「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第17回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.17

土渕信彦


1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(第2回)
「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」は、前回触れたとおり、1958年の欧州旅行のカダケスでの出会いから、『マルセル・デュシャン語録』ができる前後までを、書簡などの原資料の図版約40点によって、自ら紹介し解説したものである(図17-1)。

図17-1 「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」冒頭頁図17-1
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」冒頭頁


この連載でもたびたび参照してきたので、個々の資料について改めてここで立ち入ることは省略するが、図版を内容ごとに簡単にまとめると、以下のとおりとなろう。

図版1~6…欧州旅行関係
図版7~9…帰国後の文通
図版10~13…「オブジェの店」の構想と銅凸版の看板用プレート試作
図版14~24…『マルセル・デュシャン語録』の製作過程
図版25~34…『語録』に収録されたジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作の作品
図版35…デュシャン最後の瀧口宛て手紙(『語録』の送り先をフランスにと指示)
図版36~40…デュシャンの死亡記事とティニー・デュシャンとの文通
図版41…荒川修作のポストカード
図版42…南画廊での展示会場

なお、図版24と25の間には、時間についてのデュシャンの考察の紹介が挟まれている。「グリーン・ボックス」および「ホワイト・ボックス」の一節がイラスト入りで訳出され、またロベール・ルベルの短篇小説「無償時間の発明家」の概要も紹介されている。ルベルがこの短篇を収めた『二重の視覚』(1964年)を出版した際に、特装本12部のためにデュシャンが製作した紙製のオブジェ「プロフィルの時計」を、瀧口はわざわざ複製しており、その図版も掲載している(図17-2)。

図17-2 「プロフィルの時計」図17-2
紙製のオブジェ
「プロフィルの時計」複製(個人蔵)


また、図版42の後には、瀧口作の紙製のオブジェ「旅への誘ない、1972、9月」(図17-3)の図版が挿入され、次のようなキャプションが付されている。

「ティニー夫人へ贈るつもりの「地図のプロフィル」の戯作。送る勇気が出るかどうかまだわからぬ。ブラック・ライトで見ると鉛筆の線や文字が黄の光の中に浮き出し、垂直線の左方にスミレ色のハレーションが放射することになっている。」

図17-3 「旅への誘い 1972、9月」図17-3
瀧口修造
「旅への誘い 1972、9月」
(慶應義塾大学アート・センター蔵)
千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載


この記事の最終部(図17-4)は、「附録 雑談から」と題され、前号に掲載された編集部との遣り取りの続きにあたる「雑談」が掲載されている。ここに紹介・引用しておきたい。

図17-4 「ローズ・セラヴィ’58‐’68」最終頁図17-4
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」最終頁


まず、デュシャンとカダケスとの関わりの発端を尋ねて、ティニー・デュシャンに対して瀧口が出した手紙の返信には、具体的な説明がなく、「アイスランドからカダケスに戻ったら、改めてゆっくり書きます」と記載してあったことが紹介される。その上で、以下のように続けている。

「―ところで例のアイスランドの試合は意外に長引いて、特にアメリカのフィッシャーの一風変わった態度が話題に上り、どうやら彼が悪役的存在に扱われたりしました。デュシャンが1967-68年の国際チェス・トーナメントではアメリカ側のコーチになり、そのときフィッシャーが優勝したんですよ。そんなわけで夫人は彼とは親しく彼のごひいきであることは当然でしょう。そんなわけで夫人の夏の予定がすっかり狂ったのでしょう。まだ便りもないし、私もまだ書きません。

―しかしあの試合の最中に偶然手にした週刊誌L’EXPRESSの8月末のまだ試合中の号で、珍しく劇作家のアラバルがフィッシャー擁護論を寄稿しているのを読んだんですが、その文章の結びがこんな落ちになっていました。スパスキーが「チェスは人生のようなものだ」と語ったことを耳にしたフィッシャーは「チェス、それは人生だ(セ・ラ・ヴィ)とやり返した、というのです。……」

「附録 雑談から」に続く「1972.10.25.1:40」と題された一節では、この記事に掲載された40点余りのメモの間に「一貫した脈絡をさがすことはできないであろう」と結ばれている。さらにこの記事に関わった編集スタッフが、以下のように記されている。

