瑛九のエッチング

滝口修造


 瑛九という作家の名をはじめて知った頃、私はなんとなく中国人ではないかと思ったことがある。随分以前のことであるが、それが雅号であるのを知り、また彼自身を知ったあとでも、やはり一種のエグゾティックな印象は消えないでいる。この場合のエグゾティックというのは、彼を最初に中国人だと思いこんだ先入主を、そんなに慌ててもみ消す必要を感じなかったというようなことにも関係があるし、彼の仕事がいつも画壇の柵のなかから茫洋とはみだしているところからもいえるのかも知れない。いずれにしても彼の芸術の存在性に関係しているのにちがいない。いったい一つのクリマからそっぽを向いているからといって自己に誠実でないということはない。彼は何かに熱中している。蜘蛛が糸をつむぐように、彼は自分の糸をはきだしている。だから、いってみればその巣の恰好がエグゾティックだといっているような意味のなさなのである。しかし現実性との関係は、もう一つの次元で発生するだろう。
 瑛九はかなり長くフォト・デッサンを発表していた。レンズを用いない印画紙上の光のデッサンである。しかし瑛九がそれをこころみる態度は、そう、やはり蜘妹が糸をつむいでいるのに似ていたといえるかも知れない。いま憶いだしたが、たしか彼のフォト・デッサンにはじめて接する前に、オートマティックなペンのデッサンを沢山見せてもらったことがある。こんどのタケミヤ画廊での個展では、数年来こころみているエッチングを発表したが、ここでもあらゆる影像はほとんどオートマティックといってよいだろう。聞くところによると、彼はまったく下図なしに銅板にじかに刻んでいくのだそうである。そこに瑛九の流儀があり、彼の仕事の意味が生れてくるようだ。いかにも動物、植物、鉱物の境界だとか、四大要素の区別を無視したような形が生れ、形がモティーフに先行したような状態である。しかも画面の造形上の批評はお手あげになってしまうというふうである。瑛九の芸術のなかには芸術を侮蔑したようななにものかがあるらしい。私がまず感じるのは、こういう行為そのものが彼のなかに根づよく、ふてぶてしく存在していることである。これらのエッチングを見ていると、まるでのっペらぼうのような空白があったり、ばかばかしく無意味な手のつぶやきがあったりする。彼は欲望で喘えぐ皮膚のように露出している。しかしさきにちょっとふれたように、もう一つの次元を芸術家としての彼はのぞくことになるだろう。それはすくなくともオートマティスムのような人間的動力を停めることではなくて、その運命を大胆に冷酷にみつめるもう一つの眼を意味するのではないだろうか。
 瑛九の銅版画としての技術は単純なものであろうが、彼はただ一本のペンとしてその針を動かしている。しかしこのように白と黒のグラヴュールに還元する単純な行為からすべてが生れるにちがいない。彼は写真のあとで銅版画に着手したのだが、そのことによって逆に写真もまた科学的なグラヴュールであることを証明している。そしてこれも瑛九の流儀によって証明しているのである。

『美術手帖』No.74 1953年10月
*初出誌には「滝口修造」と記載されているので、そのまま転載しました。
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ときの忘れものでは昨日から「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」を開催しています。

瀧口修造は美術評論家として瑛九についてたびたび執筆しており、このブログでは7つのテキストを、ご遺族のご許可をいただいて順次再録します。
土渕信彦のエッセイ~瀧口修造の箱舟」とあわせ、お読みください。

●「瑛九へ」『ノートから、1951』/』『コレクション 瀧口修造 4』所収

●「瑛九のエッチング」『美術手帖』No.74 1953年10月号 美術出版社

●「瑛九のフォート・デッサン」『瑛九 フォート・デッサン展』図録 1955年1月 日本橋・高島屋 

●「ひとつの軌跡 瑛九をいたむ」『美術手帖』1960年5月号

●「通りすぎるもの……」1966年4月 瑛九の会機関誌『眠りの理由』創刊号

●「『瑛九』を待ちながら」山田光春著『瑛九』内容見本 1976年6月 青龍洞

●「瑛九の訪れ」『現代美術の父 瑛九展』図録 1979年6月 小田急グランドギャラリー(瑛九展開催委員会主催)

