True globalisation is beyond various sense of values.

笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第1回

異なった価値観を乗り越えた向こうに真のグローバル化が……。


 「忙中閑あり」とはよく言ったもの。商社での激務にもかかわらず、海外出張に出た時には、現地で工夫して時間をひねり出し“趣味”の探索にあてた。価値観の異なる外国人とのビジネスで抱え込んだストレスに対し、これが鎮静剤のような役割をはたしていたようにも思えてならない。
 絵画コレクションの内容を充実させるために、「何をしたら良いのか?」 欧米の諸都市で数え切れない程の試行錯誤を繰り返えした。特に、1980年代後半のニューヨーク駐在は、コレクターとしての体質改善に絶好の機会を与えてくれた。
 未知の視角を提示してくれ、又、コレクションの基礎を踏み固める方法や質の極めて高い美術館、画商、コレクターなどとの出会いをつくってくれたのもこの地だった。
 マンハッタンのミッドタウンにある超一流画廊では、極めて上質な高名作家の作品を見ることができ、画廊主の高い見識とあいまって威厳すら感じた。又、当時、画廊の集積地区のひとつであったソーホーでは、世界から訪れる美術愛好家で街路が賑わっていたあの光景が今でも眼にやきついている。アメリカの現代美術市場は時めき活況を呈していた。
 2013年8月、三元社から出版された拙著≪現代美術コレクションの楽しみ≫:“商社マン・コレクターからのニューヨーク便り”で、この駐在期に体験した事、影響をうけた事を書き留めてみた。
 今回の連載への動機は、拙著で積み残した事や日本の美術界に発生し始めた新事象、グローバル化についても記述してみたいと思ったからだ。
 一方、コレクション行為の中で、多種の厚い壁に対面、画商との実践で傷つき、異国で自分の力のなさを痛感したことも度々。時折、図らずも口からこぼれ出た“溜め息”や“独り言”のようなものも伝えられれば……。

■  ■

日本でコレクション行為を進めていた時は思いもつかなかったが、ニューヨークで気づかされたことがあった。コレクターと作家の間に、意外にも、緊張関係が存在していることだった。 異なった歴史や風土、そして言語で育った人に接し始めた時に感じる異和感のひとつなのかもしれない。

■  ■

 日本でも好みの作家の家〔アトリエ〕を訪問した事が何回かあった。そこで、自分なりにつくりあげた作家へのイメージは、今振り返って思えば、アメリカの作家のそれと比較すると、非常に日本的な情にまぶされたものを強く感じた。
 小平市美園町にあった山口長男〔1902~1983〕宅を訪れたことがあった。作品の制作の技法や工夫、又作品を制作する時の発想など、沢山の興味ある話が聞けた。「そろそろ、失礼しよう」と思った時、山口氏は席をはずし、200枚程の水彩画を抱えて戻って来た。私の前に無造作にドスンとそれらを置くと、
「キミ、この中から5枚とりなさい。あげますよ」 恐縮しながら、選択に入ると山口氏は黙して、ジッとそれをみていた。
「変ったもの選ぶね」とつぶやく。
 コレクターの眼の程度を軽い気持で見ているようだった。作家の習性のように思えた。しかし、それ以上のものではなかったようだ。

山口長男  山口長男
  1981年
  墨
  38.2x26.0cm
  サインあり



■山口長男からいただいたドローイング作品。1981年に墨で描かれたもの。この時、色彩の入ったものは、1枚もとらず、すべて墨の作品を5枚選択。「変ったものを選ぶね」と言われた時はうれしかった。5枚のドローイングの中に、日本人にしか紡ぎ出せない心象風景を感じたので、思わず手が伸びたのだ。

 群馬県新桐生にあるオノサト・トシノブ〔1912~1986〕のアトリエを訪問し、美術談話をしたことがあった。アトリエは真白な空間で、よく整頓されていて、彼の作品を彷彿とさせるものだった。非常に真面目で純粋な作家で、毎日、作品を描くことのみに打ち込んでいる姿勢が強く感じられた。アトリエを去る挨拶をし始めると、オノサト氏は隣りの部屋に入り、小さな水彩作品1枚をもってきて、「これをさしあげます」とはにかんだような表情でさしだしてきた。

