"You've made a smart move"
笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第6回
「うまいことやりましたね」
1988年3月3日~31日の会期で、70年代のアメリカ現代美術を代表する作家の一人、ジョエル・シャピロ〔1941~ 〕の個展(資料1)が、ニューヨークのポーラ・クーパー画廊で開かれた。
当時のこの画廊のダイレクター、ジム・コーハンをして、「As an entire series of drawings, these are the most authoritative Joel has ever done」〔彼が今迄に制作したドローイング・シリーズの中で最も傑作ぞろい〕と言わしめた程の内容の充実したドローイング展(注1)だった。
全出品作品は23点。3室に分けて展示。オランダの超一流美術館、ステデリック美術館、アメリカ美術の殿堂、ホイットニー美術館、ニューヨーク近代美術館〔(223.5x152.4)cmの作品購入〕、東洋美術のコレクションで世界的なクリーブランド美術館、オハイオ州のトレド美術館、5館もの美術館がこの展示作品の中の大作を購入している。
ひとつの個展で、これ程多くの有力美術館が買いに入ったのは記憶にない。5館共に典型的な「これぞシャピロ」という作品を選択していた。
一方、ニューヨーク・タイムズ紙を始めとして、沢山のマスメディアは、こぞってこの個展を絶賛した。当然、出品作品は初日で完売。〔実際は初日のかなり前に、完売となっていて、世間体上、初日完売としたようだ〕
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■資料1
<表>
1988年3月3日~31日の間、ポーラ・クーパー画廊で開かれたジョエル・シャピロ展の案内状。
<裏>
これはクリーブランド美術館が購入した作品。〔1987年制作〕紙にチャコールでイメージが描かれ、作品サイズは〔189.9x153.0〕cm。図柄はこの個展の中でも極上質の作品。
個展時の価格は$30,000.-。今、思えば、ものすごく安い。
■注1
ジョエル・シャピロは木やブロンズ、鉄を材料にした立体作品とチャコール、パステル、水彩を使用したドローイングを制作し、作品としている。
油彩を使用した平面作品は制作してない。
ポーラが言っていた。「ドローイングは立体作品のための習作ではなく、彼の場合は独立した作品なのよ。市場での人気は立体とドローイングでは1:1。両方共に評価は非常に高いのよ」
-------------------------------------------------------------------
ポーラが何回か口にした言葉を思い出す。「重要な作家〔契約作家〕の作品を売るのに、コレクターの体質を良く見極めるのが大切なの。又、特定の一人のコレクターに、一人の作家の作品を沢山売ることはしないのよ」将来、そのコレクターが作品を手放す可能性を配慮、極力値崩れの原因をつくらないようにしているのだ。画商として、その作家の市場をシッカリと確立する努力を続けている。このようなシステムを構築していれば、2次的にコレクターにも、そのオコボレがまわってくる。
シャピロの作品がオークション市場にあまり出てこないのは、ポーラ・クーパー画廊の確かな顧客選択とその管理がゆきとどいているからと言われている。
この個展から3年半程経った時、「オヤ」と思う出来事が発生した。
個展の展示作品23点の中の1点が、ニューヨークのサザビーズに出品された。「こんなに早く、オークションに出てくるとは……!」 珍しいことなので、驚いた。「上手の手から水が漏る」と言うが、こうゆうことも起りうるのだ。
「これ、チャンスだ」と即座に思った。「自分の思っている価格より、上にゆくか?、はた又、下にゆくか?」分らないが、アメリカの超一流画廊のポーラ・クーパーでは、「このオークションの結果」に対して、どのような情況分析をするのか……? 是非聞いてみたい。自分にとって、アメリカの正統派画商の≪思考形態≫を知るまたとない機会と思った。
オークションに出た作品(資料2)は、この個展で、「ニューヨーク在住のコレクターが買って、その価格は$24,000.-」と1988年3月29日の日記に書き留めてあった。
個展は会期中に、3回見にいった。23点の中で3点、「これは買いたくない」と思う作品があった(注2)。その中の1点がこれ。3室の展示室で、一番奥の部屋で受付カウンターの背後に展示されていた。その場でのこの作品に対する印象は「シャピロの作品としては、画面に動きもなく貧弱」。
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■資料2
Joel Shapiro
《UNTITLED》
Charcoal and chalk on paper
134.6 by 145.4cm.
