野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」 第17回
東松照明先生との出会いと、助手を務めさせて頂いた一年の事 (2)
写真家の東松照明先生の命日は2012年12月14日、亡くなられてから3年が経ちました。
先月はバリ島での出会いの事を書きましたので、今月はその続き、助手を務めさせて頂くまでの事を書こうと思います。
バリ島での出会いの後、中学、高校と私は東松先生の事はすっかり忘れてしまっていたのですが、両親は親しくさせて頂いてたようで、知らない内に京都の家にも遊びに来られていて、その時の写真が今でも家に飾ってあります。
京都の家に来られた東松先生
その後1993年、私は京都造形芸術大学の洋画コースに進学し、写真部に入部、そこで初めてのモノクロフィルムの暗室作業の楽しさにすぐにハマり、元々カメラ小僧でもあった私は、行き詰まっていた油絵よりも写真に没頭するようになりました。
なので、大学後半の2年で描いた油絵は恐らく最低限の2点程、毎日のように撮っては暗室に籠もり、洋画実習室にはほとんど居ない為、私が洋画コースだと知らなかった友人もいました。
そしてこの頃、色々な写真家の事も知るようになる中で、あのバリ島で会った方が有名な写真家だった事を知りました。
ちなみに大学の卒業制作も2.5m程に引き伸ばしたモノクロの写真作品で、今思えば、よくあれで洋画コースを卒業させてもらえたなと思います。
1997年の卒業後は箔屋の家業を継ぐ為の修行も兼ねて、西陣の織屋さんに勤めさせて頂く事になり、3年弱製造部の外回りを担当しました。
ただ、この頃今後の自分の進む道について、ずっと迷っていました。
四代続いている家業を自分が継がなければ終わってしまう責任は感じても、まだ自らやりたいという気持ちになれない、どうすればよいのかと、、
そして1999年春、大阪の枚方市民ギャラリーで東松先生の写真展があり、オープニングレセプションに父が出席するので、お前も仕事終わってから来いと言われ、レセプションの途中から行きました。
父は酒で軽く酔っている感じでしたが、東松先生に向かって「琢郎を好きに使ってください!」と言っていました。
瞬間的に、まったく親父は酔って何を言っているのかと思いましたが、すぐに、いや、もしも東松先生の助手にしてもらえるような事があるならば、それは素晴らしい経験になると思いました。
あの時は解りませんでしたが、父も、私の家業を継ぎたいという気持ちが弱い事を解っていて、他の道を作ろうと思ってくれていたのだと思います。
それで、東松先生に「今度、千葉の家に遊びにいらっしゃい」と言って頂いたので、それからすぐに千葉の一宮のお宅にお邪魔しました。
一宮のお宅はとても静かな場所で、先生と泰子さんと3人、緊張で自分が何をどう話したのかはあまり覚えていないのですが、確か、やや震えた声で「先生の作品が好きです、僕を助手にして頂けませんか」のように言ったのだと思います。
少し間があり、先生が言われた事は覚えています。
先生は「僕は他人に関与されるのが嫌だから助手はとらない主義でね、今までも泰子と二人だけでやってきた、でも養子になるならいいよ」と言われました。
この言葉にはびっくりし、どうしてもすぐに答えを出す事ができずに京都へ帰りました。
諦めさす為にそう言われたのか、私の覚悟を試されたのか、その後うかがった事はなかったので解りませんが、その後も養子になるという覚悟はできずに、時間が経っていきました。
そして同じ年の秋頃に今度は大阪のギャラリー新居さんで東松先生の写真展が開かれたので、オープニングに伺いました。
その時に、今度は長崎の家に遊びにいらっしゃいと言って頂いたので、1999年年末に長崎のお宅に伺った所、急遽仕事のお手伝いをさせて頂ける事になり、2000年の正月3日までの5日間程お宅に泊めて頂きながら、諏訪神社の蛇踊りなど、年末年始の長崎の行事の撮影などに同行し、機材を持ったり助手の仕事を経験させて頂きました。
そして京都へ帰る時に先生から「この5日間お試し期間一緒に過ごしてみて、生理的には合うから、養子の話はとりあえず置いておいて、一年だけなら居てもいいよ、今年は長崎県立美術博物館で大きな展覧会をやるから、忙しくなるからね」と言って頂き、身震いするような喜びを感じ京都へ帰りました。
ギャラリー新居さんでのオープニングで
そして勤めさせて頂いていた西陣の会社は、急に勝手を言って本当に申し訳なかったのですが、1月で辞めさせて頂き、2月の頭に長崎へ発ち、東松先生の暗室用マンションの部屋で寝泊まりさせて頂きながら助手を勤めさせて頂く事になったのでした。
何か長々とあまり面白くない文章になってしまって申し訳ありません、では助手時代の一年の事はまた来月以降に書かせて頂こうと思います。
また、現在東京で東松照明展 太陽の鉛筆が開催されており、写真集「新編 太陽の鉛筆」も発売が始まったようです。
展覧会には行けそうにないのですが、太陽の鉛筆は一番好きな作品集なので、どう再編集されたのか、拝見するのが楽しみです。
展覧会詳細→http://www.akionagasawa.com/jp/gallery/current-exhibition/
(のぐち たくろう)
■野口琢郎 Takuro NOGUCHI(1975-)
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家に戻り、家業である箔屋野口の五代目を継ぐため修行に入る。その後も精力的に創作活動を続け、2004年の初個展以来毎年個展を開催している。
●今日のお勧め作品は、セルジュ・ポリアコフです。
セルジュ・ポリアコフ
「青のコンポジション」
1958年
銅版
25.0x35.0cm
Ed.100
サインあり