オノサト  オノサト・トシノブ
  1985年
  水彩
  10.0×14.8cm
  サインあり



■予想だにしなかったが、オノサトの作品を欧米の正統派コレクターが所有しているのには驚いた。イギリス、フランス、スイス、イタリア、アメリカで出会った。Oil on canvasの自分のコレクションでも、8作品のうち、アメリカとスイスから購入したものが4点。外国人は作品の性格を実に良く知っているのに、又驚かされた。海外でみた作品はすべて、1957年~67年の間の作品である。それ以外の年の作品は見ることができなかった。

≪筆者のオノサト・コレクション≫
1960年〔1点:New Yorkで購入〕・1963年〔1点〕・1965年〔1点:New Yorkで購入〕・1966年〔1点:スイスで購入〕・1967年〔1点:スイスで購入〕・1968年〔1点〕・1969年〔1点〕・1970年〔1点〕
この写真は、文中で記述した、作家よりいただいた水彩。訪問日は1986年5月31日。


 2人の作家のこれらの行為を冷静に見てみると、ある共通したものが浮んでくる。
 自分の作品を集めているコレクターに、さらに親近感を持ってもらおうとする作家の気持、そして、「さらに良き人間関係をつくろう」とする意思が感じられた。これへのひとつの具体的行為が、「オミヤゲ」という形をとって露呈したのでは……。そして、作家の心には、日本的な情として、遠路はるばる訪ねてくれたコレクターへの感謝の気持も重ねているように思えたのだ。どのようなコレクターとも誠心誠意つきあい、自分の立場を捨象してまでも、精神的な結びつきを大切にしているように感じてならなかった。

■  ■

 アメリカの現代美術の1970年代の代表作家の一人、ジョエル・シャピロ〔1941~ 〕('注1)の作品を1980年代初頭から、ユッタリと追い始めた。シャピロと一度会ってみたいとかねがね思っていた。1986年のことだった。シャピロの契約画廊のポーラ・クーパー画廊('注2)の当時のディレクター、ダグラス・バックスターが気をきかせてくれ、「シャピロと会ってみないか……? 電話しておいたから……」
 マンハッタンのソーホー地区から徒歩で10分程のブリーカー通りにあるステューディオを訪れた。ドアーがあき、眼があった。挨拶が終えた直後、室内に招き入れることもなく、突然つぶやいた。
「どんな作家の作品をコレクションしているのですか?」
「外国人作家では、ジャン・デュビュッフェ('注3)、ルチオ・フォンタナ、アグネス・マーティン('注4)……」
「いい作家を集めてますね。どこの画廊から彼等の作品を買ったのですか?」
「デュビュッフェはピエール・マティス画廊('注5)。フォンタナはミラノのナビリオ('注6)。アグネス・マーティンはペース・ウェルデンシュタインから」
「どれも、すばらしい画廊から作品を買っているじゃないか……。中に入りなさい」
 この一連の何気ない対話、日常よくあるそれのように思うのが、日本人。しかし、対話の裏側には、コレクターの体質を見極めるようとする作家の鋭敏な意思が潜んでいる。
 コレクションしている“作家名”で、コレクターのレベルを推し量る。
 超一流画廊の画廊主は、なにより増して、「非常に眼が良い」 それ故、超一流の位置まで昇りつめたのだ。又、扱う作品の質やタイプへのこだわりも並ではない。作品を購入した画廊名を聞くことでもって、より深く、コレクターのセンスや体質、そして眼までもがあぶり出せる。
 このコレクターとつきあって「プラスになるのか?」冷徹に判断する。もし、彼の意にそわない答が返ってきたなら、「今日は忙しいので、またの日に……」とつれない言葉がかえってきたに違いない。ユダヤ人らしいプラグマティックな思考回路をみた。
 シャピロ以外の作家や欧米の超一流画廊で、この種のなにげない質問を度々浴びせられている。