Drawn in 1986
Provenance:
Paula Cooper Gallery, New York
$20,000-25,000
1991年10月3日のニューヨークのサザビーズのオークションに出品された作品。
■注2
スマートな作家は将来の事も考え、個展の中でも多様な試みをする。次の“変化”のステージに対し、抱えているアイディアやイメージを描いた作品をごく少数出展することがある。そこで、コレクターやマスメディアの反応を見る。この頃、シャピロは“変化”の“兆し”を出し始めていた。長年親しんだ従来のイメージと異ったものが出てくるので、異和感を感じるのは当然と思える。
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一方、この頃、経済情勢は厳しい方向に急速に向っていた。この事は8月8日の第4回エッセイの中でも触れている。
1990年1月にニューヨークの美術市場下落開始、90年6月にはパリ市場も下落開始、91年2月ドイツ市場下落開始。バブルが崩壊に入っていった。このような中、サザビーズのニューヨーク・オークションは1991年10月3日に開かれた。どの作品も結果はひどいものになった。めぼしい作品は落札されても、落札予想価格の最高値の1/2ぐらい。そうでないとBI〔不落札〕だった。
シャピロのこの作品は、健闘したが、落札予想価格〔$2万~$2.5万〕に対して、ハンマー・プライスは$23,000.-。この値は、自分の予想より下回っていた。又、出品したコレクターにとっては買い値より下。
そこで、ジム・コーハンに10月12日にFAXを送った。“本音”を引き出す為に、誇張したキツ目の言葉を使った。
「値が全くでなかった。これどうしてなのか? シャピロの人気が落ち始めたのか?」
彼からの返答が来た。「今回のオークションで、≪3つの重要な事実≫を頭において下さい。それらによっての結果です」
その3つの事実とは……。
○〔i〕:このドローイングはシャピロの典型的なものではなかった。あなたが良いと思ったか、又は、あなたや多様なコレクターが購入した作品より異和感の強いものだった。
ペーパー・サイズ〔作品の紙のサイズ〕は大きかったけれど、描かれているイメージが小さかった。
○〔ii〕:このドローイングは長い間、マーケットに浮いていた。ポーラ・クーパーからこの作品を買ったコレクターは以前に、一度オークションに出し、成功せず。その時の落札予想価格が$45,000.- to $55,000.-だった。
○〔iii〕:シッカリとしたコレクターはオークションでより、プライマリー・ディラーから作品を購入することを望んでいる。
この各項を見ると、非常に素直で、ごく当たり前の見方だ。プロがよく口にするテクニカルなヒネッた見解は見られなかった。正統派と言われる画商は基本に忠実に当たり前のことをシッカリとふまえて動いていることが分った。要するに、作家の本質や特質を知り尽くす努力を重ねる事が大切と言っているような感じがした。
〔ii〕では、日本でも同様で、目アカのついた作品は嫌われる。 ただ、このような利ザヤ取りタイプのコレクターを見抜けなかったポーラ・クーパーにも、ポカがあることが分った。
この個展の舞台裏をのぞいて見て驚いた。今迄、知らなかった事を見せつけられた。
個展開始の3ヵ月前の1987年12月5日、ポーラ・クーパー画廊の倉庫に入らさせてもらった。この個展のための作品が額づけされ、次々と運び込まれていた。既に、大小混ぜて12点程あった。女性のアシスタントが「これら、全部、予約済みなのですよ」
ポーラの上得意の富裕層コレクター(注3)が個展前に、次々と画廊を訪れ決めてゆく。これら以外の何のツテもない、又、多少顔が知られているぐらいの客では、手も足も出ないことを知った。人気作家は恐ろしい状況になっていた。この光景を眼にしたコレクター達は何を感じるだろうか……。
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■注3
ジョエル・シャピロのコレクションをしている有名コレクター(世界レベルで)は、1980年代後半時点〔'87年頃のデータか:シャピロ46才頃〕で60名程存在。アメリカ46人、イギリス4人、スウェーデン3人、イタリア2人、オランダ2人、スイス1人、ドイツ1人、コロンビア1人。
ジュゼッピ・パンザ・デイ・ビィウモ伯爵〔イタリア、現代美術大コレクター〕
ジャネット・ボニエール〔スウェーデン、現代美術コレクター〕
ポール・アンカ〔米、大ヒット曲<ダイアナ>を歌ったシンガーソング・ライター・現代美術コレクター
特に、シャピロの作品を沢山もっている〕
バリー・ローウエン〔米、現代美術大コレクター、相当点数所有〕
チャールズ・サーチ〔英、現代美術大コレクター〕
など、名をあげれば、シャピロのコレクターがどんな体質の人が多いか、よく分る。
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“利”というものだけに強い関心を持ち、日頃の作家研究も怠り、そして、その作家の作品のどんなイメージが好みかも、あまり踏み固めてないコレクターは、おそらく、この凄い雰囲気にあおられ、のまれてしまう。なまらはんかな眼では、十分に機能しない。作品に、ありつけたとしても、とんでもない作品を選択してしまう可能性が大。やはり、日頃、たゆむことのない自己鍛錬は大切なように思えた。
この個展の作品だけは何とかして手に入れたいと思った。展示作品群はシャピロのひとつの頂点を象徴するものになるに違いないと思ったからだ。
この尋常でない熱い状況を見ていて、咄嗟〔トッサ〕に気づいたのは正攻法でなく、≪カラメ手≫にまわることだった。あの騒々しさも極にあった12月のことだ。シャピロのステューディオに向った。ここは嘘のように静かだった。まだ額もつけられてない、この展覧会用に取り置かれていた作品(資料3)に運よくめぐりあえ、購入できた。
