ときの忘れものは本日から24日まで夏休みです。
ニッパチと言われますが、例年8月はほとんど売上げはない。資金繰りに四苦八苦するのですが今年に限りオノサト先生の15年ぶりの展示が好評で、元永定正作品の注文も相次ぎ多忙な8月前半でした。
スタッフたちもここで一息入れて秋の陣に備えてくれることでしょう。
このブログは一年365日無休なので、夏休み期間中も変わらず更新していきますので、ぜひお読みください。
先日のオノサト・トシノブ展は戦前の具象作品から、一兵卒として戦地に赴き長いシベリア抑留を経て帰国、再び絵筆をとった1950年代の作品などを展示しました。
決してうまいとは言えない筆致、迷い、試行錯誤の跡が読み取れる作品群は、説明がなければどなたもこれがオノサト先生の作品だとは気付かなかったでしょう。
私たちの商売は「平和」あってこそのもので、昨日の敗戦記念日は先人たちへの感謝の気持ちとともに、戦後70年まがりなりにも貫いてきた不戦の誓いをあらためて確認した次第です。
さて、このところの美術や建築、デザインなどの分野で大騒ぎになっている出来事の推移をみると新聞やテレビ、それに雑誌などマスコミといわれるメディアがことごとくネットの後追いに終始している、新聞出身の亭主としては少々やるせない。
亭主は1969年に毎日新聞に入社しました。配属は販売局でした。
こういう仕事(美術)をしているので、よく「学芸部だったんですか」と聞かれるのですが、まったくの畑違いで、いわば新聞社の影の部分(泥臭い新聞販売)で鍛えられました。
毎日新聞は他の大手二紙と違い、強力な独裁者(読売の正力さん、務台さん)もオーナー家(朝日の村山・上野両家)もおらず、風通しの良い自由闊達な社風で、居心地の良い会社でした。
入社後数年して、亭主は販売調査課でMさんという課長にめぐり会います。再販価格問題や、公表部数(ABC部数といって広告収入に直結する重要問題)、新聞の製作コストなどなど、亭主が知らなかったことばかりが仕事で、少し世をすねていた亭主が愛社精神(というより恩人のM課長への忠誠心)に目覚め、突然猛烈社員に変身しました。
今から40数年も前ですが、M課長はじめ心ある新聞人たちはやがて「誰も新聞を読まなくなる日」の来ることを予期し、恐れ、その対策に腐心していました。
当時は新聞を各家庭が購読することはあたりまえであり、全国全世帯を網羅する販売網(販売店のネットワーク)が完結していました。
どんな山の中でも、離島でも一年中、全国同一価格で新聞を届ける(各戸配達、当時新聞の休刊日はお正月を入れて僅か5日でした)ために、各新聞社は膨大な経費をかけていました。山形の山奥のある集落に数部の新聞を届けるためだけに毎日タクシーが使われていました。伊豆七島には飛行機で新聞が運ばれていました。全戸配達なんて国は世界中で日本だけです。
製作コストの半分にも満たない販売収入を補うのが広告収入であり、それは部数至上主義となり、悪名高い販売拡張団が跋扈する温床になりました。
新聞産業の衰退を予測し、まだ間に合ううちに新聞社だけが持つ膨大な知的資産、全国全世帯を網羅する巨大な販売網を生かした新しい事業を起こし、生き残りをはかるためにM課長のもとで、亭主は「企画書」を連発しました。
例えば、新聞の販売網を使いDM配達を請け負う(信書の秘密にはあたらない)、今ヤマト運輸などがやっているようなことを企画書にまとめて重役に提案しました。しかし、そのことごとくが却下され(早すぎたのでしょうね)、たまたま通っちゃったのが「美術作品を全国の小中学校に寄贈し未来の読者を獲得する」企画でした。その結果、1974年に「現代版画センター」を設立したわけです。
それはともかく、読者の「活字離れ、新聞離れ」は深刻な問題になりつつありました。
表立って公表されることはありませんでしたが、既に1970年代には首都圏で「夕刊はいらない」という読者が激増していました。朝刊と夕刊はセットで売るのが建前でしたから、新聞社としては朝刊、夕刊の別売りは決して認められません。
しかし、販売店にしてみれば、「夕刊はいらない」という読者に無理強いはできません。泣く泣く夕刊分を割り引いて(損して)朝刊のみを配達するわけです。
なぜ「夕刊はいらない」のか。
それらの読者が必要としたのは、朝刊に掲載される「ラテ欄」だけだったのです。テレビ番組表を見るためだけに新聞をとる、だから夕刊はいらない。
テレビが当時の新聞の敵だったのですが、その後の40年をみれば、全盛を誇ったテレビでさえ視聴者離れは深刻です(亭主もテレビは無い)。
