレート・タトゥー』写真展。
1995年9月-11月 山梨県北巨摩郡白州町「淺川画廊」にて『ポートレート フェズ』写真展。
1996年4月 フランスでHIV感染を告白して感動を与えた女性、バルバラ・サムソン氏を撮影。
1997年8月 横浜相鉄ジョイナスにて『ポートレート バルバラ・サムソン』展。
1998年3月 東京・渋谷パルコ・パート「ロゴス・ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
1998年8月 石川県金沢市「四緑園ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
9月 東京・銀座「銀座協会ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
1999年 文化勲章を授章した女流画家、秋野不矩氏をインド、オリッサ州で撮影。
2002年10月 フランス、パリ「エスパス・キュルチュレル・ベルタン・ポワレ」にて『マザー・テレサ』写真展。
2003年-2004年 家庭画報『そして海老蔵』連載のため、市川新之助が海老蔵に襲名する前後の一年間撮影。
2005年2月 世界文化社より『そして海老蔵』出版(文・村松友視)。
2005年11月 東京・青山「ギャラリー・ワッツ」にて『パリ・ポートレート・ヌードの3部作』写真展。
2007年6月-7月 「メリディアン・ホテル ギャラリー21」にて『グラウンド・ゼロ+ マザー・テレサ展』開催。
2007年6月-12月 読売新聞の沢木耕太郎の連載小説『声をたずねて君に』にて、写真掲載。
2008年6月 東京・青山「ギャラリー・ワッツ」にて『マザー・テレサ展』。
2010年4月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『絵葉書的巴里』写真展。
8月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」、田園調布「器・ギャラリ-たち花」にて同時開催。マザー・テレサ生誕100 周年『マザー・テレサ 祈り』展。
2011年7月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『しあわせってなんだっけ?』写真展。
2012年3月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『花は花はどこいった?』写真展。
無色有情
若い頃は、仕事以外でもわりとよく海外へ旅行をしたほうだ。普通の観光旅行と違って、重くて肩に食い込む撮影道具一式を抱え、デジタルカメラに移行するほんの数年前までは、カラーとモノクロのフィルムを何10本と準備して別の缶に入れ、飛行機に乗るたびに係員と交渉してX線検査を避けるのも常だった。写真家としての宿命だ。すでにカラー写真が席巻していた時代にわざわざモノクロフィルムを持参したのは、作品づくりが頭にあり、その場合はモノクロフィルムと決めていたからだ。カラーフィルムだと、ある意味で仕上がりは現像所任せになってしまうのだが、モノクロは自分で現像ができるうえ、暗室では自由に自分なりの表現を追求することができた。デジタル化した現在では考えられない究極の手作業の世界だ。「自分のなかではかなり早い時期から、旅行先で人さまにお見せできるものが撮影できたら、個展をしたいと思っていた。この商売をしていると、自分の作品を買っていただいて、部屋に飾ってもらえることは最高なことだと思う。子どもの頃は絵が好きで、絵描きになりたいと思っていたほどだから、写真も絵と同じように考えているところがあるんだね」
そんな百瀬が、写真家として初めて個展をしたのが1991年、その前年に旅行したモロッコの古都フェズの旧市街メディナの写真だった。
「ジブラルタル海峡を越えてみたい」と、パリから飛行機でマラケシュに降りたったモロッコでは、レンタカーを借り、まずは南に下りて砂漠に足を踏み入れたあと、北上して古都フェズから首都ラバト、それから海岸沿いにカサブランカとまわってマラケシュに戻った。その旅行中、おもにカラーフィルムを装填したカメラで撮影していた百瀬が、モノクロフィルムを装填したカメラに替えたのは一カ所のみ。それがフェズの旧市街で、砂漠でも、道中で目にした珍しい街道沿いの市場でも、ラバトはむろん、映画で有名なカサブランカでもなかった。「フェズの光景にピンとくるものがあった。それまでいろんな旅行をして異文化を見せてもらっていたんだけれど、その少し前からかな、世界じゅうが画一化されていくなかで、何100年前からの生活が残っていた。それもいつなくなるかわからないと思って、記録するつもりで写真を撮った」
1990年撮影サイン入り
1990年撮影サイン入り
1990年撮影サイン入り
写真で個展をするには、テーマの統一性はもちろんとして、いい写真が1、2枚あるだけではダメ、ある程度の枚数がないと成立しない。その点でも、フェズでは「まとまったものが撮れた」と思った。そして個展のタイトル『無色有情』は、このとき一緒にモロッコを旅した詩人、谷川俊太郎さんにつけてもらった。