個展会場では、美術館購入作品が展示されているメインの大展示室で、ニューヨーク近代美術館の購入作品の右、二ツ目に飾られていた。三回目に見に行った時、帰り際に、ジム・コーハンとバッタリ。彼は片眼をつぶり、つぶやいた。
「あの作品を取れたのはラッキーでしたね。みんなほしがってますよ。うまいことやりましたね」
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■資料3
Joel Shapiro
《UNTITLED, 1987》
Charcoal, chalk & pastel on paper
〔(H)108.0x(W)76.8〕cm
筆者蔵
自分では、シャピロのドローイングのコレクションはサイズ〔110x80〕cmぐらいでなるべく、そろえるようにした。従って、このサイズでの価格の変遷は頭に入っている。今回の個展で購入したこの作品も、ほぼこのサイズに近い。価格は$16,000.-。
1987年の夏前までは、このサイズで$12,000.-だった。今回の価格上昇は33.3%up。ポーラは、「今までは安すぎた」と言っていた。
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(ささぬまとしき)
■笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。
※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・去る8月20日亡くなられた宮脇愛子先生のエッセイ「私が出逢った作家たち」はコチラです
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・新連載・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
・新連載・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
・去る5月17日死去した木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り(再録)」は毎月17日の更新です。
・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は毎月23日に再録掲載します。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。
●今日のお勧め作品はルディ・バークハートです。
ルディ・バークハート Rudy BURCKHARDT
「"Eagle" Barber Shop Window, New York City(1939) 」
ゼラチンシルバープリント
24.0x32.0cm Ed.75
サインあり
作家と作品については、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第12回をお読みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第6回
「うまいことやりましたね」
1988年3月3日~31日の会期で、70年代のアメリカ現代美術を代表する作家の一人、ジョエル・シャピロ〔1941~ 〕の個展(資料1)が、ニューヨークのポーラ・クーパー画廊で開かれた。
当時のこの画廊のダイレクター、ジム・コーハンをして、「As an entire series of drawings, these are the most authoritative Joel has ever done」〔彼が今迄に制作したドローイング・シリーズの中で最も傑作ぞろい〕と言わしめた程の内容の充実したドローイング展(注1)だった。
全出品作品は23点。3室に分けて展示。オランダの超一流美術館、ステデリック美術館、アメリカ美術の殿堂、ホイットニー美術館、ニューヨーク近代美術館〔(223.5x152.4)cmの作品購入〕、東洋美術のコレクションで世界的なクリーブランド美術館、オハイオ州のトレド美術館、5館もの美術館がこの展示作品の中の大作を購入している。
ひとつの個展で、これ程多くの有力美術館が買いに入ったのは記憶にない。5館共に典型的な「これぞシャピロ」という作品を選択していた。
一方、ニューヨーク・タイムズ紙を始めとして、沢山のマスメディアは、こぞってこの個展を絶賛した。当然、出品作品は初日で完売。〔実際は初日のかなり前に、完売となっていて、世間体上、初日完売としたようだ〕
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■資料1
<表>1988年3月3日~31日の間、ポーラ・クーパー画廊で開かれたジョエル・シャピロ展の案内状。
<裏>これはクリーブランド美術館が購入した作品。〔1987年制作〕紙にチャコールでイメージが描かれ、作品サイズは〔189.9x153.0〕cm。図柄はこの個展の中でも極上質の作品。
個展時の価格は$30,000.-。今、思えば、ものすごく安い。
■注1
ジョエル・シャピロは木やブロンズ、鉄を材料にした立体作品とチャコール、パステル、水彩を使用したドローイングを制作し、作品としている。
油彩を使用した平面作品は制作してない。
ポーラが言っていた。「ドローイングは立体作品のための習作ではなく、彼の場合は独立した作品なのよ。市場での人気は立体とドローイングでは1:1。両方共に評価は非常に高いのよ」
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ポーラが何回か口にした言葉を思い出す。「重要な作家〔契約作家〕の作品を売るのに、コレクターの体質を良く見極めるのが大切なの。又、特定の一人のコレクターに、一人の作家の作品を沢山売ることはしないのよ」将来、そのコレクターが作品を手放す可能性を配慮、極力値崩れの原因をつくらないようにしているのだ。画商として、その作家の市場をシッカリと確立する努力を続けている。このようなシステムを構築していれば、2次的にコレクターにも、そのオコボレがまわってくる。