会田誠さんの件でも、新国立競技場問題にしても、また今大騒ぎとなっている佐野研二郎さんの件でも、新聞はもちろんテレビも大手の雑誌も、当初は沈黙し、ことが抜き差しならない事態になってから慌てて報道し始める。
それも表面的なことばかりで、ことの真相が伝わる記事は少ない。
よく「戦前には言論の自由がなかった」と言われますが、しかし多様性は今の比ではありませんでした。昭和初期には全国で2,000もの新聞が発行されていました。現在の僅か200紙(全国紙と地方紙)と比べ多様な言論があったのです。
生物でもマンモス化は必ず絶滅に向かいます。
新聞の寡占化に反比例して、twitterやfacebookなどネットで誰でもが発信できる世の中になってしまった。これじゃあ40年前にM課長たちが危惧した通り、新聞が先ず正確な情報を国民に提供し世論をリードするどころか近い未来に「誰も新聞を読まなくなる日」が来てしまうのではないか。
そんな感慨を覚える今日この頃であります。
●最近入ってきたオノサト・トシノブ、駒井哲郎、浜口陽三の秀作をご紹介します。
オノサト・トシノブ
「64-F」
1964年
リトグラフ
Image size: 23.6x31.6cm
Sheet size: 28.8x37.4cm
Ed.120 サインあり
※レゾネNo.13
駒井哲郎
「冬の丸の内風景」
1937年
銅版
Image size: 9.2x5.1cm
Sheet size: 24.7x18.6cm
Ed.25 サインあり
浜口陽三
「Green Cherry」
1981年
カラーメゾチント
Image size: 7.8x5.9cm
Frame size: 38.3x32.3cm
Ed.145 サインあり
浜口陽三
「巻貝」
1961年
メゾチント
Image size: 8.0x9.8cm
Sheet size: 19.0x28.4cm
Ed.50 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●夏季休廊のお知らせ
2015年8月16日(日)~8月24日(月)はギャラリーをお休みいたします。
休み中のお問い合わせへの返信は25日(火)以降になります。
ニッパチと言われますが、例年8月はほとんど売上げはない。資金繰りに四苦八苦するのですが今年に限りオノサト先生の15年ぶりの展示が好評で、元永定正作品の注文も相次ぎ多忙な8月前半でした。
スタッフたちもここで一息入れて秋の陣に備えてくれることでしょう。
このブログは一年365日無休なので、夏休み期間中も変わらず更新していきますので、ぜひお読みください。
先日のオノサト・トシノブ展は戦前の具象作品から、一兵卒として戦地に赴き長いシベリア抑留を経て帰国、再び絵筆をとった1950年代の作品などを展示しました。
決してうまいとは言えない筆致、迷い、試行錯誤の跡が読み取れる作品群は、説明がなければどなたもこれがオノサト先生の作品だとは気付かなかったでしょう。
私たちの商売は「平和」あってこそのもので、昨日の敗戦記念日は先人たちへの感謝の気持ちとともに、戦後70年まがりなりにも貫いてきた不戦の誓いをあらためて確認した次第です。
さて、このところの美術や建築、デザインなどの分野で大騒ぎになっている出来事の推移をみると新聞やテレビ、それに雑誌などマスコミといわれるメディアがことごとくネットの後追いに終始している、新聞出身の亭主としては少々やるせない。
亭主は1969年に毎日新聞に入社しました。配属は販売局でした。
こういう仕事(美術)をしているので、よく「学芸部だったんですか」と聞かれるのですが、まったくの畑違いで、いわば新聞社の影の部分(泥臭い新聞販売)で鍛えられました。
毎日新聞は他の大手二紙と違い、強力な独裁者(読売の正力さん、務台さん)もオーナー家(朝日の村山・上野両家)もおらず、風通しの良い自由闊達な社風で、居心地の良い会社でした。
入社後数年して、亭主は販売調査課でMさんという課長にめぐり会います。再販価格問題や、公表部数(ABC部数といって広告収入に直結する重要問題)、新聞の製作コストなどなど、亭主が知らなかったことばかりが仕事で、少し世をすねていた亭主が愛社精神(というより恩人のM課長への忠誠心)に目覚め、突然猛烈社員に変身しました。
今から40数年も前ですが、M課長はじめ心ある新聞人たちはやがて「誰も新聞を読まなくなる日」の来ることを予期し、恐れ、その対策に腐心していました。
