私たちの最初期を支えてくださった船木仁先生が亡くなったのは30年前の今日、1986年(昭和61年)11月18日でした。
画商という商売は、先ず絵を買い付け、それに利潤をのせてコレクターに買っていただくことによって成り立っています。
買って下さる方がいなければ資金繰りに窮する→当然新たな仕入れもできない→いい絵がない画廊には客も寄り付かない、という悪循環に陥ります。
ましてや私たちは膨大な資金を必要とする版画の版元(現代版画センター)からスタートしたものですから、作品の影も形もないうちから無条件で資金援助してくれるパトロンが絶対的に必要でした。
船木仁先生のことは、Fさんとして『彷書月刊』2008年10月号に書いたことがあります。
風景を撫でている男の後姿がみえる
鏡の中に常に壊れていく顔がある
夏草の裏側に いつもルソーの犬が坐っている
義眼からこぼれた涙のような冬空
*船木仁『風景を撫でている男の後姿がみえる』(1975年刊、装丁・構成:高橋昭八郎)所収
初めてお会いしたのは1974年7月20日でした。MORIOKA第一画廊の上田浩司さんがオークションを開催してくれ、船木先生は木内克のテラコッタ「靴」を落札されました。
ビルなど一軒もない秋田の神宮寺という小さな町の歯医者さんで、休日に国鉄に乗って奥羽山脈を越え、盛岡の上田さんの画廊に来るのを楽しみにしておられました。
やがて数ヶ月に一度、上京し渋谷の246沿いの坂を上り詰めた桜丘の現代版画センターに寄ってくださるようになりました。
当時は新幹線もなく、秋田から東京は遠かった。自分が見たいからと友人の佐藤功介さん(当時大曲高校の美術教師)の実家の土間を画廊に改造し、現代版画センターのためだけの画廊をつくってしまった。
以来、大曲画廊は毎月私たちが送る版画の展覧会をずっと開いてくださった。
1975年11月2日大曲画廊にて、
関根伸夫先生(中央)と佐藤功介さんご一家。
大曲にて、関根伸夫先生と船木仁先生(右)
下の写真は、偶然にも亭主が大曲に通いつめていた1970年代に西村多美子さんが東北の旅の途中で撮った《大曲、秋田県》です。大曲画廊はこのタクシー会社の直ぐそばにありました。

私たちがイブ・クラインを、マン・レイを、デュシャンを、山口長男を知り、ささやかながらも作品を売買できたのは、すべて船木先生のおかげでした。
関根伸夫からウォーホルまで現代版画センターの主要なエディションをすべてコレクションし、他の顧客から「蕁麻疹がでる」といわれるくらい売れなかった草間彌生のエディションも黙って買ってくださったのは船木先生くらいでした。
遺稿詩集『一本の虫歯のための道具』の巻末に奥様の森原智子さんが詩人らしい簡潔な筆致でご主人の生涯を書かれています。
~~~~
「船木仁のこと」
船木仁は、昭和五年五月十日、秋田県大曲市黒瀬に生れた。県立角館高校から日本歯科大学へ入り、当時大学図書館にいた詩人北園克衛の知遇を得て、二十八年詩誌〈VOU〉同人となる。大学卒業後、東京・日本橋で歯科医院開業、かたわら詩誌〈et〉〈ATTACK〉に関わった。
三十九年、秋田へ帰り、仙北郡神岡町駅前の、父の歯科医院のあとを継いだ。また自由律俳人だった父、船木月月虹のあとを慕って地元の「麓の会」へ入り、その機縁で一行詩を試みるようになった。名古屋から出ている一行詩誌〈視界〉に関わる。同時に戦後ヨーロッパ・アヴァンギャルドの版画、抽象絵画を好んでコレクションを始め、かたわら東京・尾久の辰東ボクシング・ ジムで、若いプロボクサーを熱心に応援した。音楽は殆ど前衛のジャズを好んで聴いた。
五十年一月、一行詩集『風景を撫でている男の後姿がみえる』を盛岡・杜陵印刷社から出版。五十四年詩誌〈gui〉創刊に参加。五十五年、北園克衛句集『村』を、藤富保男氏と共同編集、高橋昭八郎氏の造本協力を得て、東京・目黒の瓦蘭堂から出版。五十八年、一行詩集『瑪瑙の街』を盛岡・点点洞より出版する。
この頃から体調がくずれ、歯科医としての体力保持が困難になっていった。慶應病院で肺繊維症と診断され、六十年、南房総・鴨川の海辺で療養生活に入ったが、僅か二か月後、通院のため、都内池袋に居を移し家族と共に住んだ。
慶應病院に入退院をくりかえす間、ひどい呼吸困難におそわれる時も、平静を失うことはなかった。六十一年夏、最後の入院となる。
十一月十七日、朝食がとれなくなったが、予期していたらしく、家人におどけて両手をあげ、明るい顔でギブアップのポーズをした。午後二時すぎ脳死状態、翌十八日午前八時四十六分心音が消えた。
五十六年の歳月だったが、始終人や物からきびしい距離をとって、何ものもおかさず、またおかされることがなかった、と思う。
この詩集を可能にするため、ご尽力なさった藤富保男氏と、お心のこもる文章をお寄せ下さいました、清水俊彦、鍵谷幸信、高橋昭八郎の各氏に深くお礼を申しあげたいと思います。
昭和六十三年十一月 池袋にて 智子

船木仁『詩集・一本の虫歯のための道具』
発行日:一九八八年11十一月十八日
発行所:あざみ書房
発行者:藤富保男
~~~~