けれどもじつは、この初の個展では作品に値段を提示しなかった。というのも日本には、写真を作品として購入してもらうのがややはばかられるような風潮があり、それを考慮したからなのだが、それでも、写真を見た人の何人かから「買いたい」という申し出があった。「あのときの喜びは忘れられない」 写真を絵と同じように扱ってもらいたいという思いにはずみがついた、大きな第一歩でもあった。
『ときの忘れもの』では、来年2014年の春、このモロッコの写真シリーズ『無色有情』から、よりすぐったものを展示させていただく予定だ。「あれから20数年、人間の生活ってなんなのかを、もう一度、思い出してもらいたいな」とは百瀬からのメッセージです。
(とっとりきぬこ)
■鳥取絹子 Kinuko TOTTORI(1947-)
1947年、富山県生まれ。
フランス語翻訳家、ジャーナリスト。
著書に「大人のための星の王子さま」、「フランス流 美味の探求」、「フランスのブランド美学」など。
訳書に「サン=テグジュペリ 伝説の愛」、「移民と現代フランス」、「地図で読む世界情勢」第1弾、第2弾、第3弾、「バルテュス、自身を語る」など多数。
■百瀬恒彦 Tsunehiko MOMOSE(1947-)
1947 年9 月、長野県生まれ。武蔵野美術大学商業デザイン科卒。
在学中から、数年間にわたってヨーロッパや中近東、アメリカ大陸を旅行。卒業後、フリーランスの写真家として個人で世界各地を旅行、風景より人間、生活に重きを置いた写真を撮り続ける。
1991年 東京「青山フォト・ギャラリー」にて、写真展『無色有情』を開催。モロッコの古都フェズの人間像をモノクロで撮った写真展 。
タイトルの『無色有情』は、一緒にモロッコを旅した詩人・谷川俊太郎氏がつける。
1993年 紀伊国屋書店より詩・写真集『子どもの肖像』出版(共著・谷川俊太郎)。作品として、モノクロのプリントで独創的な世界を追及、「和紙」にモノクロプリントする作品作りに取り組む。この頃のテーマとして「入れ墨」を数年がかりで撮影。
1994年11月 フランス、パリ「ギャラリー・クキ」にて、写真展『TATOUAGES-PORTRAITS』を開催。入れ墨のモノクロ写真を和紙にプリント、日本画の技法で着色。
1995年2月 インド・カルカッタでマザー・テレサを撮影。
1995年6月 東京・銀座「愛宕山画廊」にて『ポートレート・タトゥー』写真展。
1995年9月-11月 山梨県北巨摩郡白州町「淺川画廊」にて『ポートレート フェズ』写真展。
1996年4月 フランスでHIV感染を告白して感動を与えた女性、バルバラ・サムソン氏を撮影。
1997年8月 横浜相鉄ジョイナスにて『ポートレート バルバラ・サムソン』展。
1998年3月 東京・渋谷パルコ・パート「ロゴス・ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
1998年8月 石川県金沢市「四緑園ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
9月 東京・銀座「銀座協会ギャラリー」にて『愛と祈り マザー・テレサ』写真展。
1999年 文化勲章を授章した女流画家、秋野不矩氏をインド、オリッサ州で撮影。
2002年10月 フランス、パリ「エスパス・キュルチュレル・ベルタン・ポワレ」にて『マザー・テレサ』写真展。
2003年-2004年 家庭画報『そして海老蔵』連載のため、市川新之助が海老蔵に襲名する前後の一年間撮影。
2005年2月 世界文化社より『そして海老蔵』出版(文・村松友視)。
2005年11月 東京・青山「ギャラリー・ワッツ」にて『パリ・ポートレート・ヌードの3部作』写真展。
2007年6月-7月 「メリディアン・ホテル ギャラリー21」にて『グラウンド・ゼロ+ マザー・テレサ展』開催。
2007年6月-12月 読売新聞の沢木耕太郎の連載小説『声をたずねて君に』にて、写真掲載。
2008年6月 東京・青山「ギャラリー・ワッツ」にて『マザー・テレサ展』。
2010年4月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『絵葉書的巴里』写真展。
8月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」、田園調布「器・ギャラリ-たち花」にて同時開催。マザー・テレサ生誕100 周年『マザー・テレサ 祈り』展。
2011年7月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『しあわせってなんだっけ?』写真展。
2012年3月 青山 表参道「 プロモ・アルテギャラリー」にて『花は花はどこいった?』写真展。
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