先日、久しぶりに高崎に行って、定期演奏会の本番直前の後輩たちの練習をみてきました(そのことは先日のブログに書きました)。
その後例によってOBたちと一杯やったのですが、後日OB指揮者のNさんから佐野仁美執筆「初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容ー菅原明朗とオルケスタ・シンフォニカ・タケヰをめぐってー」(2013年2月28日『京都橘大学研究紀要』第39号抜き刷り)を送ってもらいました。
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初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容
―菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって―
佐野仁美
(略)
91歳でカンタータ《聖ヨハネによる黙示録》の作曲中に亡くなったという菅原の作品は、器楽曲50曲、室内楽曲24曲、マンドリン・プレクトラム合奏曲124曲、吹奏楽曲42曲、管弦楽曲73曲、歌曲45曲と数多い。また菅原は、まだ日本で本格的に音楽評論が確立されていない時期より音楽雑誌に数多くの論考を発表した啓蒙家であり、さらに深井史郎、服部正、小倉朗、宅孝二、小関裕而ら優秀な作曲家を育てた教育者でもあった。このような息の長い活動を行った作曲家でありながら、一般的な知名度は低いと言わざるを得ない。
近年、日本人作曲家について見直しの機運が高まり、菅原の作品も蘇演されつつある。
(中略)
菅原明朗の作品目録を一見して目につくのは、マンドリン・プレクトラム合奏曲の多さである。実際に、菅原は、日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(1923[大正12]年にオルケストラ・シンフォニカ・タケヰと名称を変更)に加わり、活躍していた。しかし、武井守成男爵を中心に結成されたオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ自体、明治以後の日本の音楽史の中でその存在が語られてきたに過ぎず、アマチュアの団体であったことも災いして、まとまった研究はほとんどされていない。
(中略)
オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける菅原の活動を辿り、大正から昭和にかけての初期の日本人作曲家がどのように近代フランス音楽を受容し、自らの創作に生かしていったのかを考察していきたい。
(後略)同論文より引用
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菅原明朗(すがはら めいろう 1897~1988年)は、帝国音楽学校教授、新交響楽団(現NHK交響楽団)指揮者などをつとめ、大正から昭和初期にかけてドイツ系が主流だった日本の洋楽界にフランス音楽の新風を吹き込んだ最初の日本人作曲家でした。
私たちにとっては、マンドリン音楽の大先達で、1917年20歳のときに武井守成主宰のマンドリン・オーケストラ「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、長くその指揮をとります。音楽の道に進む前は川端画学校洋画科で藤島武二に学び画家を志したこともあります。
永井荷風との交友でその名を知っている方も多いでしょう。太平洋戦争末期の食糧不足の時期、親密に荷風を助けたのが菅原夫妻で、そのきっかけは1938年(昭和13年)5月浅草オペラ館で上演された歌劇『葛飾情話』の台本を荷風に依頼したことでした。
武井守成(たけい もりしげ、1890~1949年)は宮内省楽部長、式部頭を務めた作曲家、指揮者。
父は枢密顧問官の武井守正男爵。父が鳥取県第2代知事のときに鳥取で生まれ、1913年東京外国語学校(現在の東京外国語大学)イタリア語科を卒業。在学中の1911年にイタリアに留学し、ギターとマンドリンに出会います。マンドリンオーケストラ『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』(OST)を主宰し、マンドリン合奏曲・ギター独奏曲を多数作曲しています。
亭主が15歳のときに聞き、マンドリン少年になったのはOSTのレコードによってでした。
マイナーなマンドリン音楽を研究対象にする人が出てきたことに感慨深いものがあります。
古賀メロディーでしかマンドリンを知らない人も多いと思いますが、「日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ」が果たした役割は決して無視していいものではありません。
あの斎藤秀雄の指揮者としての出発点がマンドリン・オーケストラであったというと驚く人も多いでしょう。(中丸美繪著『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』新潮文庫を参照)。
明治末~大正、昭和初期の音楽界の事情を正確に知らないと的外れな議論になります。
同論文を読んで、資料の蓄積、先駆者たちの置かれた状況の把握、遺された仕事の今日的な意義、それらがきちんとまとめたられたときに、優れた研究成果が生まれるのだと思いました。
