「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第11回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.11

土渕信彦


11.『マルセル・デュシャン語録』(その1)
 「オブジェの店」の名称にRrose Sélavyの名の使用を許可してくれたことへの返礼として、当初は南画廊でオブジェ展を開催することも考えられたようだが、実現に至らなかった。実際に計画され具体化されていったのが、『マルセル・デュシャン語録』だった。デュシャン『塩の商人』(58年。図11-1)などの抄訳を大型本で作成し、デュシャン本人や関連の深い他の作家のオリジナル(マルチプル)を付して刊行しようというものでる。

図11-1 塩の商人図11-1
デュシャン『塩の商人』(瀧口修造宛て献呈本)、多摩美術大学瀧口修造文庫蔵


 この計画を瀧口は66年5月31日付けの手紙でデュシャンに相談した。『語録』の名称を《To and From Rrose Sélavy》とすること、また内容は以下のようなものとすることを説明し、デュシャンに意見を求めたのである。名称の使用許可に対する礼状(64年3月29日付け)以来、約2年振りで出された手紙ということになる。

マン・レイ撮影の、デュシャンの若い頃の横顔(プロフィール)の写真にチェンジ・ピクチャ―の「ウィルソン・リンカーン・システム」によってRrose Sélavyのサインを組み合わせる(図11-2)。
②映画「幕間」から、デュシャンとマン・レイがチェスをしている場面のスチール写真を掲載する(図11-3)。
ジャスパー・ジョーンズティンゲリー荒川修作によるデュシャンへのオマージュの作品を入れる。
④『塩の商人』の抄訳などのテクストで本文を構成する。
⑤瀧口によるデュシャン小論を付ける。

 このほか、「もしよろしければ」と断ったうえで、言葉かドローイングを寄せてもらえないかと、デュシャンに依頼した。ただし、謝礼は払えないので、完成品を何冊か必要なだけ渡すことで了解してほしいと付け加えている。また、フレディック・キースラーが描いたデュシャン肖像作品の複製を掲載した方がよいかも照会している。

 実はこの手紙が出される前に、上に名前の挙げられたジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作に対しては、すでに協力依頼をしていたようである。例えばジャスパー・ジョーンズには、日本に滞在していた64年5月頃に打診し、承諾を得ている。ティンゲリーと荒川修作についても、デュシャン宛に手紙を出す前に連絡を取り、内諾を得ていたのだろう。

図11-2 ウィルソン=リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ1図11-2 ウィルソン=リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ2図11-2
「ウィルソン・リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ」(完成品)、68年(個人蔵)


図11-3 映画「幕間」スチール写真図11-3
映画「幕間」スチール写真(『マルセル・デュシャン語録』掲載)


 手紙を受け取ったデュシャンは、その手紙に書き込む形で返信してきた。《To and From Rrose Sélavy》の名を了解し、作品提供の依頼についても快諾した。「手でちぎった色紙のプロフィールを送りましょう。ご入り用なら、その頃に連絡してください」と言ってくれたのである(訳は千葉市美術館「瀧口修造‐マルセル・デュシャン 書簡資料集」「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録による)。謝礼の代わりに完成品の贈呈で済ますことも了承してくれた。好意的な対応が続いていたようである。マン・レイとキースラーについては、直接了解を得るようにと、連絡先が記されていた。

 こうして準備が整い、66年の夏頃には実際に製作に着手されたと思われる。ここで瀧口を全面的に補佐したのは、読売新聞文化部の海藤日出男だった。当初から計画に関わり、印刷や発売、経理など、実質的な製作統括を行った。67年に読売新聞を退職してからは、(西落合の瀧口宅の隣に住んでいたこともあって)この仕事にほぼ専念することとなったようである。出来上った『語録』の奥付には「製作 海藤日出男」とクレジットされることとなる。

 本文の原稿の確定よりも先に、付属品となるマルチプルの原型(オリジナル)が、瀧口のもとに集まり始めた。まず、ジャスパー・ジョーンズの作品が出来た。66年10月の東京国立近代美術館「現代アメリカ絵画展」のために来日した際に、『語録』のための作品として、オブジェ「批評家は見る」のSummer版をレリーフ版画にした作品を制作することが決定された。この作品についてジャスパーが瀧口に説明した際のドローイングが残されている(図11-4)。そのまま、日本で借りたアトリエで制作を進め、同年末にセメント製のオブジェ本体(図11-5)と、レリーフ版画のためのワックス原型が完成した。11月の帰国当日に、枕カバーに包んで瀧口に渡されたそうだが、その時にはオブジェのセメントがまだ湿っていたそうである(「ローズ・セラヴィ ‘58~’68」「遊」73年1月による)。

図11-4 「夏の批評家」ドローイング図11-4
ジャスパー・ジョーンズ「夏の批評家」ドローイング、66年(個人蔵)


図11-5 「夏の批評家」オブジェ図11-5
同「夏の批評家」オブジェ、66年(個人蔵)


 このワックス原型をレリーフ版画に起こす作業は瀧口に委ねられ、岡崎和郎と加納光於の協力を仰ぐことになった。ワックス原型から岡崎和郎が歯科材料の合成樹脂で雌型をとり、それをもとに石膏でプレス用雄型(図11-6)が作られた。その雄型を用いて加納光於がエッチング用のプレス機で和紙をプレスしてレリーフ版画を作成した。数種の紙を用いた試し刷りをジャスパーに送ったところ、局紙の作品が選ばれだ。こうしてレリーフ版画「夏の批評家」の製作が進められ、ジャスパーのサインが入れられた(図11-7)。