シャピロ


■ブリーカー・ストリートにあるジョエル・シャピロのステューディオの内部のほんの一部分の光景。1階は立体作品を制作するところ、2階はドローイングと版画を制作するところになっている。どのフロアーも体育館のような広さ。〔地下には作品の倉庫〕写真の一番奥の壁にとめられているドローイングは、筆者のコレクションに入ったもの。
■この写真は1987年12月6日に撮影したもの。


■  ■

 長い歴史の中で異民族の侵入もなく、四方を海で囲まれた島国の中で、単一民族の類似した価値観や感性の人々でもって、営まれた日本人の日常生活。これに馴れ切った人々にとっては思考形態が、かなり差異のある民族とのコミュニケーションは不得手だ。
 しかし、現在、産業界をはじめとして、あらゆる分野で急速に広がりだしたグローバル化。いや応無しに、価値観の異なる人種との対応は避けて通れない。今、日本の企業が苦労している。
 日本の現代美術の分野でもこれが始まっている。日本を代表する’70年代の作家、高松次郎、中西夏之、“もの派”の菅木志雄、榎倉康二、関根伸夫……。ほんの1~2年前まで、母国で無視され、忘却の彼方に押しやられていた。突然、変化がやって来た。欧米の一流美術館、画商、そしてコレクターが彼等に眼をつけ始めた。またたく間に、これが数値であらわれた。欧米の美術市場で、彼等の作品に想像を絶するような価格がつけられ始めた。
「欧米の美術関係者は自分達の文化の限界状況を薄々察知し始め、自分達の文化では紡ぎ出せないものをさがし始めた」のか…?
 次回に、この状況が具体的にどんな形で世間に表出しだしたか、記述してみたい。
 自国民には無視されたが、自国の特殊な風土で育まれた感性で制作された作品に、日本特有の洗練さ、緻密さそして独創性が宿り、それらが彼等の眼に新鮮にうつったのではないか。
 しかし、グローバル化とは、そんな単純なものではない。まず、第一歩として、“日本人が創出した美”にむらがった。程なく次のステージに入り、欧米人独特の思考、美術史への思惑、商売の手法などの強い洗礼をうけるのだ。時間の経過と共に、この事象はより複雑化してゆく。
 例えば、前述の「コレクターに対する日本人作家とアメリカ人作家の対応の相違」の中から見えてきたような事、その他多種多様な異次元の事象が、作品の周囲に発生する。異和感をかなりいだくに違いない。
 このような事象に忍耐強く、重ねて対応してゆくことで、グローバル化への“真の成熟度”が徐々に醸成されてゆくのだ。日本の現代美術のグローバル化は、今、入口に入ったばかりだ。

■  ■

ささぬまとしき

注1
ジョエル・シャピロ〔Joel Shapiro: 1941~〕ニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人。ニューヨーク大学修士。初めての個展を開いたのが1970年、開廊して二年のポーラ・クーパー画廊だった。
 70年代前半の作品は、手の平にのるような小さなサイズの立体で、その形状は家、橋、椅子、舟……といたって単純なものだった。例えば「家」。無造作に床に置き、少し離れた場所から凝視していると、“見ている”という現実を通り越し、“暗示”の世界に引きずり込まれていく。個々人の異なった人生体験を通して、この家を見入った時、何を思い起こさせるか?心理学的な要素を応用した作品は世界の注目を集めた。
 70年代後半から80年代にかけては、四角柱を組み合わせ、人間の動作を単純化して表現した人形のような作品を制作。これも当初、小さかった。しかし、徐々にサイズは大きくなり、巨大な人形の立体作品も制作している。
 90年代に入り、作品の内容はより抽象化したものに変化し始めた。これらの変化はみな成功している。
 一方、パステル、チャコール、グラファイトなどを使用したドローイングの評価が極めて高い。ポーラ・クーパーがつぶやいていた。「人気という点から見ると、立体作品とドローイングでは、1対1。コレクターはそれぞれに異なった魅力があると言っていますよ。ドローイングは立体を制作するための下書きではなく、彼の場合、独立した別個の作品なの」。70年代に出現した、比類のない作家である。自分の殻をさらにやぶろうとしたのか、1993年には、契約画廊をポーラ・クーパー画廊からペース画廊に変えた。