それにしても、日本の美術界の昨今の貧しさは何とかならないものでしょうか。
一つの専門領域をより正確に評論するジャーナリズムの不在は目を覆うばかりです。
研究者、ジャーナリスト(評論)、そして画商の力が試されているのだと思います。
専門家が尊重されない文化は必ず滅びます。
今の市場は猫も杓子も草間さんですが、ご紹介する初期版画「帽子」連作は今から30年前の制作で、当時はまったく売れなかった。しかし草間さんはめげもせず、ぶれもしなかった。
草間彌生
《帽子(赤)》
1983年
シルクスクリーン
44.8×52.2cm
Ed.100 サインあり
*レゾネNo.21
草間彌生
《帽子(黄)》
1983年
シルクスクリーン
44.8×52.2cm
Ed.100 サインあり
*レゾネNo.22
著書『無限の網』の第5部<日本に帰ってから>の章で、草間さんは以下のように述べています。
「日本には自国の文化を育てる画商というものが、ほとんど存在しない。美術品販売業はあっても、時代を先取りして作家を育てる人がいない。金儲けに奔走ばかりしているのは、画商ばかりではない。美術館も画商も美術雑誌の人たちも、みんなで自分たちの文化を振興させようと思って、自分たちの生命を賭けて文明に対するチャレンジをやってほしい。」
「いまが私の人生で一番いい時だと言える気がする。作品がじゃんじゃん作れる。この数年、ものすごい数の作品を作っている。しかし、楽しんで作っているということはない。楽しんで戦争に行く人間がいないように。確かに、人生の中で大変な仕事を選んでしまったという感じで、時々、絶句する。そして、これからもっと大変になってくるように思える。
従って、体はいつもぐだぐだになっている。寝ることだけが一番の快楽で、起きている時は、腰が痛い、足が痛い、頭が痛いの連続である。湿布を体じゅうに貼っているから、満身創痍である。針灸に通い、マッサージを受けて、毎日毎日、神楽坂まで一万歩歩いている。体を丈夫にしておかないといけないので、自分の体を叱咤している。いくら思想があっても、体がダメになったらどうしようもないからだ。
私は美術界とはまったく関係がない。絵描きの友達ともごぶさたしている。ただひたすら自分の中に入りこんでいく。オープニングの招待状はいっぱい来るが、みんな行かない。だから、交流はない。何々会の会員でもない。画壇の人とは話をしないし、画壇には出ていかない。酒は飲まないし、タバコはすわない。完全にセルフコントロールしている。とにかく、すべて芸術の制作に没頭している。そうして、一日一日を生きている。」
草間彌生『無限の網ー草間彌生自伝ー』(新潮文庫)より
草間さん、長生きしてよかった!
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その後例によってOBたちと一杯やったのですが、後日OB指揮者のNさんから佐野仁美執筆「初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容ー菅原明朗とオルケスタ・シンフォニカ・タケヰをめぐってー」(2013年2月28日『京都橘大学研究紀要』第39号抜き刷り)を送ってもらいました。
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初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容
―菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって―
佐野仁美
(略)
91歳でカンタータ《聖ヨハネによる黙示録》の作曲中に亡くなったという菅原の作品は、器楽曲50曲、室内楽曲24曲、マンドリン・プレクトラム合奏曲124曲、吹奏楽曲42曲、管弦楽曲73曲、歌曲45曲と数多い。また菅原は、まだ日本で本格的に音楽評論が確立されていない時期より音楽雑誌に数多くの論考を発表した啓蒙家であり、さらに深井史郎、服部正、小倉朗、宅孝二、小関裕而ら優秀な作曲家を育てた教育者でもあった。このような息の長い活動を行った作曲家でありながら、一般的な知名度は低いと言わざるを得ない。
近年、日本人作曲家について見直しの機運が高まり、菅原の作品も蘇演されつつある。
(中略)
菅原明朗の作品目録を一見して目につくのは、マンドリン・プレクトラム合奏曲の多さである。実際に、菅原は、日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(1923[大正12]年にオルケストラ・シンフォニカ・タケヰと名称を変更)に加わり、活躍していた。しかし、武井守成男爵を中心に結成されたオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ自体、明治以後の日本の音楽史の中でその存在が語られてきたに過ぎず、アマチュアの団体であったことも災いして、まとまった研究はほとんどされていない。
(中略)
オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける菅原の活動を辿り、大正から昭和にかけての初期の日本人作曲家がどのように近代フランス音楽を受容し、自らの創作に生かしていったのかを考察していきたい。
(後略)同論文より引用
