普後均のエッセイ「写真という海」第4回
『暗転』
カトマンズの小さな博物館、その建物自体が博物館に収まってもいいような佇まいで、僕以外誰もそこを訪れた人はいなかった。外からの弱い光のなかで、蝶の標本を見ている時、かすかなほんとうにかすかな音を聞いたような気がした。蝶の鱗粉が落ちた音だったのか、それとも羽の一部が崩れた音だったのか。
原型を留めるための標本であっても、箱の中にも間違いなく時間は流れ、蓄積していく時の重みで変化を強いられる。標本のようなものでさえ時間に抗うのが無理であるのなら、生きているもの全て時間に抵抗しようがない。
死に向かって変化していくわが身と変わりゆく世界とどう関わればいいのかという漠然とした思いが『暗転』シリーズに向かわせた。このシリーズのことを考え始めたのは、1970年代の初めだったが、本格的に撮りだしたのは1980年に入ってからである。
小さい時からそれに高校を卒業して米沢から東京に出てきてからもしばらくは喘息の発作に苦しんだ。夜中に発作が起きる度に、父の背中に背負われて近所のかかりつけの医者に行き、エフェドリンの静脈注射を打つ事で呼吸を確保することが常だった。呼吸困難から少しずつ肺に空気が満たされつつある時の
安堵と陶酔の感覚。その時の感覚の記憶を作品にしたのが『遊泳』のシリーズである。(このシリーズのことはまたいつか機会があったら書きたいと思う。)
喘息の発作は、僕と日常的世界との当たり前に感じられた結びつきが一挙に崩れるときでもあった。先ほどまでの世界とほとんど変わらないというのに、それを掴むような握力を一挙に失い、意識するのはどうにもならない自分の肉体と静脈に刺さった注射の光景。
小さい頃からの体験によって、外の世界との関わりがますます希薄になっていくような生活を変えてくれたのが、旅であり、写真だったのかもしれない。
1980年と1983年のそれぞれ数ヶ月のインド、ネパールへの旅は、現実の生身の世界を見、触れ、考える時間になった。身にまとわりつく空気、騒音や匂い、初めて知ることとなったそれらは、全ての感覚を揺さぶり目覚めさせてくれた。人がうごめく街や小さな漁村、山間の村などあてどもなく歩きながら、事物が変化していく一瞬一瞬に立ち会い、それらを撮影していく。新たな外の世界に向かうと同時にむき出しの生と死の世界に触れることで得体のしれない僕の心の奥底に降りていくような感覚を持ったのをいまでもはっきりと覚えている。
普後均
『暗転』シリーズより b-21
1993年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
普後均
『暗転』シリーズより b-25
1980年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
普後均
『暗転』シリーズより b-69
1980年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
カメラは見たものを捉えるということに若い時から疑問を感じていた。一眼レフのフィルムカメラの場合、シャッターを切ると同時にミラーが上がりシャッター幕が走行しフィルムに感光するというシステムなのだけれども、ミラーが上がった瞬間、ファインダー内は闇である。シャッタースピードが60分の1秒であればその瞬間は写そうとしている世界、対象物を見ていないことになる。その僅かな時間の推移の中でも世界は変化している。見なかった一瞬を撮ることが写真ではないのか。このことは『暗転』というタイトルにもつながっていく。
『暗転』といえば何かの切掛で状況が悪い方に転じることと捉えられてしまうが、演劇で幕を下ろさず照明を切った暗がりの中で次の場面に転換するという意味においての暗転である。シャッターを切った瞬間の暗闇の状態が舞台上の闇と結びついたが故のタイトルなのだ。
『暗転』のそれぞれのイメージは旅先で出会った物事の記録ではなく、モノやヒトと場所の関係を壊すことによって、モノやヒトを抽象化し、変化し続けるものとしての有り様を静かに提示したものといっていい。インドやネパールだけではなく、日本、アメリカ、メキシコなど多くの場所で撮られたイメージで構成されている『暗転』はどこで何を撮ったのかは全く重要なことではなく、茫漠とした心の奥底と呼応したイメージの集積でもある。
このシリーズを作ったことで、自分自身と外の世界との関わりがどう変化したのか明確にはわからない。一方的に内向するのでもなく、外の世界にも意識が向くようになったと言えるかもしれない。
このシリーズをまとめてから作品は未発表である。生きている間、写真集を作り、ギャラリーでも発表できる機会があればいいと思っている。
(ふご ひとし)
■普後均 Hitoshi FUGO(1947-)
1947年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、細江英公に師事。1973年に独立。2010年伊奈信男賞受賞。国内、海外での個展、グループ展多数。主な作品に「遊泳」「暗転」「飛ぶフライパン」「ゲームオーバー」「見る人」「KAMI/解体」「ON THE CIRCLE」(様々な写真的要素、メタファーなどを駆使しながら65点のイメージをモノクロで展開し、普後個人の世界を表現したシリーズ)他がある。
主な写真集:「FLYING FRYING PAN」(写像工房)、「ON THE CIRCLE」(赤々舎)池澤夏樹との共著に「やがてヒトに与えられた時が満ちて.......」他。パブリックコレクション:東京都写真美術館、北海道立釧路芸術館、京都近代美術館、フランス国立図書館、他。
●本日のお勧め作品は、中藤毅彦です。
中藤毅彦
「Winterlicht」
1999年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:54.0×35.9cm
シートサイズ:57.0×38.8cm
サインあり
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◆普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
