友達のゐぬ転校生われがふと迷ひ入りたる盛岡画廊
背伸びして爪先立ちて若きわれ画廊の会話を聴きてゐたりき
靉光を瑛九を見るうれしさに画廊の階段駆け上りし日
長身を折り曲げ語りかくるとき鼻濁音おほき盛岡ことば
上田さんのゐる心地せり中津川の風に吹かれて画廊に来れば
(コスモス短歌会 吉田史子さんの短歌<記憶が回る>より)
<MORIOKA第一画廊の「一元会」に、1982-85年、私の祖父と母は油絵で出展した。その20年後に僕のパートナーが画廊を担ってきた上田浩司さんから、彼の「眼」の物語を語り継がれた。
2014年の暮れ、僕は彼女の助けを借りて、上田さんに曽祖父の詩集を渡した。「夢は虹に満たされ…」そして、一昨日、僕は彼女と共に第一画廊を訪れて、上田さんを懐かしむ人の中に居た。僕は想う、ものを創ろうとする人たちが求めている光源があることを。
(高橋在也さんのtwitterより)>
<昨日の上田さんを偲ぶ会
MORIOKA第一画廊のこの奥まったスペースでも晩年何度か上田さんとコーヒーを頂きながらお話した。頂くコーヒーはいつも美味しく、上田さんとの会話は何気ないようでいつも示唆に富んでいてコーヒーとともに思い出だ。
上田さんはよく口癖のようにこう言われた「作家は最初の作品をなかなか越えられないと」MORIOKA第一画廊の奥まったスペースに私の最初の作品を含む小品三点があった。昨日はしみじみと言葉を思い出しながら自分の仕事を振り返った。
(長谷川誠さんのtwitterより)>
<先日、50年以上にわたって画廊を続けてこられた上田浩司氏を偲ぶ会が行われるということで、MORIOKA第一画廊を訪れました。たくさんの人が集まっていて、「立錐の余地もない」というのは正にこういうことを言うのだと思いました。
男の人も女の人も、上田さんと同世代くらいの大先輩から、ボクよりずっと年下の人も参加していました。
「ここに集まった人達は皆、上田さんのカケラを持っているのだ」
ふとそんな言葉が頭の中に浮かびました。
各々に色んな形で、大きさで、重さで、“上田さん=第一画廊”と時間や体験を共有して、様々な想いを胸に集まった人々。
ボクは、作品をつくっていて、時折「上田さんはどう思うかな」と考えることがあります。
“上田さん=第一画廊”はボクにとってずっとあこがれだし、方向を示してくれる北極星みたいだと思うし、これからもきっとそういう存在に違いありません。
(紙町銅版画工房さんのfacebookより)>
<50年以上続いている「MORIOKA第一画廊」の代表であった上田さんを偲ぶ会でした。
5年前Cygを立ち上げたときの話ですが、第一画廊に行ったときに上田さんと偶然お会いできて2時間くらいゆっくり話をすることができたのです。お茶まで出してもらってたくさんの話をしました。
Cygが第一画廊と同じで「作品を売って利益を得る企画ギャラリー」であるという共通点があったからこそ、話が盛り上がったのだと思います。
作家を応援しつつも厳しく評価するという話。
ぜんぜん作品が売れない時代の話。
売れないけど面白いことをしたいというエネルギーがあった話。
土壌がない盛岡でなんとかやってきたという話。
などなど、
今となっては何を話したか詳しくは覚えていませんが、
僕たちの夢、辛いこと、不安なこと、それでも楽しいこともあるんです、という話をすると
「わかるよ」「そうだよなぁ」「とにかくがんばれよ」
「こんなことがあったんだよ」「うんうんがんばれよ」
「階段がきつくてなぁ」「いいよいいよ」
といったことを繰り返し話してくださいました。
結果ぼくは3回ほどしかお会いできなかったで、
会場にいらっしゃった先輩のみなさんと上田さんの若い頃の思い出などは共有できなくて少し寂しかったのですが、、、
「34歳の僕の中にも上田さんが居ますよ〜」
ということだけ伝えたくてここに書きました。
(清水真介さんのfacebookより)>
<今日、改めてMORIOKA第一画廊に伺いました。
9/16は上田さんのお誕生日、と娘のリトさんが教えてくれました。
お元気ならば84歳のお誕生日だったそうです。
舷でホットサンドとコーヒーを頂いて、懐かしい話をたくさんしました。
次の企画展は杉本みゆき展だそうです。
(五日市美子さんのfacebookより)>
MORIOKA第一画廊「展」 9月5日~9月17日
会場:MORIOKA第一画廊・舷
〒020-0023 岩手県盛岡市内丸2-10-1 TV岩手1階
Tel&Fax. 019-622-7935
E-mail. daiichi-gen@gol.com
案内状の画面をクリックしてください(拡大されます)。

