清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」第3回

 佐谷画廊のことを知ったのは、1982年7月に「オマージュ瀧口修造展」と銘打って詩画集「妖精の距離」と「スフィンクス」の展示を行っていたからである。このカタログは小冊子のモノクロ図版だったが、滅多に見ることができない詩画集の全容を写真で紹介していた。このために寄せられた巖谷國士さんの「三年ののち」と題するテキストは、戦前におけるチェコスロヴァキアと日本のシュルレアリスム運動の比較を通していかに瀧口修造が孤立し「詩的実験」が彼一人によって遂行された〈運動〉であったかを論じ、その中から生まれた幸福とも言える成果が「妖精の距離」であることを示されたものだった。そして、初めて名前を知ったもう一人の寄稿者、土渕信彦さんの「切抜帖から」と題する文章からは、純粋かつ熱烈なファンとしての追悼の念とこれから研究を志す決意のようなものが伝わってきて親近感を覚えた。

「オマージュ瀧口修造展」案内状佐谷画廊1982年「オマージュ瀧口修造展」案内状
佐谷画廊
1982年


「オマージュ瀧口修造展」カタログ佐谷画廊1982年「オマージュ瀧口修造展」カタログ
佐谷画廊
1982年


 佐谷画廊はこの前年に瀧口の三周忌に合わせてアントニ・タピエスとの詩画集「物質のまなざし」の展示を行っているが、後になってそれを第1回展として恒例のオマージュ瀧口修造展を開催するようになった。1982年の11月には画廊も京橋から銀座に移り、翌年の第3回展は「加納光於 ― 瀧口修造に沿って」と題し、カタログも大判となりカラー図版も入るようになった。

「物質のまなざし」カタログ佐谷画廊1981年「物質のまなざし」カタログ
佐谷画廊
1981年


「加納光於ー瀧口修造に沿って」カタログ佐谷画廊1983年「加納光於ー瀧口修造に沿って」カタログ
佐谷画廊
1983年


同上カタログより同上カタログより


 私が初めて佐谷画廊を訪れたのは1984年の2月のことで、佐藤忠雄コレクション展が開かれていた。「画廊にて 現代絵画収集35年の軌跡」刊行記念の企画で、著者の佐藤さんもおられて本にサインをしていただいた。佐藤さんは高級官僚の経歴を持つ現代美術のコレクターとして知られていた。この本の中で特に印象に残ったのは、南画廊における三木富雄の絶筆となったデッサンとの出会いの場面と、画廊主志水楠男の死に触れて「この人の偉さはパイオニアとしての偉さであると思う。精力的に新しい画壇の創成に、努力された点にあると思う。価値のあるものを売ったり買ったりするのではない。まったく価値のないものを、価値のあるものにする仕事をされたのである。」と書いていたことである。

JPG「佐藤忠雄コレクション展」案内状
佐谷画廊
1984年


JPG「画廊にて」佐藤忠雄著
1984年
書苑刊行


JPG「月刊大樹誉6月号」より
三木富雄のデッサンと佐藤忠雄さん
1991年(株)東興


 この展覧会の折に画廊の応接間に置かれていた一つの作品に目が留まった。それは動物の紋章のような形に鮮やかなコバルトブルーの色が紙に食い込むように刷られたもので、加納光於の「ソルダード・ブルー」(接合された青)と名付けられた作品だった。私は直感的に瀧口修造の詩におけるイメージと物質の結合を連想したが、それはまるで「原型ノナイ青空ノ鋳物」のように見えた。(「掌中破片」煌文庫1書肆山田1979年刊)

JPG加納光於「ソルダード・ブルー」
1965年作


JPG「掌中破片」
書肆山田
1979年刊行


 周知のとおり加納光於は独学で銅版画を始め、早くから瀧口にその才能を認められ1956年にはタケミヤ画廊で最初の個展を行っている。瀧口はすでにその将来を予見するかのように南画廊での個展に寄せて「加納光於は黒と白の銅版画家である。そして、いままでのところそれに限っている。」(「一人の銅版画家についてのノート」1960年加納光於個展リーフレットより)と書いているが、その4年後に飽くなき表現技法の追求の過程で初めて色彩に取組んだのが亜鉛版をガスバーナーで焼き切ったものに色を付け凸版で刷ったメタルプリントだった。加納は「金属表面の凹凸のため圧刷プレス機がこわれてもいい、その瞬息の間に消え去った〈色彩〉の動的なダイナミズムのようなものを呼び戻してみたい。そうしてできたのがソルダード・ブルー」だと語っている。(ポエティカ臨時増刊特集・加納光於「馬場駿吉によるインタビュー〈揺らめく色の穂先に〉」より1992年小沢書店刊)

10「加納光於個展」リーフレット
南画廊
1960年


11「ポエティカ臨時増刊特集・加納光於」
小沢書店
1992年


11-2馬場駿吉によるインタビュー記事〈揺らめく色の穂先に〉


 この作品を購入したことがきっかけとなって、私は加納さんへ手紙を出したが、すぐに作品を購入したことへの感謝とデータを記した返事を頂いた。そして、1985年の2月に神奈川県の鎌倉山にあるアトリエを訪ねた。鎌倉駅からバスに乗り、とある停留所で降りて谷側に沿った細い小径を下って行くと入口に加納光於と書かれた白い木製の郵便箱が立っていた。その右手に見える白い洋館がかつて瀧口修造も訪れ「ある日、私は辿りついた谷間の家で」と書いたアトリエであった。(「加納光於についてのある日の断章」1967年南画廊個展〈半島状の!〉より)

12加納光於さんの手紙


13加納光於のアトリエ
「ポエティカ臨時増刊特集加納光於」より
小沢書店
1992年


 その日は、あいにく激しい雨が降っていたが、函のオヴジェ「アララットの船あるいは空の蜜」が置かれた書斎のような部屋でいくつか質問を交えてお話を伺った。瀧口さんについて何か書く予定はないですかと聞くと「瀧口さんのような人は後にも先にもいないし、書くことによってますます捉えがたい存在となるおそれがあるが、いつかオマージュとしての本を出したい。」と答えられ、制作にあたっては、「先にイメージがあるのではなく、不定形なものを明確にしたい欲求にかられて表現している。版画にこだわる訳ではないが、そのプロセスを大切にしている。」と語った。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描「洪水」についての関心も示されたが、詩画集「稲妻捕り Elements」(1978年書肆山田刊)はその反映であったのかもしれない。
2時間ほど滞在し、その場で署名をされた図録「加納光於1977」(南画廊での個展に際して刊行)を戴いて帰途についたが、しばらくは興奮冷めやらぬ心地であった。
※アトリエ訪問時における加納さんの言葉は私の覚書に基づくものである。

14「アララットの船あるいは空の蜜」
1972年制作
(みずゑ1978年3月号特集・加納光於より)


15レオナルド・ダ・ヴィンチ素描展カタログより
「洪水」
西武美術館
1985年


16「稲妻捕り Elements」
書肆山田
1978年


17同上図版より


18「加納光於1977」
南画廊刊


せいけ かつひさ

■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。

清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20170520_V-09(185)瀧口修造
「V-09」
水彩、インク、色鉛筆、紙
Image size: 27.5x22.7cm
Sheet size: 31.5x26.8cm
サインあり


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◆清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。