当時は新聞を各家庭が購読することはあたりまえであり、全国全世帯を網羅する販売網(販売店のネットワーク)が完結していました。
どんな山の中でも、離島でも一年中、全国同一価格で新聞を届ける(各戸配達、当時新聞の休刊日はお正月を入れて僅か5日でした)ために、各新聞社は膨大な経費をかけていました。山形の山奥のある集落に数部の新聞を届けるためだけに毎日タクシーが使われていました。伊豆七島には飛行機で新聞が運ばれていました。全戸配達なんて国は世界中で日本だけです。
製作コストの半分にも満たない販売収入を補うのが広告収入であり、それは部数至上主義となり、悪名高い販売拡張団が跋扈する温床になりました。
新聞産業の衰退を予測し、まだ間に合ううちに新聞社だけが持つ膨大な知的資産、全国全世帯を網羅する巨大な販売網を生かした新しい事業を起こし、生き残りをはかるためにM課長のもとで、亭主は「企画書」を連発しました。
例えば、新聞の販売網を使いDM配達を請け負う(信書の秘密にはあたらない)、今ヤマト運輸などがやっているようなことを企画書にまとめて重役に提案しました。しかし、そのことごとくが却下され(早すぎたのでしょうね)、たまたま通っちゃったのが「美術作品を全国の小中学校に寄贈し未来の読者を獲得する」企画でした。その結果、1974年に「現代版画センター」を設立したわけです。
それはともかく、読者の「活字離れ、新聞離れ」は深刻な問題になりつつありました。
表立って公表されることはありませんでしたが、既に1970年代には首都圏で「夕刊はいらない」という読者が激増していました。朝刊と夕刊はセットで売るのが建前でしたから、新聞社としては朝刊、夕刊の別売りは決して認められません。
しかし、販売店にしてみれば、「夕刊はいらない」という読者に無理強いはできません。泣く泣く夕刊分を割り引いて(損して)朝刊のみを配達するわけです。
なぜ「夕刊はいらない」のか。
それらの読者が必要としたのは、朝刊に掲載される「ラテ欄」だけだったのです。テレビ番組表を見るためだけに新聞をとる、だから夕刊はいらない。
テレビが当時の新聞の敵だったのですが、その後の40年をみれば、全盛を誇ったテレビでさえ視聴者離れは深刻です(亭主もテレビは無い)。
会田誠さんの件でも、新国立競技場問題にしても、また今大騒ぎとなっている佐野研二郎さんの件でも、新聞はもちろんテレビも大手の雑誌も、当初は沈黙し、ことが抜き差しならない事態になってから慌てて報道し始める。
それも表面的なことばかりで、ことの真相が伝わる記事は少ない。
よく「戦前には言論の自由がなかった」と言われますが、しかし多様性は今の比ではありませんでした。昭和初期には全国で2,000もの新聞が発行されていました。現在の僅か200紙(全国紙と地方紙)と比べ多様な言論があったのです。
生物でもマンモス化は必ず絶滅に向かいます。
新聞の寡占化に反比例して、twitterやfacebookなどネットで誰でもが発信できる世の中になってしまった。これじゃあ40年前にM課長たちが危惧した通り、新聞が先ず正確な情報を国民に提供し世論をリードするどころか近い未来に「誰も新聞を読まなくなる日」が来てしまうのではないか。
そんな感慨を覚える今日この頃であります。
●最近入ってきたオノサト・トシノブ、駒井哲郎、浜口陽三の秀作をご紹介します。
オノサト・トシノブ「64-F」
1964年
リトグラフ
Image size: 23.6x31.6cm
Sheet size: 28.8x37.4cm
Ed.120 サインあり
※レゾネNo.13
駒井哲郎「冬の丸の内風景」
1937年
銅版
Image size: 9.2x5.1cm
Sheet size: 24.7x18.6cm
Ed.25 サインあり
浜口陽三「Green Cherry」
1981年
カラーメゾチント
Image size: 7.8x5.9cm
Frame size: 38.3x32.3cm
Ed.145 サインあり
浜口陽三「巻貝」
1961年
メゾチント
Image size: 8.0x9.8cm
Sheet size: 19.0x28.4cm
Ed.50 サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●夏季休廊のお知らせ
2015年8月16日(日)~8月24日(月)はギャラリーをお休みいたします。
休み中のお問い合わせへの返信は25日(火)以降になります。
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