生きているTATEMONO 松本竣介を読む 13

「デッサン」と「エッセエ」(承前)
植田実


 松本竣介編集の『雜記帳』が、その寄稿者たちに投げた「エッセエ」問題は、さまざまな波紋として見えている。里見勝蔵の「エツセのエツセ」(第2号)では自分は大作の好きな画家にたいして小品を描くのが好きで、文学でもエッセエを愛好するとして「百鬼園隨筆集」を例に挙げているし、田中千代松の「エッセエに就てのエッセエ」(第3号)ではモンテーニュにまた立ち戻りつつ、文学の一ジャンルとしてのエッセエの広がりをさらに考察している。
荻原朔太郎も書いている。「エッセイに就て」(第5号)では、エッセイ(荻原の表記)の日本語訳は「論文」あるいは「隨筆」、また「隨想」となっているがどれも適訳ではなく、それはこの種の文学が日本にないことを意味する。その理由は簡単で、日本の文学には歴史的に「思想性」がなかったからだ。エッセイとはいわば「思想性の情操化」であり「思想詩」ともいうべき文学なのだ。といった視点から「エッセイの進歩性は、文化におけるインテリゼンスの向上と正比例をする」とし、ただこの国でもやっと若いエッセイストが生まれてきたとして、保田與重郎の名を挙げている。次の第6号にはその保田が寄稿しているが、編集側が荻原に示唆されてさっそく保田に原稿を依頼したのかもしれない。
『雜記帳』でのやりとりはそんな具合に若々しく活発だ。でもこれを続けるときりがないので、あと印象に残る文章のなかから5編(あまりにも少ないが)を拾い出し、それぞれの一部を書き移してみる。

「背中を睡眠用に使ふのは人だけで、龜が仰向けに寢てゐたり、鶏が枕をして背中で安眠してゐる様子を私は見たことがない。龜や象は背中の方が表で腹の方が裏であると思ふが間違つてゐるだらうか。人では腹や乳房のある方が表である。しかし昔はさうでなかつたにちがひなく、今でさへも洋装の婦人の立歩く様子は、背中から腰、臀にかけての出入の曲線の凹凸が大きく、眺めては大層婉ではあるが、上肢を前につかせた方が樂な姿勢でありさうに思ふのは私だけだらうか。日本服の婦人の背腰の帯は、私のやうな想像をさせないための魂膽からの技巧だと睨んだのは僻目であらうか。」
 八並誠一「手足」(第1号)
 創刊号から終刊号まで、ほとんど毎号寄稿している作家で、旧「小説派」「兜虫」同人と紹介されているが、どのエッセエも実に奇抜な面白い視点から書かれ、しかしあるときにはロシア人少年の眼を通して東京の情景を描いた素晴らしい小説があったりで、この八並誠一という人がすっかり好きになってしまった。思いがけない常連はほかにもたくさんいる。

「秋、殊に十月半ばから色づき初めたかと見る間に、見る見る中にベルリン市街は街路樹の並木の列を通して黄金色の層をひきます。それは今云つたリンデンの盛り上る繁みの續きが、いち早く秋を感じて黄金色にふくれ上るからです。その街路樹の線(ライン)がベルリンの各方向から集つて、結びといふやうな焦點をチーヤ・ガルテンといふ市の大森林公園におきます。(中略)その一大樹海のチーヤ・ガルテンが殆んどリンデンの木で、其處へ來て黄金の葉の盛り上りが實に尨大な焦點を示します。その光景は、私が斯ういふ風にお話しをするその口をきらない中に、といふ位、またも慌だしく移りはじめます。」
 岡本かの子「晩秋初冬のベルリン」(第3号)
 科学者のような精密な自然観察がそのまま見事に美しい都市描写になっている。その光景は、「さうしたベルリンでヒツトラーは叫んでゐるのよ。」に始まる後半部で、あの時代の混乱と飢渇の様相に一転する。さすが岡本かの子と思いつつ読んだ文末に、(松本禎子談話筆記)とあって、さらに驚いた。その後の同様な談話筆記は編集部と匿名的になっているが、その実力は推して知るべし。

