清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」第4回
1980年に思潮社より「現代詩読本」シリーズの1冊として「瀧口修造」が刊行され、その表紙に使われたのが自由が丘画廊での「窓越しに…マルセル・デュシャン小展示」(1978年)に来廊した時の写真(撮影:安齊重男)である。この展示はデュシャンのコレクター笠原正明さんの所蔵品を主とし「瀧口が監修的な立場で関与した国内初の本格的なデュシャンの個展」(「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより千葉市美術館2011年刊)であった。
現代詩読本15瀧口修造
同上表紙の元となった写真
「瀧口修造とマルセル・デュシャン展」千葉市美術館カタログより
1984年の末頃、自由が丘画廊に瀧口関連の作品を探している旨電話と手紙で伝えたところ、しばらくして画廊主の実川暢宏さんから速達の返事が届いた。その中には先の「小展示」におけるリーフレットと瀧口のオブジェの写真が同封されていた。オブジェはある関係者から預かったもので売価も記されていた。12センチ四方の木箱の中に鳥の羽根とバラの花が白い台紙の上に置かれ、「誰のものか、これは? 瀧口修造 (日付) 綾子へ 庭で拾う」とペン書きの献辞があり、月日は判読できないがその下に‘73と書かれている。1973年といえばマルセル・デュシャン大回顧展のために渡米し「扉に鳥影」が作られた時期と重なり、綾子夫人への贈物であるこのオブジェはデュシャンとの関連も伺わせる。
「マルセル・デュシャン小展示」リーフレット
瀧口修造のオブジェ
「扉に鳥影」
ユリイカ1977年8月号付録より
しかし、写真だけでは判断がつかず、翌年の2月に上京した折に初めて自由が丘画廊を訪れ実川さんから現物を見せていただいたが、これは私のような者が持つべきではないと思ったのは、それがあまりに純粋でプライベートな作品であり、お金で購うことへの抵抗感があったのかもしれない。
瀧口は1962年に出身地の富山市で開催された第15回全国造形教育大会において「今日の美術―オブジェを中心として」と題した講演を行っているが、その下書きにあたる未発表原稿が「オブジェの生命」覚え書として遺されていた。(みすず357号1990年12月)その中で「シュルレアリスムがオブジェというものを普遍化させた最初の体系的な運動」であり、「日本に芸術用語としてのオブジェを流行させた最初の張本人は私であった。」と述べ、オブジェの分類の中でも「本質的で基本的なものはobjet naturel(自然の物体)殊にobjet trouvé(発見されたオブジェ)である。」と結論付けていた。
みすず357号
同上収録「オブジェの生命覚え書」
瀧口によるあのオブジェはまさにその典型だろう。後日、私の家の近くにある神社の境内で見つけた鳥の羽根を手紙に添えて綾子夫人にお送りしたら「石神井の庭で拾った羽根を失くしてしまい― 思いがけず濡れた様に美しい鳥の羽根をいただき だれが落した羽根かしらと思いました」との返事をいただいたが、もしかすると失くしたのはあのオブジェの羽根だったのだろうか?
綾子夫人の手紙
実川さんは初対面の私にも親切に応対してくださり、画廊を始めた経緯や日本ではあまり取り扱われていなかったド・スタールやポリアコフなどの展覧会を行ったこと、駒井哲郎の版画がまだ売れない時期に1枚1万円で仕入れていたことなどを話された。そして、瀧口先生はまるで仙人のような生活を送っていたと語り、あの書斎をそのまま遺せなかったことを惜しまれた。また、デュシャンの「大ガラス」東京版が国有財産として東京大学教養学部美術博物館に東洋美術の考古物と一緒に陳列されていることが面白いと言い、見に行くことを勧められ、その場で「大ガラス」の制作に携わった東大の横山正助教授の助手の方に電話して見学の了解まで取り付けていただいた。翌日、駒場にある美術博物館へ行き「大ガラス」と初めて対面することができた。世界で三つしかない「大ガラス」のレプリカの一つが、この日本にあること自体特筆すべきだが、デュシャン夫人は瀧口修造と東野芳明による監修を条件に制作を許可したそうである。しかし、その完成を見ずに瀧口は逝ってしまったのも「ガラスの遅延」(「急速な鎮魂曲」美術手帖1968年12月号)と言うべきだろうか。
東京大学教養学部美術博物館パンフレット
「大ガラス」東京版
(写真・清家克久)
実川さんは瀧口の本を探すなら友人でそうした情報に詳しい人がいると言って紹介されたのが詩人で朗唱家の天童大人さんだった。天童さんからは瀧口の本が見つかるたびに電話や手紙で頻繁に連絡をいただいた。そのおかげで一気に収集が進み、その中には「超現実主義と絵画」「黄よ。おまえはなぜ」「星は人の指ほどの―」「畧説虐殺された詩人」「自由な手抄」など容易に見つけることができないものも含まれていた。
アンドレ・ブルトン「超現実主義と絵画」
訳厚生閣書店刊1930年
サム・フランシスとの詩画集「黄よ。おまえはなぜ」
南画廊刊1964年
野中ユリとの詩画集「星は人の指ほどのー」
私家版1965年
アポリネール「畧説虐殺された詩人」
訳湯川書房刊1972年
マン・レイ素描エリュアール詩「自由な手・抄」
訳GQ出版社刊1973年