船木仁『風景を撫でている男の後姿がみえる』
発行:昭和五十年二月二十五日
(表紙)
(裏表紙)

船木仁『詩集 瑪瑙の街』
発行:一九八三年一月一〇日
発行所:点点洞
構成・装幀:高橋昭八郎
北園克衛『句集 村』
発行日:昭和五五年六月六日
発行:瓦蘭堂
編者:船木仁、藤富保男
装幀:高橋昭八郎
写真:藤富保男
----------------------
恩人の命日である11月18日は、マン・レイの命日でもあります(Man Ray, 1890年8月27日~ 1976年11月18日没)。
今年は没後40年の記念の年、これについてはきっとマン・レイになってしまった石原輝雄さんがご自身のブログにお書きになるでしょうから、おまかせしましょう。
先日ご紹介した石原コレクションによるマン・レイの展覧会が京都で開催中です。
『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
2016年11月7日(月)〜12月16日(金)
京都工芸繊維大学 美術工芸資料館2階展示室

京都工芸繊維大学美術工芸資料館(2016年)
●今日のお勧め作品は小野隆生です。

小野隆生
《肖像図 啄木》
油彩・画布
イメージサイズ:33.5×24.0cm
フレームサイズ:38.8×30.0cm
Signed
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画商という商売は、先ず絵を買い付け、それに利潤をのせてコレクターに買っていただくことによって成り立っています。
買って下さる方がいなければ資金繰りに窮する→当然新たな仕入れもできない→いい絵がない画廊には客も寄り付かない、という悪循環に陥ります。
ましてや私たちは膨大な資金を必要とする版画の版元(現代版画センター)からスタートしたものですから、作品の影も形もないうちから無条件で資金援助してくれるパトロンが絶対的に必要でした。
船木仁先生のことは、Fさんとして『彷書月刊』2008年10月号に書いたことがあります。
風景を撫でている男の後姿がみえる
鏡の中に常に壊れていく顔がある
夏草の裏側に いつもルソーの犬が坐っている
義眼からこぼれた涙のような冬空
*船木仁『風景を撫でている男の後姿がみえる』(1975年刊、装丁・構成:高橋昭八郎)所収
初めてお会いしたのは1974年7月20日でした。MORIOKA第一画廊の上田浩司さんがオークションを開催してくれ、船木先生は木内克のテラコッタ「靴」を落札されました。
ビルなど一軒もない秋田の神宮寺という小さな町の歯医者さんで、休日に国鉄に乗って奥羽山脈を越え、盛岡の上田さんの画廊に来るのを楽しみにしておられました。
やがて数ヶ月に一度、上京し渋谷の246沿いの坂を上り詰めた桜丘の現代版画センターに寄ってくださるようになりました。
当時は新幹線もなく、秋田から東京は遠かった。自分が見たいからと友人の佐藤功介さん(当時大曲高校の美術教師)の実家の土間を画廊に改造し、現代版画センターのためだけの画廊をつくってしまった。
以来、大曲画廊は毎月私たちが送る版画の展覧会をずっと開いてくださった。
1975年11月2日大曲画廊にて、関根伸夫先生(中央)と佐藤功介さんご一家。
大曲にて、関根伸夫先生と船木仁先生(右)下の写真は、偶然にも亭主が大曲に通いつめていた1970年代に西村多美子さんが東北の旅の途中で撮った《大曲、秋田県》です。大曲画廊はこのタクシー会社の直ぐそばにありました。