去る6月25に亡くなられたMORIOKA第一画廊の上田浩司さんを偲ぶ会が、9月7日に同画廊で開催されました。
上田さんの歩んだ道は先日ご紹介した雑誌展評の上田浩司さんのインタビューをお読みください。
亭主が初めて上田さんを知った日のことは8月29日のブログに書きました。

在りし日の上田浩司さん。彫刻は照井榮さんの作品。
於:MORIOKA第一画廊 撮影:梅田裕一
------------------------------

第一画廊の看板。
上田さん手書きの墨で黒々と展覧会名が書かれていたのですが、今回はパソコン文字。
城跡(岩手公園)のすぐそば、テレビ岩手の1階に画廊と喫茶店「舷」が一体となった空間が上田さんのお店でした。
冒頭に紹介した吉田史子さんの短歌「靉光を瑛九を見るうれしさに画廊の階段駆け上りし日」は、第一書店3階にあった時代の急で細い階段のことでしょうか。

上田さんの展示のセンスは抜群でした。
果たして今回のコレクション展の展示はおめがねにかなうでしょうか。
壁面には上田さんが愛した作家たちの小品の数々。50年間の開催展覧会の資料も展示されました。

「池田さん」時代から40年間通った社長、たくさんのことを教えていただきました。

上田さんの原点、松本竣介の素描

盛岡中学で竣介と同級だった舟越保武先生を上田さんは深く敬愛していました。

斜め左上の真四角の作品は盟友ともいうべき松田松雄さんの作品。
通夜の席で上田さんの遺体を覆っていたのは松田松雄展と舟越保武展のポスターでした。

偲ぶ会に間に合わせるべく急遽作成されたMORIOKA第一画廊の開催展覧会リスト。
生前、上田さんは画廊史をつくる話が出たとき激しく拒絶しました。しかし、その軌跡は上田さんだけのものではなく、盛岡の、ひいては日本の現代美術史の重要な資料です。
短期間のうちに半世紀の画廊の歴史をまとめた画廊スタッフや戸村茂樹さんたちのご尽力に深く敬意を表します。

初期の頃の展覧会リスト

最初の展覧会は1964年(昭和39年)11月

出席者は何冊にも及ぶ開催記録のファイルを熱心にご覧になっていました。

このリスト、ファイルには、東京からかけつけた国立文化財研究所の田中淳先生や、和光大学の三上豊先生も驚愕しておられました。
いずれ整理した形で、各研究機関等に贈られるでしょう。

開催された展覧会の案内状の数々。

見た展覧会もあり、「えっ、こういうのやってたんだ」と驚く展覧会あり、50年の歳月はハンパではありません。

真ん中の「全国縦断 現代版画への招待展」は1974年の現代版画センター旗揚げに祭し、上田さんが全国に先駆けて開催に名乗りを上げてくださった亭主と社長にとっては涙なくしては見られない案内状です。

資料写真(松本竣介、舟越保武 etc.,)

資料写真(難波田龍起、百瀬寿、舟越桂 etc.,)

「みなさ~ん、お静かに願います。これから上田さんを偲ぶ会を開催しま~す」

左から彫刻家の照井榮さん(椅子)、友人代表で開会の辞を述べたパンシオンの清水さん、萬鉄五郎記念美術館館長の中村光紀さん、図らずも上田さんの遺志を継ぐことになった直利庵の女将松井裕子さん