シャピロの作品がオークション市場にあまり出てこないのは、ポーラ・クーパー画廊の確かな顧客選択とその管理がゆきとどいているからと言われている。
この個展から3年半程経った時、「オヤ」と思う出来事が発生した。
個展の展示作品23点の中の1点が、ニューヨークのサザビーズに出品された。「こんなに早く、オークションに出てくるとは……!」 珍しいことなので、驚いた。「上手の手から水が漏る」と言うが、こうゆうことも起りうるのだ。
「これ、チャンスだ」と即座に思った。「自分の思っている価格より、上にゆくか?、はた又、下にゆくか?」分らないが、アメリカの超一流画廊のポーラ・クーパーでは、「このオークションの結果」に対して、どのような情況分析をするのか……? 是非聞いてみたい。自分にとって、アメリカの正統派画商の≪思考形態≫を知るまたとない機会と思った。
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オークションに出た作品(資料2)は、この個展で、「ニューヨーク在住のコレクターが買って、その価格は$24,000.-」と1988年3月29日の日記に書き留めてあった。
個展は会期中に、3回見にいった。23点の中で3点、「これは買いたくない」と思う作品があった(注2)。その中の1点がこれ。3室の展示室で、一番奥の部屋で受付カウンターの背後に展示されていた。その場でのこの作品に対する印象は「シャピロの作品としては、画面に動きもなく貧弱」。
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■資料2
Joel Shapiro《UNTITLED》
Charcoal and chalk on paper
134.6 by 145.4cm.
Drawn in 1986
Provenance:
Paula Cooper Gallery, New York
$20,000-25,000
1991年10月3日のニューヨークのサザビーズのオークションに出品された作品。
■注2
スマートな作家は将来の事も考え、個展の中でも多様な試みをする。次の“変化”のステージに対し、抱えているアイディアやイメージを描いた作品をごく少数出展することがある。そこで、コレクターやマスメディアの反応を見る。この頃、シャピロは“変化”の“兆し”を出し始めていた。長年親しんだ従来のイメージと異ったものが出てくるので、異和感を感じるのは当然と思える。
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一方、この頃、経済情勢は厳しい方向に急速に向っていた。この事は8月8日の第4回エッセイの中でも触れている。
1990年1月にニューヨークの美術市場下落開始、90年6月にはパリ市場も下落開始、91年2月ドイツ市場下落開始。バブルが崩壊に入っていった。このような中、サザビーズのニューヨーク・オークションは1991年10月3日に開かれた。どの作品も結果はひどいものになった。めぼしい作品は落札されても、落札予想価格の最高値の1/2ぐらい。そうでないとBI〔不落札〕だった。
シャピロのこの作品は、健闘したが、落札予想価格〔$2万~$2.5万〕に対して、ハンマー・プライスは$23,000.-。この値は、自分の予想より下回っていた。又、出品したコレクターにとっては買い値より下。
そこで、ジム・コーハンに10月12日にFAXを送った。“本音”を引き出す為に、誇張したキツ目の言葉を使った。
「値が全くでなかった。これどうしてなのか? シャピロの人気が落ち始めたのか?」
彼からの返答が来た。「今回のオークションで、≪3つの重要な事実≫を頭において下さい。それらによっての結果です」
その3つの事実とは……。
○〔i〕:このドローイングはシャピロの典型的なものではなかった。あなたが良いと思ったか、又は、あなたや多様なコレクターが購入した作品より異和感の強いものだった。
ペーパー・サイズ〔作品の紙のサイズ〕は大きかったけれど、描かれているイメージが小さかった。
○〔ii〕:このドローイングは長い間、マーケットに浮いていた。ポーラ・クーパーからこの作品を買ったコレクターは以前に、一度オークションに出し、成功せず。その時の落札予想価格が$45,000.- to $55,000.-だった。
○〔iii〕:シッカリとしたコレクターはオークションでより、プライマリー・ディラーから作品を購入することを望んでいる。
この各項を見ると、非常に素直で、ごく当たり前の見方だ。プロがよく口にするテクニカルなヒネッた見解は見られなかった。正統派と言われる画商は基本に忠実に当たり前のことをシッカリとふまえて動いていることが分った。要するに、作家の本質や特質を知り尽くす努力を重ねる事が大切と言っているような感じがした。
〔ii〕では、日本でも同様で、目アカのついた作品は嫌われる。 ただ、このような利ザヤ取りタイプのコレクターを見抜けなかったポーラ・クーパーにも、ポカがあることが分った。
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この個展の舞台裏をのぞいて見て驚いた。今迄、知らなかった事を見せつけられた。
個展開始の3ヵ月前の1987年12月5日、ポーラ・クーパー画廊の倉庫に入らさせてもらった。この個展のための作品が額づけされ、次々と運び込まれていた。既に、大小混ぜて12点程あった。女性のアシスタントが「これら、全部、予約済みなのですよ」
ポーラの上得意の富裕層コレクター(注3)が個展前に、次々と画廊を訪れ決めてゆく。これら以外の何のツテもない、又、多少顔が知られているぐらいの客では、手も足も出ないことを知った。人気作家は恐ろしい状況になっていた。この光景を眼にしたコレクター達は何を感じるだろうか……。