同上
このことが機縁となって交流が始まり、ご自身の活動である詩の朗唱や美術展評に関する資料などを送っていただいた。私には朗唱という言葉は聞き慣れないものだったが、聲の持つ始原の力を現代に蘇らせる行為として朗読との違いを強調されていたように思う。天童さんが初めて即興朗唱を試みたのは瀧口の三回忌を目前にした1981年6月26日、東京・六本木のストライプハウス美術館でのイベントにおける「アントナン・アルトー ― 瀧口修造へ ―」と題する作品であったという。(巒気通信創刊号1985年発行)瀧口とアルトーといえば第1巻のみ刊行され絶版となった「アントナン・アルトー全集」(現代思潮社刊1971年)の瀧口にしては珍しくエキセントリックな装幀と内容見本に書かれた「未知の人アントナン・アルトー」を思い出す。
「巒気通信創刊号」
鹿火編集室刊1985年
「アントナン・アルトー全集第1巻」
現代思潮社刊1971年
同上内容見本
天童さんは1983年より吉増剛造さんらと共に北海道を回る「北ノ朗唱」を行っていたが、愛媛でも聲を発したいという希望に応えるため、私が仲介となり松山で出版を営む創風社の大早友章さんに主催を、後援を友人の江原哲治さんにお願いして1989年9月9日松山市のアオノホールにおいて詩人の白石かずこさんと天童さんを招き「詩の夜 SPIRIT VOICE」と題して四国初の朗唱のイベントが行われた。
「北ノ朗唱」ポスター1986年
「詩の夜SPIRIT VOICE」チラシ
同上新聞記事
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
●清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
「III-19」
デカルコマニー
※『瀧口修造の造形的実験』(2001年)No.205と対
Image size: 14.0x10.5cm
Sheet size: 25.1x17.5cm
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◆清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。
1980年に思潮社より「現代詩読本」シリーズの1冊として「瀧口修造」が刊行され、その表紙に使われたのが自由が丘画廊での「窓越しに…マルセル・デュシャン小展示」(1978年)に来廊した時の写真(撮影:安齊重男)である。この展示はデュシャンのコレクター笠原正明さんの所蔵品を主とし「瀧口が監修的な立場で関与した国内初の本格的なデュシャンの個展」(「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより千葉市美術館2011年刊)であった。
現代詩読本15瀧口修造
同上表紙の元となった写真「瀧口修造とマルセル・デュシャン展」千葉市美術館カタログより
1984年の末頃、自由が丘画廊に瀧口関連の作品を探している旨電話と手紙で伝えたところ、しばらくして画廊主の実川暢宏さんから速達の返事が届いた。その中には先の「小展示」におけるリーフレットと瀧口のオブジェの写真が同封されていた。オブジェはある関係者から預かったもので売価も記されていた。12センチ四方の木箱の中に鳥の羽根とバラの花が白い台紙の上に置かれ、「誰のものか、これは? 瀧口修造 (日付) 綾子へ 庭で拾う」とペン書きの献辞があり、月日は判読できないがその下に‘73と書かれている。1973年といえばマルセル・デュシャン大回顧展のために渡米し「扉に鳥影」が作られた時期と重なり、綾子夫人への贈物であるこのオブジェはデュシャンとの関連も伺わせる。
「マルセル・デュシャン小展示」リーフレット
瀧口修造のオブジェ
「扉に鳥影」ユリイカ1977年8月号付録より
しかし、写真だけでは判断がつかず、翌年の2月に上京した折に初めて自由が丘画廊を訪れ実川さんから現物を見せていただいたが、これは私のような者が持つべきではないと思ったのは、それがあまりに純粋でプライベートな作品であり、お金で購うことへの抵抗感があったのかもしれない。
瀧口は1962年に出身地の富山市で開催された第15回全国造形教育大会において「今日の美術―オブジェを中心として」と題した講演を行っているが、その下書きにあたる未発表原稿が「オブジェの生命」覚え書として遺されていた。(みすず357号1990年12月)その中で「シュルレアリスムがオブジェというものを普遍化させた最初の体系的な運動」であり、「日本に芸術用語としてのオブジェを流行させた最初の張本人は私であった。」と述べ、オブジェの分類の中でも「本質的で基本的なものはobjet naturel(自然の物体)殊にobjet trouvé(発見されたオブジェ)である。」と結論付けていた。
みすず357号
同上収録「オブジェの生命覚え書」瀧口によるあのオブジェはまさにその典型だろう。後日、私の家の近くにある神社の境内で見つけた鳥の羽根を手紙に添えて綾子夫人にお送りしたら「石神井の庭で拾った羽根を失くしてしまい― 思いがけず濡れた様に美しい鳥の羽根をいただき だれが落した羽根かしらと思いました」との返事をいただいたが、もしかすると失くしたのはあのオブジェの羽根だったのだろうか?