注2
ポーラ・クーパー画廊〔Paula Cooper Gallery〕。1968年に画廊などない倉庫街だったニューヨークのマンハッタンのソーホー地区、155 Wooster Street に開廊。1970年代後半から80年代にかけて、この地域は一大画廊街に変わり、活況を呈していた。その礎を築いた画廊だ。ポーラは静かで温和な女性だった。感情の起伏も少なく、ハッタリもない。カケヒキの言葉も聞いたことがない。この性格が、画廊に集まった作家の体質にも表れている。静かで、知的な作風の作家が多かった。ドナルド・ジャッド、ロバート・マンゴール、ジョエル・シャピロ、カール・アンドレ、ジェニファー・バートレット……。70年代の代表作家をたくさん世に出し、70年代の代表画廊として、その名を世界にとどろかす。日本との関係もある。1996年5月3日から草間彌生展を開き、出展作品35点を完売。これが反響を呼び、世界が注目。草間が世界の美術市場にのるきっかけの一つとなった。

注3
ジャン・デュビュッフェ〔Jean Dubuffet: 1901~86〕。フランスのノルマンディ地方の港町、ル・アーヴルでワインを商う極めて裕福な商家に生まれた。「文化的洗練を嫌悪し、上品な趣味に反発し、原始人、未開人、幼児、精神障害者などの絵画に創造の根源を求め、西欧文化に鋭い批判を加えた」〔『美術手帖』1993年1月号「現代美術事典」〕。小石、砂、紐、木の葉、蝶の羽、コールタールなど、絵の具以外の素材を多様に使用、特異な感性の作品を制作した。第二次世界大戦後の現代美術の巨匠である。

注4
アグネス・マーティン〔Agnes Martin: 1912~2004〕。カナダのサスカチュアンで生まれ。1932年にアメリカに移住。コロンビア大学で学ぶ。ニューヨークで過ごした1957年の十年間、エルズワース・ケリー、ロバート・インディアナなど幾何抽象の作家やアド・ラインハートなどとの交友を通して、自分の絵画スタイルをつくりあげてゆく。1960年代前半から、マーティン特有の、画面全体を格子文様や直線の縞文様でおおう、非常にシンプルで精神性の高い抽象作品を制作し始める。
 1967年に片想いをしていたラインハートが亡くなると、一時、制作を数年間停止。同時に、住居をニューヨークからキューバへ移し、次にニューメキシコのサンタフェに移る。亡くなるまで、この地で制作。1990年代から急激に評価が高まる。

注5
ピエール・マティス画廊〔Pierre Matisse Gallery〕。画廊主のピエール・マティスは20世紀の絵画の巨匠、アンリ・マティスの次男。1931年10月、ニューヨークのマンハッタンの中心繁華街の一角、41 East 57th Streetのフラー・ビルディングに開廊。1989年、ピエールの死去で、五十八年間にわたる輝かしい画廊の歴史に幕を下ろす。この間、1964~66年にピエールは、アメリカ画商協会の初代会長をつとめた。天性の眼のよさ、そしてたくさんの有名作家や世界的コレクターを育てあげたことで、誰もが認める富世出の超一流画廊として、その名を世界にとどろかせた。
 個展を開いた主力の扱い作家は……、ジョアン・ミロ、アレキサンダー・カルダー、アンリ・マティス、マルク・シャガール、ロベルト・マッタ、ジャン・デュビュッフェ、アルベルト・ジャコメッティ、バルテュスなど。

注6
ナビリオ画廊〔Galleria del Naviglio〕。ルチオ・フォンタナ、アルベルト・ブーリ、ピエロ・マンゾーニ、……など、イタリアの有力作家の作品を扱う歴史ある画廊。デュビュッフェは初期の作品を多く扱っている。日本人作家では草間彌生をかなり前から扱い、一時期の高松次郎も扱った。Via Manzoni 45, Milano, Italyにある。
(注釈は笹沼俊樹著『現代美術コレクションの楽しみ:商社マン・コレクターからのニューヨーク便り』から部分引用)

■笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。

*笹沼俊樹さんのエッセイは毎月8日に更新します。
※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。