盛岡はもとより、東京はじめ各地からたくさんの方が出席されました。

50年の歴史を知る年配の方が多いのは当然ですが、冒頭で紹介した清水真介さんのような若い方も。

中央黒い背広姿は花巻の宮沢賢治イーナトーブ館館長の栗原敦さん。

中央奥の長髪の女性は画家の杉本みゆきさん、ここで幾度も個展を開催しています。
次回のMORIOKA第一画廊の企画展は「杉本みゆき展」です(会期:2016年10月12日~11月12日)

学生時代に画廊でアルバイトをしていた小野寺和代さんは亭主のブログで上田さんの死去を知り東京から駆けつけました。
「あの頃は、上田さんがこんなに凄い人だなんてわからなかった」
左は同じく東京から参加の石田あんこさん(日本キラキラ党総裁)、背後のウォーホルのKIKUは旦那さんの石田了一さんが刷りました。

老若男女、偲ぶ会の実行委員の皆さんも出席者の数を読みきれなかったようです。
「こんなにたくさん来てくださるなんて」

画廊は中津川のたもとにあり、テレビ岩手の庭には舟越保武先生の彫刻が設置されています。
私たちの仲間で最後に病院に上田さんを見舞ったのは刷り師の石田了一さん(左)でした。

左から銀座のギャラリーせいほうの田中譲さん、彫刻家の照井榮さん、銅版画家の戸村茂樹さん

岩手県立美術館の前館長原田光さん(右から二人目)も東京からかけつけました。上田さんとはカマキン時代からのつきあいで、ずいぶん喧嘩もしたようです。
建築家の松本莞さん(左から二人目)も上田さんとは長いつきあいで、亭主が初めて莞さんと呑んだのも上田さんに連れられての席でした。神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催される竣介展にあわせて10月8日に講演されます。

梅田裕一さん(中)は第一画廊の多くの展覧会をカメラにおさめており、今回の資料展示も手伝われました。山好き、音楽好きのコレクターです。
左から二人目の高橋雪人さん(碧祥寺博物館主任学芸員、盛岡美術店主)の本業は古美術・古民芸、雪の文様では国内随一のコレクターです。父君は雪の研究で有名な高橋 喜平。MORIOKA第一画廊の誕生に関わる一族です。
そもそもMORIOKA第一画廊の前身の盛岡画廊をつくったのは高橋一族で医師の高橋又郎。そのご子息が作家の高橋克彦さんです。
(なんで亭主は盛岡のことにこんなに詳しいんだ)

上田さんの奥様と亭主
「上田さんの追っかけをして秋田から盛岡に通いつめたのよ」
「今思うと、いい作品をあんなに安く手放して・・・でもいつも月末が迫ると」
「ワタヌキさん、こんなに大きくなられて(笑)」

石田あんこさんと、末盛千枝子さん(右)。
末盛さんは先日新潮社から『「私」を受け容れて生きるー父と母の娘ー』を刊行されました。父は舟越保武先生、母は舟越道子さん(ときの忘れものの最初のお客様でした)。名づけ親は高村光太郎です。
末盛さんが住む八幡平の舟越先生の別荘は松本莞さんの設計です。

ともに上田さんが愛した作家、大宮政郎さん(左)と、照井榮さん

明るいうちから始まった偲ぶ会、夜が更けても思い出話はつきません。

たくさん美味しいお料理は出たけれど、少し小腹が。
この夜はいつもの直利庵は休業日、もう一軒の名店「なかむら」は予約をするのを忘れて既に満席。
さてどうしたものか・・・・

画廊を出て中津川の橋を渡ると直ぐ辰野金吾設計の旧岩手銀行本店(重要文化財)があります。
今夜の世話役、中村孝幸さんに連れられてぶらりぶらり。
「たまにはラーメンもいいんじゃないですか」と中村さん。
昔、上田さんに案内されて竣介が少年時代をすごしたこのあたりをよく散策したものです。