図11-6 石膏雄型図11-6
岡崎和郎「夏の批評家」レリーフ版画のための石膏雄型、67年頃(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


図11-7 レリーフ版画図11-7
ジャスパー・ジョーンズ「夏の批評家」レリーフ版画、66年(『マルセル・デュシャン語録』収録)


 ティンゲリーと荒川修作からも印刷用の原作品が送られてきた(図11-8,9)。その指定に基づき、印刷絵画が制作された。ただしティンゲリーの作品は、印刷が出来上ってサインしてもらうために(おそらく67年末から68年に入った頃に)送った小包が、受取人不在で3か月後に返送されてくるというハプニングもあった。

図11-8 ティンゲリー原画図11-8
ティンゲリー印刷絵画「コラージュ・デッサン」原画、67年頃(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


図11-9 荒川修作原画図11-9
荒川修作印刷絵画「still life」原画、67年(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


 上の手紙で約束したとおり、デュシャンも67年初めに黄色の紙をちぎった「プロフィールの自画像」を送ってきた。67年1月3日付け消印のある封筒が残っている。この作品には、Marsel Duchampではなく、Marsel Dechiravirという偽名が記されていた。Dechiravirはデュシャンの造語で、瀧口によればdéchirer(裂く、破る)とravir(強奪する、心を奪う、うっとりさせる)の二つの動詞を合成したものとされている。瀧口は早速(1月19日付けで)礼状をしたため、「ロベール・ルベル宛に続いて2つ目となりますね」(前出「書簡資料集」)と書いているが、実際には2作目ではなく3作目だったようである。このプロフィールを黒い紙の上に載せ(図11-10)、原寸で複製して『語録』の口絵とする点の了解を得た。(当初、収録が検討されていたキースラーによるデュシャンの肖像の複製は、見送ることにした)

図11-10 デュシャン「プロフィールの自画像」図11-10
デュシャン「プロフィールの自画像」原画、67年(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


 マルチプルの印刷が進められているさなかの、67年7月28日にはデュシャンの誕生日を迎え、瀧口は祝電を打っている(図11-11)。またこの日、海藤日出男氏のほか制作協力者が集り、バー・レストラン「アクトレス」で誕生祝いの会食が持たれた。この「アクトレス」が日比谷の日生劇場ビルの地下にあった店だとすると、残念ながらすでに別の店に変わったようである。瀧口は会場に行く途中で百貨店に寄り、ベネディクティン酒を一瓶購入して携えて行った(図11-12)。

図11-11 デュシャン宛て祝電図11-11
デュシャン宛て誕生日の祝電「セラヴィバンザイ・アナタニ敬意ヲ・コチラノローズ(バラ)ハオソ咲キデスガマモナクヒラクデショウ」(瀧口自身の意訳)(67年7月28日)


図11-12 ベネディクティン酒の瓶図11-12
ベネディクティン酒の瓶(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


 これはもちろん、「グリーン・ボックス」のなかにベネディクティン酒の瓶が出てくることに因んだものである(「大ガラス」のチャリオット(往復台)の錘としてこの瓶が用いられている)。該当箇所を『マルセル・デュシャン語録』から下に引用しておく。

 「つぎのことが必然的に起こる―ベネディクティン酒の瓶のかたちをした鉛の錘がチャリオットに結びつけられた授賞(コルドン)の制度に平等にはたらきかけながら、チャリオットをAからBへ無理にも引っぱろうとするだろう。いかにも技巧たっぷりに。
 ベネディクティンの瓶の革命の唄。
 自分の落下によってチャリオットを引っぱったあと、ベネディクティンの瓶は鉤Cに引き上げられるままになる。瓶は上昇しながら眠る。死点が頭を下にしたままの瓶をびっくりするほど揺り覚ます。瓶は旋回しながら重力の命令にしたがって垂直に落下する。」

 67年秋にはチェンジ・ピクチャーを使った「ウィルソン・リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ」も出来上った。この作品は、もともと58年の欧州旅行の際にパリのセーヌ街の古本屋からもらった「ジュール・ベルヌ賞」の宣伝用オブジェから着想したものである(図11-13)。凸版印刷に依頼して作成したサンプルを、67年秋にデュシャンに送ると、10月14日付けの返信でOKが出て、「どこへサインしたらよいか?」と問われた。そこでこのチェンジ・ピクチャーをさらに白い台紙に貼り、その台紙にサインしてもらうことにした。60部をデュシャンに送ると、すべてにサインが入れられ、67年12月14日付けの小包で返送されてきた(図11-14)。デュシャンの一連のプロフィール作品の1つとなった訳である。こうして付属のマルチプルにはどうやら目途がついたのだが、肝心の本文の方は難航したようである。この点は次回に述べることにする。(続く)

図11-13 ジュール・ベルヌ賞のオブジェ図11-13
ジュール・ベルヌ賞宣伝用のオブジェ(富山県立近代美術館瀧口修造コレクション)


図11-14 デュシャンの小包図11-14
デュシャンの小包


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、殿敷侃です。
20150713_05_kani殿敷侃
「カニ」
銅版
12.3x16.0cm
Ed.30
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

お知らせ
本日13日(月)は休廊です。
ときの忘れものの主力スタッフはアメリカのアートサンタフェに出張中のため7月8日(水)~7月15日(水)まで不在です。
留守を預かるのが老兵とあってご注文やお問い合わせに直ぐには対応できない場合もあります。何かとご不便をおかけしますが、どうぞお許しください。