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今回展示している瑛九の銅版画はいずれも作家自刷りのものです。
瑛九は1951年から1958年までの僅か足掛け8年の間に銅版画を約350点制作しました。
短期間に集中して制作した瑛九のエネルギーも凄いものですが、実際に刷られた数(自刷り)は極くまれに銅版画集などで25部刷ったものもありますが、ほとんどは1部から数部です。
中でも珍しいのが今回新発見の「いじわる」(ファースト・ステート)で、1部しか存在しない作品です。
qei_130_ijiwaru瑛九
いじわる》 "Malicious"
1953年
エッチング (First state) (自刷り)
36.2×26.8cm
Ed.1
鉛筆サイン及び年記あり
※都夫人私家版銅版レゾネNo.144
※林グラフィックプレスNo.16

qei_090316_kabin瑛九
花びん
1952年
エッチング(自刷り)
7.6×5.3cm
1部乃至数部
鉛筆サイン及び年記あり
※林グラフィックプレスNo.168

qei_137_love瑛九
愛の鳥
1956年
エッチング(自刷り)
15.0×9.0cm
Ed.5
鉛筆サイン及び年記あり
※都夫人私家版銅版レゾネNo.186
※林グラフィックプレスNo.214

鳥と動物_600瑛九
鳥と動物
1951年
エッチング(自刷り)
28.5×24.0cm
1部乃至数部
※林グラフィックプレスNo.14

《花びん》と《鳥と動物》については、林グラフィックプレスが原版をもとに後刷りした際に発行したカタログに「作者自刷りなし」と記載されています。しかしそれは明らかに誤記であり、ご覧のように正真正銘の瑛九自刷りの作品が現存します。
実際にそれが何部刷られたかは不明ですが多くても数部と推定されます。
そこで、ときの忘れもののリストとしては、自刷り部数を「1部乃至数部」とした次第です。
推定などと書くと、根拠のないように思われるかも知れませんが、瑛九の銅版画については三つの基本文献があり、私たちは実物と以下の文献とを照合しながら「推定」しています。

(A)『瑛九銅版画目録』(都夫人私家版の写真アルバム)谷口都編 限定10部 1961年
(B)『瑛九原作銅版画集総目録』南天子画廊 1969年
(C)『瑛九・銅版画 SCALE I―V』全五冊 林グラフィックプレス 1974~1983年


それぞれデータ的には不完全ですが(A)(B)(C)の三つの目録がほぼ全作品を網羅しています。
(A)の瑛九夫人によって製作された私家版写真アルバムは、1961年浦和のアトリエに残されていた二ニ九点の銅版画を撮影、記録したもので、モノクロの紙焼写真が貼られ、番号・作品名・制作年・限定部数・サイズが記載されています。当時作品名のないものも多く、それらには夫人によって作品名がつけられました。
(B)は没後、1969~70年に久保貞次郎らが《瑛九原作銅版画集》全五巻(各10点組)を企画し、版元・南天子画廊、刷り・池田満寿夫によって限定50部が後刷りされた際のカタログで、50点のモノクロ図版に作品名・制作年・サイズが記載されています。
(C)は先に後刷りされた(B)所収の50点を除くほぼ全作品を五巻にわけて林グラフィックプレスが後刷りし刊行した際のカタログで、「瑛九の没後夫人によって保存されていたすべての原版を寄託されたのを機に、1951年~1958年のあいだに集中的に製作された未発表作130点あまりを含む総数278点の、銅版画の全作品(没後既刊の一部を除く)を初めて公にするものである」(『瑛九・銅版画 SCALE I』奥付)。モノクロ図版に番号・作品名・制作年・サイズ・技法・作家自刷り部数(E.A.)・後刷り部数(edition)・後刷りの年が記載されています。このときは限定60部(一部は10部または45部限定)が後刷りされました。したがって(B)(C)は重複せず、合わせて328点プラス若干数が、瑛九の制作した全銅版画と推定されます。

つまり、(A)の都夫人製作の私家版銅版レゾネに収録されなかった銅版作品を、林グラフィックプレスは『未発表作130点あまり』とし、「作者自刷りなし」と(C)に記載したわけですが、そんなわけはなくて、実際には1部から数部が刷られ、こうして現存しているわけです。
いずれ研究者たちによって銅版画の完璧なレゾネが編集されることを祈る次第です。

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◆ときの忘れものは2013年10月26日[土]―11月2日[土]「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」を開催しています(※会期中無休)。
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瑛九のよき理解者であった瀧口修造との関係にスポットをあてます。瑛九の油彩、水彩、フォトデッサン、版画とともに、瀧口修造のデカルコマニーや瀧口の詩による版画集『スフィンクス』を展示します。

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