夜の岩手銀行を通り過ぎて、少し行くと、
紺屋町の「ざくろ」という中華屋さんに。

ドアを開けて、驚いたの何のって。
壁面左から、山口長男、アンディ・ウォーホル、百瀬寿・・・
いったいここはどこなんだ。

左が店主の村田芳美さん。
んっどこかでお目にかかったような・・・・
上田さんが元気な頃、画廊を閉めると先ず直利庵に直行。さんざん呑んで食べて、さて二次会へ。
亭主が覚えているのは、「山小屋」「サイゼリア」「サーカス」などなど、いずれも南部美人のいっぱいいるお店に繰り出し、朝まで・・・・・・
亭主は一度も飲み代を払えなかった(払わせてもらえなかった)。
芳美さんはあの「サーカス」の店主でしたね。

中央が地元の建築家中村孝幸さんで、日本一の磯崎新コレクターです。
他の4人は上田さんにそれぞれお世話になった露天風呂愛好会の面々。

「ゴーギャンのあるお蕎麦やさん」も凄いけれど、「ウォーホルのあるラーメン屋さん」まであるなんて日本広しといえども盛岡だけでしょう。上田さんの功績です。
今回の偲ぶ会の写真を提供してくれた梅田裕一さんや中村孝幸さんはときの忘れものの大事な顧客ですが、もとはといえばMORIOKA第一画廊のお客様です。
たくさんの人々が集った7日の偲ぶ会ですが、盛岡や上田さんを知らない方はきっと「人望厚い温厚篤実な画商さん」だったと思うでしょう。
上田さんは激しい人でした。
敬愛する作家の顕彰には私心を挟まず尽力されました。
東京から多くの作家を招き、多くの画商が盛岡を訪ねました。
訪れた人たちを毎晩のようにもてなし、その費用はただの一銭も払わせませんでした。
これは何より亭主が証人でして、現代版画センターのメンバーがぞろぞろ作家について盛岡に入る、そのホテル代も飲食代もいつもいつも黙って払ってしまうのが上田さんでした。
おそらく亭主たちがご馳走になった代金でマンションの一つや二つ買えたのじゃあないかしら。
しかし、甘えは許さなかった。
上田さんには上田さんの美学というか、ある一線があり、それを超えると激怒されました。
「出入り禁止」になった画家、学芸員、顧客、数知れず。
ん十年前「キミとボクだけは出入り禁止にはならないね」と安心していた(笑)Nさんまで晩年に仲違いしてしまい、上田さんの店の前すら通れないという最悪の関係になってしまった。
亭主も覚えのあることですが、歳をとると「我慢がならず」「頑固になる」。
上田さんもそうでした。
偲ぶ会にはかつて「出入り禁止」の憂き目にあった人たちもたくさんいらっしゃった。
主催者が「数が読めない」と言っていたのはそういう事情からでした。Nさんはじめ皆さんがこれだけ集まり、上田さんの果たした役割、愛した作家たちについて熱く語り合っている。優れた美術はそういう力を持っている。
いくらで売るかではなく、何を売るか。一画商が一地方都市の知的水準をどれほど高められるかを体現した生涯であり、無名の大画商でした。
もう時効ですから書きますが、ずいぶん昔、連日のアルコール摂取がたたったか上田さんが病に倒れ長期入院したことがありました。しばらくの間、画廊は開店休業状態になり、作家や取引画廊への支払いも滞った。
そのとき、さんざん盛岡でご馳走になった東京の某画商さんの反応は冷たいものでした。
亭主はあきれました。飲み食いと作品代の支払いは別というのはわかるけれど、あんなにただ酒飲んだのに手のひら返して上田さんを非難する、そりゃああんまりだ。
せめて上田さんが元気になるまで待てないものなのか。
そういう商売熱心な画商さんは、誰一人偲ぶ会には来ませんでした。亭主がこんなこと書いて、上田さん苦笑いしてるでしょうね。
上田さん、ありがとうございました。私たちはもう少しやることが残っているので、あちらで酒酌み交わすのはしばらく待ってください。
背伸びして爪先立ちて若きわれ画廊の会話を聴きてゐたりき
靉光を瑛九を見るうれしさに画廊の階段駆け上りし日
長身を折り曲げ語りかくるとき鼻濁音おほき盛岡ことば
上田さんのゐる心地せり中津川の風に吹かれて画廊に来れば
(コスモス短歌会 吉田史子さんの短歌<記憶が回る>より)