「紙製の遅延=市川英夫/歯車の遅延=定森義雄/写像の遅延=佐々木光+杉田博樹+酒井英昭」。

このスタッフの記載は、『コレクション瀧口修造』第3巻では、本文にも解題にも再録されていない。本文のレイアウトに変更個所があるので、その意味では仕方がないことかもしれないが、以下の引用のとおり、「大ガラス」を「ガラス製の遅延」と定義したデュシャンを踏まえて、わざわざ「遅延」という言葉を並べているのだから、解題にでも再録し、この点に触れられてもよかったように思う。

「ガラス製の遅延
タブローとか絵画の代りに
《遅延》という語を用いる。ガラスに描かれた絵画はガラス製の遅延となる―ただし、ガラス製の遅延は、いわゆるガラス絵の意味ではない。
散文詩とか、銀製の痰壺などといわれるように、ガラス製の遅延というのだ。」(『マルセル・デュシャン語録』より引用)

なお、「附録 雑談から」で言及されたチェス・プレイヤー、ボビー・フィッシャーについては、評伝『完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯』が出版されている(フランク・ブレイディー著・佐藤耕士訳、文芸春秋、2013年。図17-5)。評伝のほかに、フィッシャー自身が著したチェスの解説書や入門書もある。一昨年にはNHKBSのドキュメンタリー「天才ボビー・フィッシャーの闘い~チェス盤上の米ソ冷戦~」も製作され、昨年秋にも再放送されている。ご覧になった方もいらっしゃることだろう。

図17-5『完全なるチェス』図17-5
『完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯』(文春文庫版)


この番組ではフィッシャーの生い立ちから、チェスとの出会い、独創的な指し手などをふり返った後に、特にティニー・デュシャンがわざわざ観戦に出かけたという、世界チャンピオンであるソ連のボリス・スパスキーとの、アイスランドでの対局について詳しく紹介されていた。

当時29歳の若者だったフィッシャーは、チェスにおいて圧倒的な強さを誇ってきたソ連に対抗できる神童として早くから注目を集め、20数年間ソ連が死守してきた世界チャンピオンへの米国初の挑戦者となった時点では、国家の威信まで背負わされることになってしまった。レイキャビクにおける対局ではニクソン大統領の補佐官キッシンジャーから直々に電話が架かってくるなど、大変なプレッシャーを受け、集中できないまま臨んだ第1局を落とし、第2局も対局場に姿を見せぬまま不戦敗となった。期待を裏切るこうした立ち上がりに加え、もともとの幼児的とも言える奇矯な振る舞いもあって、厳しい批判・非難を浴びることになった。瀧口が「一風変わった態度」「悪役的存在として扱われた」と触れているのは、この頃の雰囲気を反映したものだろう。

ところが、取材をシャットアウトして行われた第3局で戦況は一変した。ここで調子を取り戻して1勝すると、以降は本領を発揮してスパスキーを追い詰め、結局、7勝3敗(11引き分け)で勝利を収めた。ソ連から世界チャンピオンの座を奪取した歴史的な英雄として、賞賛を一身に集めることとなった。

その後のフィシャーの言動は、反米・反ユダヤ的な色彩を強めていった。特に92年にユーゴスラビアで計画されたスパスキーとの再戦に際しては、当局から警告されたにもかかわらず、挑戦的な態度で無視して出国し、対戦に勝利して賞金を得た。この出場と賞金獲得が、ユーゴに対する経済制裁政策に反するとして糾弾され、米国籍を剥奪されるに至った。以降は国際的に流浪する身となり、表舞台から退くことを余儀なくされた。一時は日本に滞在し、2004年には入国管理法違反として成田空港で身柄を拘束されたこともあったようだが、結局、アイスランドで市民権を得て余生を送り、2008年、肝臓ガンで亡くなった。

映像によってこうした生涯を辿る、興味深いドキュメンタリーだったが、デュシャンについては特に触れられてはいなかったようである。
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160113_takiguchi2014_I_26瀧口修造
「I-26」
水彩、インク、紙
Image size: 31.5x22.8cm
Sheet size: 40.7x32.0cm


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「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。