先月のことでした。
長野県坂城でリトグラフの工房(森工房)を主宰していた森仁志さんが亡くなられたことを奥様からの電話で知りました。
癌であることはご本人からもうかがっていたのですが、亭主より一つ若い、早すぎる死でした。
刷り師というと職人さんというイメージがあるでしょうが(もちろん森さんは職人としても抜群の技能の持ち主でした)、森さんの経歴は少しかわっています。
最初は美術雑誌『三彩』の編集者として働き、今や創作版画の基本文献として重要な位置を占める小野忠重『近代日本の版画』(1971年)や創作版画雑誌『方寸』の復刻を担当しました。気難しい小野先生に付き合い、あの本を刊行したことだけでも、亭主などは恐れ入ってしまう。該博な版画への知識は学者並みでした。
三彩をやめパリでリトグラフの技術を習得します。
パリから帰国し1976年に東京でリトグラフの工房を開設するのですが、なにごともちまちましたことの嫌いな森さんは「狭い東京のマンションじゃあろくな仕事はできない。くにに帰ってもう少しましな工房をつくりたいのだが、果たして作家がわざわざ信州の田舎まで来てくれるだろうか」と、相談というか(既に決心は固かった)、宣言をしに亭主の渋谷の事務所に来られた日のことを昨日のように思い出します。
亭主は「版画の版元」をやっていましたから、刷り師(版画工房)との連携は欠かせない。
シルクスクリーンなら岡部徳三、石田了一、銅版画なら山村兄弟、そしてリトグラフは森仁志さんという風に。

坂城に作った森さんの工房に、亭主はスタッフたちと押しかけ奥様のつくる美味しい手料理をご馳走になることもしばしばでした。
難波田龍起先生ご夫妻をご案内し、坂城に伺い、当時としては特大サイズのリトグラフを制作していただいたことは、このブログでも「難波田龍起先生との出会い2~大判の力作「石の時間」」として書きました。
ちまちまケチケチが嫌いな森さんは何事もホンモノ志向で、リトグラフ用の石版など、「あなたは石のコレクターか」と思う程たくさん持っていて、絵の具や紙など高価なものを惜しみなく作家に提供していました。
何よりも素晴らしかったのはその色彩感覚でした。
それまで日本の刷り師がつくるリトグラフは、寝ぼけたような鈍い色彩のものが多かったのですが、森さんの出現によって、鮮やかで華やかなリトグラフの世界が版画界を席捲します。

やがて森さんは日本画家小松均先生の「畳一畳ほどのリトグラフは出来ないか」との依頼がきっかけで、世界最大級の巨大プレス機を自ら発注し、それを設置するための新たな版画工房の設計を原広司先生に依頼します。
当時東大の助教授で、あまり仕事のなかった原先生を紹介したのは亭主です。
その経緯も「森仁志作品展」の挨拶で述べました。

40年近い間、森さんには随分と助けていただきました。
舟越保武のリトグラフ~虎ノ門パストラル」のこともいい思い出です。
parco191森仁志
1983年6月7日
渋谷パルコ「ウォーホル展」オープニングにて
森仁志さん

晩年、おそらくは自らのからだの状態を覚悟されてでしょう。工房の仕事から徐々に退かれ、若いころ目指した「画家への夢」をよみがえらせます。
森仁志さん、パリでの個展」に続き、上野の森美術館でも大規模な個展を開催しました。

奥様は「したいことをして、悔いはなかったと思います」とおっしゃっていましたが、残されたご家族の悲しみはいかばかりでしょう。
森さんのご冥福を心からお祈りする次第です。

難波田龍起石の時間難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA
石の時間
1979年
リトグラフ(刷り:森仁志)
60.0×100.0cm
Ed.25 Signed
※レゾネNo.10

funakoshi-y_02_wakaionna-b舟越保武
「若い女 B」
1984年 
リトグラフ(刷り:森仁志)
48.5×37.0cm
Ed.170  Signed

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