君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」 第11回

「十一面観音菩薩像」


東日本大震災からもうすぐ3年が経つ。これまでもテレビ越しに、阪神大震災や中越沖地震などの被害を見てきたので、地震の恐ろしさを感じることは何度もあった。しかし津波と原発に関しては、今回の震災で初めて恐怖を感じる体験をした。

上空から映しだされる津波の映像は今でも目にやきついている。そして現地を訪れ、10メートルを超える津波の爪痕を目の前にして、改めて自然の脅威を感じた。歴史的な史料からも三陸海岸が、何度も津波の被害に苦しめられてきたことが分かる。そのため巨大な防潮堤が作られた地域も多かった。けれども津波が、防潮堤を超えるニュースの映像を見て、自然の力を防ぐことの難しさを感じた。

先日、畑中章宏の『津波と観音 十一の顔をもつ水辺の記念碑』を読んだ。この本の中で、平安時代以前に建てられた三陸海岸の社寺の多くは、高台にあり津波の被害を間逃れたと述べられていた。逆に、近代になって高台から降ろされた観音像は、津波で破損したそうだ。仏像には、古代からの様々なメッセージが込められており、私たちはそれを見逃してはいけないのだと感じた。

特に十一面観音像は、海や川そして湖などの側に祀られていることが多い。それは、治水や利水のための事業に命を懸けた人々を弔うため、また津波や洪水の経験を記憶にとどめるためではないかと畑中氏は論じている。本の副題につけられた「十一の顔をもつ水辺の記念碑」とは、水辺に建立された十一面観音像のことである。

「水と十一面観音」と言えば『十一面観音巡礼』を思い出す。白洲正子は、水神信仰との習合を確認するため十一面観音を巡っている。この本の中で紹介された多くの十一面観音像の中で、私が最も美しいと感じたのは、白洲が「蓮のうてなから、一歩踏み出さんとする動きには、こぼれるような色気がある」と述べた渡岸寺の十一面観音像である。

十一面観音_600


実は私は、自分の部屋の壁に、この十一面観音像のポスターを貼っている。この絵を描いているときに、3月11日の地震でフレームだけが落下し、十一面観音像のポスターだけが壁に残されていたのを思い出した。そんな私にとって思い出深い十一面観音像である。

この像は、檜の一木造りで、彩色、金箔等を施さない素地仕上げである。作られたのは、平安初期と考えられている。頭上面が大きく、左右2面が更に大きい憤怒面で、頂上面が菩薩形、そしてインドや西域風の顔立ちなど一般的な十一面観音像とはかなり異なっている。このような異形の像が、琵琶湖の湖畔に建立されたのは、何か水にまつわるメッセージが込められているのかもしれないと思った。古代には建立地と仏像には深い繋がりがあったのだから、大きな湖と因果関係があってもおかしくはない。

現在、日本中に溢れかえる公共彫刻の中で、場所との関係性を考えて設置されているものがどの程度あるのだろうか。碑や像を立てる行為は、後世へメッセージを伝えるという意味もあるのだと、もう一度考えるべきでではないか。私は、街中の裸婦や抽象的モニュメントを見ながら考えた。勿論、政教分離のご時世に仏像を街中に設置するのは難しいだろうが。
(きみじまあやこ)

◆君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。