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◆野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
東松照明先生との出会いと、助手を務めさせて頂いた一年の事 (2)
写真家の東松照明先生の命日は2012年12月14日、亡くなられてから3年が経ちました。
先月はバリ島での出会いの事を書きましたので、今月はその続き、助手を務めさせて頂くまでの事を書こうと思います。
バリ島での出会いの後、中学、高校と私は東松先生の事はすっかり忘れてしまっていたのですが、両親は親しくさせて頂いてたようで、知らない内に京都の家にも遊びに来られていて、その時の写真が今でも家に飾ってあります。
京都の家に来られた東松先生その後1993年、私は京都造形芸術大学の洋画コースに進学し、写真部に入部、そこで初めてのモノクロフィルムの暗室作業の楽しさにすぐにハマり、元々カメラ小僧でもあった私は、行き詰まっていた油絵よりも写真に没頭するようになりました。
なので、大学後半の2年で描いた油絵は恐らく最低限の2点程、毎日のように撮っては暗室に籠もり、洋画実習室にはほとんど居ない為、私が洋画コースだと知らなかった友人もいました。
そしてこの頃、色々な写真家の事も知るようになる中で、あのバリ島で会った方が有名な写真家だった事を知りました。
ちなみに大学の卒業制作も2.5m程に引き伸ばしたモノクロの写真作品で、今思えば、よくあれで洋画コースを卒業させてもらえたなと思います。
1997年の卒業後は箔屋の家業を継ぐ為の修行も兼ねて、西陣の織屋さんに勤めさせて頂く事になり、3年弱製造部の外回りを担当しました。
ただ、この頃今後の自分の進む道について、ずっと迷っていました。
四代続いている家業を自分が継がなければ終わってしまう責任は感じても、まだ自らやりたいという気持ちになれない、どうすればよいのかと、、
そして1999年春、大阪の枚方市民ギャラリーで東松先生の写真展があり、オープニングレセプションに父が出席するので、お前も仕事終わってから来いと言われ、レセプションの途中から行きました。
父は酒で軽く酔っている感じでしたが、東松先生に向かって「琢郎を好きに使ってください!」と言っていました。
瞬間的に、まったく親父は酔って何を言っているのかと思いましたが、すぐに、いや、もしも東松先生の助手にしてもらえるような事があるならば、それは素晴らしい経験になると思いました。
あの時は解りませんでしたが、父も、私の家業を継ぎたいという気持ちが弱い事を解っていて、他の道を作ろうと思ってくれていたのだと思います。
それで、東松先生に「今度、千葉の家に遊びにいらっしゃい」と言って頂いたので、それからすぐに千葉の一宮のお宅にお邪魔しました。
一宮のお宅はとても静かな場所で、先生と泰子さんと3人、緊張で自分が何をどう話したのかはあまり覚えていないのですが、確か、やや震えた声で「先生の作品が好きです、僕を助手にして頂けませんか」のように言ったのだと思います。
少し間があり、先生が言われた事は覚えています。
先生は「僕は他人に関与されるのが嫌だから助手はとらない主義でね、今までも泰子と二人だけでやってきた、でも養子になるならいいよ」と言われました。
この言葉にはびっくりし、どうしてもすぐに答えを出す事ができずに京都へ帰りました。
諦めさす為にそう言われたのか、私の覚悟を試されたのか、その後うかがった事はなかったので解りませんが、その後も養子になるという覚悟はできずに、時間が経っていきました。
そして同じ年の秋頃に今度は大阪のギャラリー新居さんで東松先生の写真展が開かれたので、オープニングに伺いました。
その時に、今度は長崎の家に遊びにいらっしゃいと言って頂いたので、1999年年末に長崎のお宅に伺った所、急遽仕事のお手伝いをさせて頂ける事になり、2000年の正月3日までの5日間程お宅に泊めて頂きながら、諏訪神社の蛇踊りなど、年末年始の長崎の行事の撮影などに同行し、機材を持ったり助手の仕事を経験させて頂きました。
そして京都へ帰る時に先生から「この5日間お試し期間一緒に過ごしてみて、生理的には合うから、養子の話はとりあえず置いておいて、一年だけなら居てもいいよ、今年は長崎県立美術博物館で大きな展覧会をやるから、忙しくなるからね」と言って頂き、身震いするような喜びを感じ京都へ帰りました。
ギャラリー新居さんでのオープニングでそして勤めさせて頂いていた西陣の会社は、急に勝手を言って本当に申し訳なかったのですが、1月で辞めさせて頂き、2月の頭に長崎へ発ち、東松先生の暗室用マンションの部屋で寝泊まりさせて頂きながら助手を勤めさせて頂く事になったのでした。
何か長々とあまり面白くない文章になってしまって申し訳ありません、では助手時代の一年の事はまた来月以降に書かせて頂こうと思います。
また、現在東京で東松照明展 太陽の鉛筆が開催されており、写真集「新編 太陽の鉛筆」も発売が始まったようです。
展覧会には行けそうにないのですが、太陽の鉛筆は一番好きな作品集なので、どう再編集されたのか、拝見するのが楽しみです。
展覧会詳細→http://www.akionagasawa.com/jp/gallery/current-exhibition/
(のぐち たくろう)
■野口琢郎 Takuro NOGUCHI(1975-)
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家に戻り、家業である箔屋野口の五代目を継ぐため修行に入る。その後も精力的に創作活動を続け、2004年の初個展以来毎年個展を開催している。
●今日のお勧め作品は、セルジュ・ポリアコフです。
セルジュ・ポリアコフ「青のコンポジション」
1958年
銅版
25.0x35.0cm
Ed.100
サインあり
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