綾子夫人の手紙実川さんは初対面の私にも親切に応対してくださり、画廊を始めた経緯や日本ではあまり取り扱われていなかったド・スタールやポリアコフなどの展覧会を行ったこと、駒井哲郎の版画がまだ売れない時期に1枚1万円で仕入れていたことなどを話された。そして、瀧口先生はまるで仙人のような生活を送っていたと語り、あの書斎をそのまま遺せなかったことを惜しまれた。また、デュシャンの「大ガラス」東京版が国有財産として東京大学教養学部美術博物館に東洋美術の考古物と一緒に陳列されていることが面白いと言い、見に行くことを勧められ、その場で「大ガラス」の制作に携わった東大の横山正助教授の助手の方に電話して見学の了解まで取り付けていただいた。翌日、駒場にある美術博物館へ行き「大ガラス」と初めて対面することができた。世界で三つしかない「大ガラス」のレプリカの一つが、この日本にあること自体特筆すべきだが、デュシャン夫人は瀧口修造と東野芳明による監修を条件に制作を許可したそうである。しかし、その完成を見ずに瀧口は逝ってしまったのも「ガラスの遅延」(「急速な鎮魂曲」美術手帖1968年12月号)と言うべきだろうか。
東京大学教養学部美術博物館パンフレット
「大ガラス」東京版(写真・清家克久)
実川さんは瀧口の本を探すなら友人でそうした情報に詳しい人がいると言って紹介されたのが詩人で朗唱家の天童大人さんだった。天童さんからは瀧口の本が見つかるたびに電話や手紙で頻繁に連絡をいただいた。そのおかげで一気に収集が進み、その中には「超現実主義と絵画」「黄よ。おまえはなぜ」「星は人の指ほどの―」「畧説虐殺された詩人」「自由な手抄」など容易に見つけることができないものも含まれていた。
アンドレ・ブルトン「超現実主義と絵画」訳厚生閣書店刊1930年
サム・フランシスとの詩画集「黄よ。おまえはなぜ」南画廊刊1964年
野中ユリとの詩画集「星は人の指ほどのー」私家版1965年
アポリネール「畧説虐殺された詩人」訳湯川書房刊1972年
マン・レイ素描エリュアール詩「自由な手・抄」訳GQ出版社刊1973年
同上このことが機縁となって交流が始まり、ご自身の活動である詩の朗唱や美術展評に関する資料などを送っていただいた。私には朗唱という言葉は聞き慣れないものだったが、聲の持つ始原の力を現代に蘇らせる行為として朗読との違いを強調されていたように思う。天童さんが初めて即興朗唱を試みたのは瀧口の三回忌を目前にした1981年6月26日、東京・六本木のストライプハウス美術館でのイベントにおける「アントナン・アルトー ― 瀧口修造へ ―」と題する作品であったという。(巒気通信創刊号1985年発行)瀧口とアルトーといえば第1巻のみ刊行され絶版となった「アントナン・アルトー全集」(現代思潮社刊1971年)の瀧口にしては珍しくエキセントリックな装幀と内容見本に書かれた「未知の人アントナン・アルトー」を思い出す。
「巒気通信創刊号」鹿火編集室刊1985年
「アントナン・アルトー全集第1巻」現代思潮社刊1971年
同上内容見本天童さんは1983年より吉増剛造さんらと共に北海道を回る「北ノ朗唱」を行っていたが、愛媛でも聲を発したいという希望に応えるため、私が仲介となり松山で出版を営む創風社の大早友章さんに主催を、後援を友人の江原哲治さんにお願いして1989年9月9日松山市のアオノホールにおいて詩人の白石かずこさんと天童さんを招き「詩の夜 SPIRIT VOICE」と題して四国初の朗唱のイベントが行われた。
「北ノ朗唱」ポスター1986年
「詩の夜SPIRIT VOICE」チラシ
同上新聞記事(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
●清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造「III-19」
デカルコマニー
※『瀧口修造の造形的実験』(2001年)No.205と対
Image size: 14.0x10.5cm
Sheet size: 25.1x17.5cm
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