『暗転』
カトマンズの小さな博物館、その建物自体が博物館に収まってもいいような佇まいで、僕以外誰もそこを訪れた人はいなかった。外からの弱い光のなかで、蝶の標本を見ている時、かすかなほんとうにかすかな音を聞いたような気がした。蝶の鱗粉が落ちた音だったのか、それとも羽の一部が崩れた音だったのか。
原型を留めるための標本であっても、箱の中にも間違いなく時間は流れ、蓄積していく時の重みで変化を強いられる。標本のようなものでさえ時間に抗うのが無理であるのなら、生きているもの全て時間に抵抗しようがない。
死に向かって変化していくわが身と変わりゆく世界とどう関わればいいのかという漠然とした思いが『暗転』シリーズに向かわせた。このシリーズのことを考え始めたのは、1970年代の初めだったが、本格的に撮りだしたのは1980年に入ってからである。
小さい時からそれに高校を卒業して米沢から東京に出てきてからもしばらくは喘息の発作に苦しんだ。夜中に発作が起きる度に、父の背中に背負われて近所のかかりつけの医者に行き、エフェドリンの静脈注射を打つ事で呼吸を確保することが常だった。呼吸困難から少しずつ肺に空気が満たされつつある時の
安堵と陶酔の感覚。その時の感覚の記憶を作品にしたのが『遊泳』のシリーズである。(このシリーズのことはまたいつか機会があったら書きたいと思う。)
喘息の発作は、僕と日常的世界との当たり前に感じられた結びつきが一挙に崩れるときでもあった。先ほどまでの世界とほとんど変わらないというのに、それを掴むような握力を一挙に失い、意識するのはどうにもならない自分の肉体と静脈に刺さった注射の光景。
小さい頃からの体験によって、外の世界との関わりがますます希薄になっていくような生活を変えてくれたのが、旅であり、写真だったのかもしれない。
1980年と1983年のそれぞれ数ヶ月のインド、ネパールへの旅は、現実の生身の世界を見、触れ、考える時間になった。身にまとわりつく空気、騒音や匂い、初めて知ることとなったそれらは、全ての感覚を揺さぶり目覚めさせてくれた。人がうごめく街や小さな漁村、山間の村などあてどもなく歩きながら、事物が変化していく一瞬一瞬に立ち会い、それらを撮影していく。新たな外の世界に向かうと同時にむき出しの生と死の世界に触れることで得体のしれない僕の心の奥底に降りていくような感覚を持ったのをいまでもはっきりと覚えている。
普後均『暗転』シリーズより b-21
1993年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
普後均『暗転』シリーズより b-25
1980年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
普後均『暗転』シリーズより b-69
1980年撮影(2004年プリント)
ゼラチン シルバー プリント
Image size: 21.7x32.5cm
Sheet size: 11x14inch
カメラは見たものを捉えるということに若い時から疑問を感じていた。一眼レフのフィルムカメラの場合、シャッターを切ると同時にミラーが上がりシャッター幕が走行しフィルムに感光するというシステムなのだけれども、ミラーが上がった瞬間、ファインダー内は闇である。シャッタースピードが60分の1秒であればその瞬間は写そうとしている世界、対象物を見ていないことになる。その僅かな時間の推移の中でも世界は変化している。見なかった一瞬を撮ることが写真ではないのか。このことは『暗転』というタイトルにもつながっていく。
『暗転』といえば何かの切掛で状況が悪い方に転じることと捉えられてしまうが、演劇で幕を下ろさず照明を切った暗がりの中で次の場面に転換するという意味においての暗転である。シャッターを切った瞬間の暗闇の状態が舞台上の闇と結びついたが故のタイトルなのだ。
『暗転』のそれぞれのイメージは旅先で出会った物事の記録ではなく、モノやヒトと場所の関係を壊すことによって、モノやヒトを抽象化し、変化し続けるものとしての有り様を静かに提示したものといっていい。インドやネパールだけではなく、日本、アメリカ、メキシコなど多くの場所で撮られたイメージで構成されている『暗転』はどこで何を撮ったのかは全く重要なことではなく、茫漠とした心の奥底と呼応したイメージの集積でもある。
このシリーズを作ったことで、自分自身と外の世界との関わりがどう変化したのか明確にはわからない。一方的に内向するのでもなく、外の世界にも意識が向くようになったと言えるかもしれない。
このシリーズをまとめてから作品は未発表である。生きている間、写真集を作り、ギャラリーでも発表できる機会があればいいと思っている。
(ふご ひとし)
■普後均 Hitoshi FUGO(1947-)
1947年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、細江英公に師事。1973年に独立。2010年伊奈信男賞受賞。国内、海外での個展、グループ展多数。主な作品に「遊泳」「暗転」「飛ぶフライパン」「ゲームオーバー」「見る人」「KAMI/解体」「ON THE CIRCLE」(様々な写真的要素、メタファーなどを駆使しながら65点のイメージをモノクロで展開し、普後個人の世界を表現したシリーズ)他がある。
主な写真集:「FLYING FRYING PAN」(写像工房)、「ON THE CIRCLE」(赤々舎)池澤夏樹との共著に「やがてヒトに与えられた時が満ちて.......」他。パブリックコレクション:東京都写真美術館、北海道立釧路芸術館、京都近代美術館、フランス国立図書館、他。
●本日のお勧め作品は、中藤毅彦です。
中藤毅彦「Winterlicht」
1999年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:54.0×35.9cm
シートサイズ:57.0×38.8cm
サインあり
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