「音羽のとほりの電車道の裏側などには、格子戶のある二階造りの長屋がこまかく向ひ合つてゐる。うしろ側が一段高くなり、そこには木が繁つてゐる。如何にも東京の昔からの町中住ひといふ感じがある。
 文理科大學の近所も、石だゝみを敷いた坂が多くて坂にはやはり大きな欅などがあつて、石疊の道には水が流れることもなくじゆくじゆく流れてゐるやうな濕つぽさ。高い欅の木の下には下宿屋の二階に布團が干してある。髪をきれいに束ねてきちんと半えりを合せ、まつ白い割烹着をかけた奥さんが、半臺をおろした魚屋と話してゐる。あたりはひんやりとしてゐる。」
 窪川(佐多)稻子「文學的故郷」(第5号)
 残された、あるいは失われつつある風景ではない。東京をそこに住む人々ごとすっぽりと包みこんでいる地形や木々や家々や空気が、匂い立つように織りこまれている。そして窪川は、自分の文学的感情が小石川や本郷の雰囲気のなかで養われていたことに気づく。
 このほか多くの人々が住まいの周辺の日常や新しく現れてくる風景を描いている。そんな題材はエッセエと相性がよかったのだろうが、それらはいまかけがえのない記録として、読む者を誘い込む。

「一見してフオツカーだなと氣がつく程度の繪を描いてゐながら、小兒麻痺にかゝつた畸型兒のやうに弱々しい車輪がついてゐたり、折角苦心慘憺してユンケルスの猫背を模寫してゐながら、その肝心の猫背がどうにも我慢のならない曲線だつたり、かと思ふと、未來の飛行機なんていふ挿繪に、あれで精いつぱい腦味噌を絞つた擧句なんだらう、操縱席にあたる部屋に車井戶みたいな妙な器械や二十年も前の操縱装置をくつつけて見たり拝見する方が只管閉口頓首する挿繪ばかりである。」
 佐藤喜一郎「飛行機の繪」(第12号)
 大人から子どもまで、世界の飛行機に夢中になっていた時代である。今だって電車や自動車好きがいるのと同じだ。専門知識はもちろん皆無だった小学生の私も、デザインについてはうるさかった。というかこの時代の世界の戦闘機や爆撃機のカッコよさはダントツで、50から100種機までをその場でリストアップするなんてカンタンだった。上のフォッカーやユンケルスはそうした飛行機の名称で、佐藤はそれぞれのデザイン特性を的確におさえながら、昨今は飛行機の描き方がどんどんいい加減に、不正確になっていると憤慨している。そのデリケートで皮肉っぽいおかしな形容が、あの頃の感性のひだをそっくり思い出させる。飛行機に限らず、衣服、楽器、建築その他のデザインジャンルにも及ぶ各専門家あるいは愛好家の、しかし気難しい考察にこだわらないエッセエが、『雜記帳』を多角化している。そのような多角化は当然、デザインといった狭い枠まで外してしまっている。

「生產者大衆 の 感情 が いかに 正しい もの で ある か と ゆう 事 わ、 これ だけ でも 分かる。 それ わ 實に 生產點 に ある 所 から 來た 正しさ だ。 國語 の 整理 わ、 生產者 の 立場 に 立って、 生產者大衆 の 感情 お 基礎 と して 行わなければ ならない。 すべての 作家、 批評家、 すべての 文化人 が 今や そーゆう 大きな 任務 お 持って ゐる。 生產點 に あって、 正當に 發達しよー と して これまで 發達する こと の 出來なかった、 その 生きた 感情、 生きた 言葉、 それ だけ が インテリ の マンネリズム お 打ちこわし、(以下略)」
 高倉テル「國語 の 混亂 に ついて」(第13号)
 高倉テルの名は新聞や雑誌でよく見かけた。私が中学あるいは高校生のころだろうか。彼の国語改革は、上に見るような自分の書くものもすべてその信念による。従来の日本語表記の破壊と再構築の頑なさが、いまさらに痛快ですらある。『雜記帳』にはこんな時代の感触まで生身のまま保存されている。