<MORIOKA第一画廊の「一元会」に、1982-85年、私の祖父と母は油絵で出展した。その20年後に僕のパートナーが画廊を担ってきた上田浩司さんから、彼の「眼」の物語を語り継がれた。
2014年の暮れ、僕は彼女の助けを借りて、上田さんに曽祖父の詩集を渡した。「夢は虹に満たされ…」そして、一昨日、僕は彼女と共に第一画廊を訪れて、上田さんを懐かしむ人の中に居た。僕は想う、ものを創ろうとする人たちが求めている光源があることを。
(高橋在也さんのtwitterより)>
<昨日の上田さんを偲ぶ会
MORIOKA第一画廊のこの奥まったスペースでも晩年何度か上田さんとコーヒーを頂きながらお話した。頂くコーヒーはいつも美味しく、上田さんとの会話は何気ないようでいつも示唆に富んでいてコーヒーとともに思い出だ。
上田さんはよく口癖のようにこう言われた「作家は最初の作品をなかなか越えられないと」MORIOKA第一画廊の奥まったスペースに私の最初の作品を含む小品三点があった。昨日はしみじみと言葉を思い出しながら自分の仕事を振り返った。
(長谷川誠さんのtwitterより)>
<先日、50年以上にわたって画廊を続けてこられた上田浩司氏を偲ぶ会が行われるということで、MORIOKA第一画廊を訪れました。たくさんの人が集まっていて、「立錐の余地もない」というのは正にこういうことを言うのだと思いました。
男の人も女の人も、上田さんと同世代くらいの大先輩から、ボクよりずっと年下の人も参加していました。
「ここに集まった人達は皆、上田さんのカケラを持っているのだ」
ふとそんな言葉が頭の中に浮かびました。
各々に色んな形で、大きさで、重さで、“上田さん=第一画廊”と時間や体験を共有して、様々な想いを胸に集まった人々。
ボクは、作品をつくっていて、時折「上田さんはどう思うかな」と考えることがあります。
“上田さん=第一画廊”はボクにとってずっとあこがれだし、方向を示してくれる北極星みたいだと思うし、これからもきっとそういう存在に違いありません。
(紙町銅版画工房さんのfacebookより)>
<50年以上続いている「MORIOKA第一画廊」の代表であった上田さんを偲ぶ会でした。
5年前Cygを立ち上げたときの話ですが、第一画廊に行ったときに上田さんと偶然お会いできて2時間くらいゆっくり話をすることができたのです。お茶まで出してもらってたくさんの話をしました。
Cygが第一画廊と同じで「作品を売って利益を得る企画ギャラリー」であるという共通点があったからこそ、話が盛り上がったのだと思います。
作家を応援しつつも厳しく評価するという話。
ぜんぜん作品が売れない時代の話。
売れないけど面白いことをしたいというエネルギーがあった話。
土壌がない盛岡でなんとかやってきたという話。
などなど、
今となっては何を話したか詳しくは覚えていませんが、
僕たちの夢、辛いこと、不安なこと、それでも楽しいこともあるんです、という話をすると
「わかるよ」「そうだよなぁ」「とにかくがんばれよ」
「こんなことがあったんだよ」「うんうんがんばれよ」
「階段がきつくてなぁ」「いいよいいよ」
といったことを繰り返し話してくださいました。
結果ぼくは3回ほどしかお会いできなかったで、
会場にいらっしゃった先輩のみなさんと上田さんの若い頃の思い出などは共有できなくて少し寂しかったのですが、、、
「34歳の僕の中にも上田さんが居ますよ〜」
ということだけ伝えたくてここに書きました。
(清水真介さんのfacebookより)>
<今日、改めてMORIOKA第一画廊に伺いました。
9/16は上田さんのお誕生日、と娘のリトさんが教えてくれました。
お元気ならば84歳のお誕生日だったそうです。
舷でホットサンドとコーヒーを頂いて、懐かしい話をたくさんしました。
次の企画展は杉本みゆき展だそうです。
(五日市美子さんのfacebookより)>
MORIOKA第一画廊「展」 9月5日~9月17日
会場:MORIOKA第一画廊・舷
〒020-0023 岩手県盛岡市内丸2-10-1 TV岩手1階
Tel&Fax. 019-622-7935
E-mail. daiichi-gen@gol.com
案内状の画面をクリックしてください(拡大されます)。