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菅原明朗(すがはら めいろう 1897~1988年)は、帝国音楽学校教授、新交響楽団(現NHK交響楽団)指揮者などをつとめ、大正から昭和初期にかけてドイツ系が主流だった日本の洋楽界にフランス音楽の新風を吹き込んだ最初の日本人作曲家でした。
私たちにとっては、マンドリン音楽の大先達で、1917年20歳のときに武井守成主宰のマンドリン・オーケストラ「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、長くその指揮をとります。音楽の道に進む前は川端画学校洋画科で藤島武二に学び画家を志したこともあります。
永井荷風との交友でその名を知っている方も多いでしょう。太平洋戦争末期の食糧不足の時期、親密に荷風を助けたのが菅原夫妻で、そのきっかけは1938年(昭和13年)5月浅草オペラ館で上演された歌劇『葛飾情話』の台本を荷風に依頼したことでした。
武井守成(たけい もりしげ、1890~1949年)は宮内省楽部長、式部頭を務めた作曲家、指揮者。
父は枢密顧問官の武井守正男爵。父が鳥取県第2代知事のときに鳥取で生まれ、1913年東京外国語学校(現在の東京外国語大学)イタリア語科を卒業。在学中の1911年にイタリアに留学し、ギターとマンドリンに出会います。マンドリンオーケストラ『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』(OST)を主宰し、マンドリン合奏曲・ギター独奏曲を多数作曲しています。
亭主が15歳のときに聞き、マンドリン少年になったのはOSTのレコードによってでした。
マイナーなマンドリン音楽を研究対象にする人が出てきたことに感慨深いものがあります。
古賀メロディーでしかマンドリンを知らない人も多いと思いますが、「日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ」が果たした役割は決して無視していいものではありません。
あの斎藤秀雄の指揮者としての出発点がマンドリン・オーケストラであったというと驚く人も多いでしょう。(中丸美繪著『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』新潮文庫を参照)。
明治末~大正、昭和初期の音楽界の事情を正確に知らないと的外れな議論になります。
同論文を読んで、資料の蓄積、先駆者たちの置かれた状況の把握、遺された仕事の今日的な意義、それらがきちんとまとめたられたときに、優れた研究成果が生まれるのだと思いました。
それにしても、日本の美術界の昨今の貧しさは何とかならないものでしょうか。
一つの専門領域をより正確に評論するジャーナリズムの不在は目を覆うばかりです。
研究者、ジャーナリスト(評論)、そして画商の力が試されているのだと思います。
専門家が尊重されない文化は必ず滅びます。
今の市場は猫も杓子も草間さんですが、ご紹介する初期版画「帽子」連作は今から30年前の制作で、当時はまったく売れなかった。しかし草間さんはめげもせず、ぶれもしなかった。
草間彌生《帽子(赤)》
1983年
シルクスクリーン
44.8×52.2cm
Ed.100 サインあり
*レゾネNo.21
草間彌生《帽子(黄)》
1983年
シルクスクリーン
44.8×52.2cm
Ed.100 サインあり
*レゾネNo.22
著書『無限の網』の第5部<日本に帰ってから>の章で、草間さんは以下のように述べています。
「日本には自国の文化を育てる画商というものが、ほとんど存在しない。美術品販売業はあっても、時代を先取りして作家を育てる人がいない。金儲けに奔走ばかりしているのは、画商ばかりではない。美術館も画商も美術雑誌の人たちも、みんなで自分たちの文化を振興させようと思って、自分たちの生命を賭けて文明に対するチャレンジをやってほしい。」
「いまが私の人生で一番いい時だと言える気がする。作品がじゃんじゃん作れる。この数年、ものすごい数の作品を作っている。しかし、楽しんで作っているということはない。楽しんで戦争に行く人間がいないように。確かに、人生の中で大変な仕事を選んでしまったという感じで、時々、絶句する。そして、これからもっと大変になってくるように思える。
従って、体はいつもぐだぐだになっている。寝ることだけが一番の快楽で、起きている時は、腰が痛い、足が痛い、頭が痛いの連続である。湿布を体じゅうに貼っているから、満身創痍である。針灸に通い、マッサージを受けて、毎日毎日、神楽坂まで一万歩歩いている。体を丈夫にしておかないといけないので、自分の体を叱咤している。いくら思想があっても、体がダメになったらどうしようもないからだ。
私は美術界とはまったく関係がない。絵描きの友達ともごぶさたしている。ただひたすら自分の中に入りこんでいく。オープニングの招待状はいっぱい来るが、みんな行かない。だから、交流はない。何々会の会員でもない。画壇の人とは話をしないし、画壇には出ていかない。酒は飲まないし、タバコはすわない。完全にセルフコントロールしている。とにかく、すべて芸術の制作に没頭している。そうして、一日一日を生きている。」
草間彌生『無限の網ー草間彌生自伝ー』(新潮文庫)より
草間さん、長生きしてよかった!
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