 寄稿者のだれもが、「エッセエ」にこだわりながらも実に自由に書いている。だが勝手気ままにではない。前回に引用した竣介の「物をエッセエする態度」「もつと地道な眞摯な科學的批評を日常生活に徹底させる」意を受けているかのようで、だからいま読んでもとても新しい。その合間を縫って美しいデッサンや詩が挿入され、さらには全体の品の良さを守るが如きアナトール・フランスの短篇(三好達治訳)が毎号連載されたりして、さまざまな樹種で賑わう小さな植物園みたいなのだ。創刊から数号を重ねるうちに早くもそうした完成したスタイルをつくりあげているのに驚くほかはないが、竣介はそこに安住していない。どのエッセエもデッサンも等しく自由に枝葉を拡げ花咲かせている構造は、その先50号、100号と続けても安定しているだろう。編集者や出版社にとっては理想の雑誌だが、画家はそれに満足してはいなかったのではないか。
 第5号から特輯が組まれるようになるが、それを雑誌の焦点とするというよりは安定した誌面のなかに偏心した方向をつくり出し、流れを呼ぼうと考えた。『雜記帳』の編集方針をそのように想像したくなる。その特輯タイトルを見るだけでも目のつけどころが面白いし、号を追ってのチェンジアップが効いている。
 第5号 日本的なものゝ明日
 第6号 ヒューマニズムの動向
 第7号 女性展望
 第9号 日本の反省
 第10号 夏の景物・旅の一節
 第11号 幼年・少年
 第12号 民族の素描・人の印象
 第13号 時の隨筆
 第14号 今年の追憶
 第13、14号では特輯の文字を冠していないし、編集側の意図を控えめにしたような工夫がまた見られるが、例えば「民族の素描・人の印象」など、隨筆雑誌ならではの、同時に隨筆の意味を更新していくための絶妙な仕掛けと思わずにはいられない。
 安定ではなく、動きへとひそかに向かう編集は、目次や本文の具体的な文字組みにも反映している。本文は1段組み、2段組み、3段組みが一応基本だが、それは誌面上の序列に拘泥しているわけではなく、むしろ序列を切り崩すかのように自在に構成されている。ある作家の連載なども同じフォーマットで続けずに、号によって2段組みから3段組みに変わったり。第10号以降はケイに囲われた4分の1段組みが誌面の下端に割り込み、そこに編輯後記があったりして、さいごのページには編輯後記は74ページ(つまりなかほど)を見よ、みたいな注がついていたりする。雑誌は目次ページから始まり、編輯後記のページで締めくくるという序列さえも転換しようとしたにちがいない。目次ページ自体の構成も同じ。毎号さまざまなタイプの活字と装画を組み合わせているが、ある号の目次は項目とページの順序をなぜかアトランダムに並べてさえいる。
 表紙にもそうした動きが及んでいる。「雜記帳」のタイトルロゴは第5号以降は垂直・水平ラインのコントラストをより強調した明朝体になるものの、そのがっちりしたプロポーションは変わらない。ところがその位置は毎号上下に動いている。このタイトルロゴに重なる通し号数(1、2、3、…)の数字ロゴとの関係で動かしているからだ。両者は絡み合い、お互いを攪拌し合っている。雑誌のメインタイトルの地位ですら安閑とはしていられないかのようだ。
 けれども『雜記帳』の誌面を無心に見る限り、明晰で整然としている。編集者の「デッサン」力なのだろう。彼は文字さえも、長短・大小、疎密の線の風景として(つまりデッサンにおける描線と同じものとして)見ていたのではないか。見事な編集の技を見せながら内実はアンチ編集というべき『雜記帳』は内容と不可分の誌面構成に、いいかえれば表層ではなく構造に、あくまで画家として対していることが強く迫ってくる。そこから彼の絵画作品にひそんでいる批評性の複雑な構造を計ることができるかもしれない。
 1941年の『みづゑ』1月号の座談会記事「国防国家と美術」と、それに対する反論として書かれた竣介の「生きてゐる畫家」(同誌4月号)は有名だが、国家の緊急時における美術をどうこう言う以前の、美術の基本的な理解のあまりの素朴さ、貧弱さに、竣介は唖然としたのではないか。
 彼にはすでに美術の本来の姿が見えていた。それを現実のものにするためには個々の美術作家の努力だけではなく、より大きな「高度の環境」をつくることが第一条件だと考えていた。『雜記帳』はその環境づくりの一端だったにちがいない。それをいま知るには遺されたそのものに接するしかなく、仮に再編された記録があったとしても肝心な部分は抜け落ちてしまうだろう。そのことをもっともよく知る人々の手によって1977年6月8日、全14冊の完全復刻版が刊行された。
(2013.6.10 うえだまこと

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13号spacer_1514号spacer_1514号 裏表紙

 「生誕100年 松本竣介展」図録に掲載されている『雜記帳』の表紙写真を見るかぎり、天地はもちろん小口も断裁されているが、この復刻版は前回指摘したように小口を折り丁のまま残しているために袋状のページになったところがある。この仕様が意図的であることは、この全14冊のセットに付けられたペーパーナイフでも分かる。ほかの付録として、全号の目次をまとめた小冊子もある。
 第14号については裏表紙も掲載する。さいごまで同誌の維持会員募集を呼びかけていた。この号が最終号になるとは当の竣介たちも思っていなかったはずである。


ペーパーナイフ



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2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
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 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
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