去る6月25に亡くなられたMORIOKA第一画廊の上田浩司さんを偲ぶ会が、9月7日に同画廊で開催されました。
上田さんの歩んだ道は先日ご紹介した雑誌展評の上田浩司さんのインタビューをお読みください。
亭主が初めて上田さんを知った日のことは8月29日のブログに書きました。

在りし日の上田浩司さん。彫刻は照井榮さんの作品。
於:MORIOKA第一画廊 撮影:梅田裕一
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第一画廊の看板。
上田さん手書きの墨で黒々と展覧会名が書かれていたのですが、今回はパソコン文字。
城跡(岩手公園)のすぐそば、テレビ岩手の1階に画廊と喫茶店「舷」が一体となった空間が上田さんのお店でした。
冒頭に紹介した吉田史子さんの短歌「靉光を瑛九を見るうれしさに画廊の階段駆け上りし日」は、第一書店3階にあった時代の急で細い階段のことでしょうか。

上田さんの展示のセンスは抜群でした。
果たして今回のコレクション展の展示はおめがねにかなうでしょうか。
壁面には上田さんが愛した作家たちの小品の数々。50年間の開催展覧会の資料も展示されました。

「池田さん」時代から40年間通った社長、たくさんのことを教えていただきました。

上田さんの原点、松本竣介の素描

盛岡中学で竣介と同級だった舟越保武先生を上田さんは深く敬愛していました。

斜め左上の真四角の作品は盟友ともいうべき松田松雄さんの作品。
通夜の席で上田さんの遺体を覆っていたのは松田松雄展と舟越保武展のポスターでした。

偲ぶ会に間に合わせるべく急遽作成されたMORIOKA第一画廊の開催展覧会リスト。
生前、上田さんは画廊史をつくる話が出たとき激しく拒絶しました。しかし、その軌跡は上田さんだけのものではなく、盛岡の、ひいては日本の現代美術史の重要な資料です。
短期間のうちに半世紀の画廊の歴史をまとめた画廊スタッフや戸村茂樹さんたちのご尽力に深く敬意を表します。

初期の頃の展覧会リスト

最初の展覧会は1964年(昭和39年)11月

出席者は何冊にも及ぶ開催記録のファイルを熱心にご覧になっていました。

このリスト、ファイルには、東京からかけつけた国立文化財研究所の田中淳先生や、和光大学の三上豊先生も驚愕しておられました。
いずれ整理した形で、各研究機関等に贈られるでしょう。

開催された展覧会の案内状の数々。

見た展覧会もあり、「えっ、こういうのやってたんだ」と驚く展覧会あり、50年の歳月はハンパではありません。

真ん中の「全国縦断 現代版画への招待展」は1974年の現代版画センター旗揚げに祭し、上田さんが全国に先駆けて開催に名乗りを上げてくださった亭主と社長にとっては涙なくしては見られない案内状です。

資料写真(松本竣介、舟越保武 etc.,)

資料写真(難波田龍起、百瀬寿、舟越桂 etc.,)

「みなさ~ん、お静かに願います。これから上田さんを偲ぶ会を開催しま~す」

左から彫刻家の照井榮さん(椅子)、友人代表で開会の辞を述べたパンシオンの清水さん、萬鉄五郎記念美術館館長の中村光紀さん、図らずも上田さんの遺志を継ぐことになった直利庵の女将松井裕子さん