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■注3
ジョエル・シャピロのコレクションをしている有名コレクター(世界レベルで)は、1980年代後半時点〔'87年頃のデータか:シャピロ46才頃〕で60名程存在。アメリカ46人、イギリス4人、スウェーデン3人、イタリア2人、オランダ2人、スイス1人、ドイツ1人、コロンビア1人。
ジュゼッピ・パンザ・デイ・ビィウモ伯爵〔イタリア、現代美術大コレクター〕
ジャネット・ボニエール〔スウェーデン、現代美術コレクター〕
ポール・アンカ〔米、大ヒット曲<ダイアナ>を歌ったシンガーソング・ライター・現代美術コレクター
特に、シャピロの作品を沢山もっている〕
バリー・ローウエン〔米、現代美術大コレクター、相当点数所有〕
チャールズ・サーチ〔英、現代美術大コレクター〕
など、名をあげれば、シャピロのコレクターがどんな体質の人が多いか、よく分る。
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“利”というものだけに強い関心を持ち、日頃の作家研究も怠り、そして、その作家の作品のどんなイメージが好みかも、あまり踏み固めてないコレクターは、おそらく、この凄い雰囲気にあおられ、のまれてしまう。なまらはんかな眼では、十分に機能しない。作品に、ありつけたとしても、とんでもない作品を選択してしまう可能性が大。やはり、日頃、たゆむことのない自己鍛錬は大切なように思えた。
この個展の作品だけは何とかして手に入れたいと思った。展示作品群はシャピロのひとつの頂点を象徴するものになるに違いないと思ったからだ。
この尋常でない熱い状況を見ていて、咄嗟〔トッサ〕に気づいたのは正攻法でなく、≪カラメ手≫にまわることだった。あの騒々しさも極にあった12月のことだ。シャピロのステューディオに向った。ここは嘘のように静かだった。まだ額もつけられてない、この展覧会用に取り置かれていた作品(資料3)に運よくめぐりあえ、購入できた。
個展会場では、美術館購入作品が展示されているメインの大展示室で、ニューヨーク近代美術館の購入作品の右、二ツ目に飾られていた。三回目に見に行った時、帰り際に、ジム・コーハンとバッタリ。彼は片眼をつぶり、つぶやいた。
「あの作品を取れたのはラッキーでしたね。みんなほしがってますよ。うまいことやりましたね」
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■資料3
Joel Shapiro《UNTITLED, 1987》
Charcoal, chalk & pastel on paper
〔(H)108.0x(W)76.8〕cm
筆者蔵
自分では、シャピロのドローイングのコレクションはサイズ〔110x80〕cmぐらいでなるべく、そろえるようにした。従って、このサイズでの価格の変遷は頭に入っている。今回の個展で購入したこの作品も、ほぼこのサイズに近い。価格は$16,000.-。
1987年の夏前までは、このサイズで$12,000.-だった。今回の価格上昇は33.3%up。ポーラは、「今までは安すぎた」と言っていた。
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(ささぬまとしき)
■笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。
※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・去る8月20日亡くなられた宮脇愛子先生のエッセイ「私が出逢った作家たち」はコチラです
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・新連載・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
・新連載・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
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・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は毎月23日に再録掲載します。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
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・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
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・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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●今日のお勧め作品はルディ・バークハートです。
ルディ・バークハート Rudy BURCKHARDT「"Eagle" Barber Shop Window, New York City(1939) 」
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24.0x32.0cm Ed.75
サインあり
作家と作品については、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第12回をお読みください。
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