私たちがイブ・クラインを、マン・レイを、デュシャンを、山口長男を知り、ささやかながらも作品を売買できたのは、すべて船木先生のおかげでした。
関根伸夫からウォーホルまで現代版画センターの主要なエディションをすべてコレクションし、他の顧客から「蕁麻疹がでる」といわれるくらい売れなかった草間彌生のエディションも黙って買ってくださったのは船木先生くらいでした。
遺稿詩集『一本の虫歯のための道具』の巻末に奥様の森原智子さんが詩人らしい簡潔な筆致でご主人の生涯を書かれています。
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「船木仁のこと」
船木仁は、昭和五年五月十日、秋田県大曲市黒瀬に生れた。県立角館高校から日本歯科大学へ入り、当時大学図書館にいた詩人北園克衛の知遇を得て、二十八年詩誌〈VOU〉同人となる。大学卒業後、東京・日本橋で歯科医院開業、かたわら詩誌〈et〉〈ATTACK〉に関わった。
三十九年、秋田へ帰り、仙北郡神岡町駅前の、父の歯科医院のあとを継いだ。また自由律俳人だった父、船木月月虹のあとを慕って地元の「麓の会」へ入り、その機縁で一行詩を試みるようになった。名古屋から出ている一行詩誌〈視界〉に関わる。同時に戦後ヨーロッパ・アヴァンギャルドの版画、抽象絵画を好んでコレクションを始め、かたわら東京・尾久の辰東ボクシング・ ジムで、若いプロボクサーを熱心に応援した。音楽は殆ど前衛のジャズを好んで聴いた。
五十年一月、一行詩集『風景を撫でている男の後姿がみえる』を盛岡・杜陵印刷社から出版。五十四年詩誌〈gui〉創刊に参加。五十五年、北園克衛句集『村』を、藤富保男氏と共同編集、高橋昭八郎氏の造本協力を得て、東京・目黒の瓦蘭堂から出版。五十八年、一行詩集『瑪瑙の街』を盛岡・点点洞より出版する。
この頃から体調がくずれ、歯科医としての体力保持が困難になっていった。慶應病院で肺繊維症と診断され、六十年、南房総・鴨川の海辺で療養生活に入ったが、僅か二か月後、通院のため、都内池袋に居を移し家族と共に住んだ。
慶應病院に入退院をくりかえす間、ひどい呼吸困難におそわれる時も、平静を失うことはなかった。六十一年夏、最後の入院となる。
十一月十七日、朝食がとれなくなったが、予期していたらしく、家人におどけて両手をあげ、明るい顔でギブアップのポーズをした。午後二時すぎ脳死状態、翌十八日午前八時四十六分心音が消えた。
五十六年の歳月だったが、始終人や物からきびしい距離をとって、何ものもおかさず、またおかされることがなかった、と思う。
この詩集を可能にするため、ご尽力なさった藤富保男氏と、お心のこもる文章をお寄せ下さいました、清水俊彦、鍵谷幸信、高橋昭八郎の各氏に深くお礼を申しあげたいと思います。
昭和六十三年十一月 池袋にて 智子

船木仁『詩集・一本の虫歯のための道具』
発行日:一九八八年11十一月十八日
発行所:あざみ書房
発行者:藤富保男
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船木仁『風景を撫でている男の後姿がみえる』
発行:昭和五十年二月二十五日
(表紙)
(裏表紙)
船木仁『詩集 瑪瑙の街』
発行:一九八三年一月一〇日
発行所:点点洞
構成・装幀:高橋昭八郎
北園克衛『句集 村』発行日:昭和五五年六月六日
発行:瓦蘭堂
編者:船木仁、藤富保男
装幀:高橋昭八郎
写真:藤富保男
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恩人の命日である11月18日は、マン・レイの命日でもあります(Man Ray, 1890年8月27日~ 1976年11月18日没)。
今年は没後40年の記念の年、これについてはきっとマン・レイになってしまった石原輝雄さんがご自身のブログにお書きになるでしょうから、おまかせしましょう。
先日ご紹介した石原コレクションによるマン・レイの展覧会が京都で開催中です。
『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
2016年11月7日(月)〜12月16日(金)
京都工芸繊維大学 美術工芸資料館2階展示室

京都工芸繊維大学美術工芸資料館(2016年)●今日のお勧め作品は小野隆生です。

小野隆生
《肖像図 啄木》
油彩・画布
イメージサイズ:33.5×24.0cm
フレームサイズ:38.8×30.0cm
Signed
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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