盛岡はもとより、東京はじめ各地からたくさんの方が出席されました。

50年の歴史を知る年配の方が多いのは当然ですが、冒頭で紹介した清水真介さんのような若い方も。

中央黒い背広姿は花巻の宮沢賢治イーナトーブ館館長の栗原敦さん。

中央奥の長髪の女性は画家の杉本みゆきさん、ここで幾度も個展を開催しています。
次回のMORIOKA第一画廊の企画展は「杉本みゆき展」です(会期:2016年10月12日~11月12日)

学生時代に画廊でアルバイトをしていた小野寺和代さんは亭主のブログで上田さんの死去を知り東京から駆けつけました。
「あの頃は、上田さんがこんなに凄い人だなんてわからなかった」
左は同じく東京から参加の石田あんこさん(日本キラキラ党総裁)、背後のウォーホルのKIKUは旦那さんの石田了一さんが刷りました。

老若男女、偲ぶ会の実行委員の皆さんも出席者の数を読みきれなかったようです。
「こんなにたくさん来てくださるなんて」

画廊は中津川のたもとにあり、テレビ岩手の庭には舟越保武先生の彫刻が設置されています。
私たちの仲間で最後に病院に上田さんを見舞ったのは刷り師の石田了一さん(左)でした。

左から銀座のギャラリーせいほうの田中譲さん、彫刻家の照井榮さん、銅版画家の戸村茂樹さん

岩手県立美術館の前館長原田光さん(右から二人目)も東京からかけつけました。上田さんとはカマキン時代からのつきあいで、ずいぶん喧嘩もしたようです。
建築家の松本莞さん(左から二人目)も上田さんとは長いつきあいで、亭主が初めて莞さんと呑んだのも上田さんに連れられての席でした。神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催される竣介展にあわせて10月8日に講演されます。

梅田裕一さん(中)は第一画廊の多くの展覧会をカメラにおさめており、今回の資料展示も手伝われました。山好き、音楽好きのコレクターです。
左から二人目の高橋雪人さん(碧祥寺博物館主任学芸員、盛岡美術店主)の本業は古美術・古民芸、雪の文様では国内随一のコレクターです。父君は雪の研究で有名な高橋 喜平。MORIOKA第一画廊の誕生に関わる一族です。
そもそもMORIOKA第一画廊の前身の盛岡画廊をつくったのは高橋一族で医師の高橋又郎。そのご子息が作家の高橋克彦さんです。
(なんで亭主は盛岡のことにこんなに詳しいんだ)

上田さんの奥様と亭主
「上田さんの追っかけをして秋田から盛岡に通いつめたのよ」
「今思うと、いい作品をあんなに安く手放して・・・でもいつも月末が迫ると」
「ワタヌキさん、こんなに大きくなられて(笑)」

石田あんこさんと、末盛千枝子さん(右)。
末盛さんは先日新潮社から『「私」を受け容れて生きるー父と母の娘ー』を刊行されました。父は舟越保武先生、母は舟越道子さん(ときの忘れものの最初のお客様でした)。名づけ親は高村光太郎です。
末盛さんが住む八幡平の舟越先生の別荘は松本莞さんの設計です。

ともに上田さんが愛した作家、大宮政郎さん(左)と、照井榮さん

明るいうちから始まった偲ぶ会、夜が更けても思い出話はつきません。

たくさん美味しいお料理は出たけれど、少し小腹が。
この夜はいつもの直利庵は休業日、もう一軒の名店「なかむら」は予約をするのを忘れて既に満席。
さてどうしたものか・・・・

画廊を出て中津川の橋を渡ると直ぐ辰野金吾設計の旧岩手銀行本店(重要文化財)があります。
今夜の世話役、中村孝幸さんに連れられてぶらりぶらり。
「たまにはラーメンもいいんじゃないですか」と中村さん。
昔、上田さんに案内されて竣介が少年時代をすごしたこのあたりをよく散策したものです。

夜の岩手銀行を通り過ぎて、少し行くと、
紺屋町の「ざくろ」という中華屋さんに。

ドアを開けて、驚いたの何のって。
壁面左から、山口長男、アンディ・ウォーホル、百瀬寿・・・
いったいここはどこなんだ。

左が店主の村田芳美さん。
んっどこかでお目にかかったような・・・・
上田さんが元気な頃、画廊を閉めると先ず直利庵に直行。さんざん呑んで食べて、さて二次会へ。
亭主が覚えているのは、「山小屋」「サイゼリア」「サーカス」などなど、いずれも南部美人のいっぱいいるお店に繰り出し、朝まで・・・・・・
亭主は一度も飲み代を払えなかった(払わせてもらえなかった)。
芳美さんはあの「サーカス」の店主でしたね。

中央が地元の建築家中村孝幸さんで、日本一の磯崎新コレクターです。
他の4人は上田さんにそれぞれお世話になった露天風呂愛好会の面々。

「ゴーギャンのあるお蕎麦やさん」も凄いけれど、「ウォーホルのあるラーメン屋さん」まであるなんて日本広しといえども盛岡だけでしょう。上田さんの功績です。
今回の偲ぶ会の写真を提供してくれた梅田裕一さんや中村孝幸さんはときの忘れものの大事な顧客ですが、もとはといえばMORIOKA第一画廊のお客様です。
たくさんの人々が集った7日の偲ぶ会ですが、盛岡や上田さんを知らない方はきっと「人望厚い温厚篤実な画商さん」だったと思うでしょう。
上田さんは激しい人でした。
敬愛する作家の顕彰には私心を挟まず尽力されました。
東京から多くの作家を招き、多くの画商が盛岡を訪ねました。
訪れた人たちを毎晩のようにもてなし、その費用はただの一銭も払わせませんでした。
これは何より亭主が証人でして、現代版画センターのメンバーがぞろぞろ作家について盛岡に入る、そのホテル代も飲食代もいつもいつも黙って払ってしまうのが上田さんでした。
おそらく亭主たちがご馳走になった代金でマンションの一つや二つ買えたのじゃあないかしら。
しかし、甘えは許さなかった。
上田さんには上田さんの美学というか、ある一線があり、それを超えると激怒されました。
「出入り禁止」になった画家、学芸員、顧客、数知れず。
ん十年前「キミとボクだけは出入り禁止にはならないね」と安心していた(笑)Nさんまで晩年に仲違いしてしまい、上田さんの店の前すら通れないという最悪の関係になってしまった。
亭主も覚えのあることですが、歳をとると「我慢がならず」「頑固になる」。
上田さんもそうでした。
偲ぶ会にはかつて「出入り禁止」の憂き目にあった人たちもたくさんいらっしゃった。
主催者が「数が読めない」と言っていたのはそういう事情からでした。Nさんはじめ皆さんがこれだけ集まり、上田さんの果たした役割、愛した作家たちについて熱く語り合っている。優れた美術はそういう力を持っている。
いくらで売るかではなく、何を売るか。一画商が一地方都市の知的水準をどれほど高められるかを体現した生涯であり、無名の大画商でした。
もう時効ですから書きますが、ずいぶん昔、連日のアルコール摂取がたたったか上田さんが病に倒れ長期入院したことがありました。しばらくの間、画廊は開店休業状態になり、作家や取引画廊への支払いも滞った。
そのとき、さんざん盛岡でご馳走になった東京の某画商さんの反応は冷たいものでした。
亭主はあきれました。飲み食いと作品代の支払いは別というのはわかるけれど、あんなにただ酒飲んだのに手のひら返して上田さんを非難する、そりゃああんまりだ。
せめて上田さんが元気になるまで待てないものなのか。
そういう商売熱心な画商さんは、誰一人偲ぶ会には来ませんでした。亭主がこんなこと書いて、上田さん苦笑いしてるでしょうね。
上田さん、ありがとうございました。私たちはもう少しやることが残っているので、あちらで酒酌み交わすのはしばらく待ってください。
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