「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
会期:2018年7月14日[土]~9月24日[月]

先日、東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展に行きました。初日のオープンと同時に行きましたが、受付にお客様が並ぶほどの盛況ぶり。

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私が知っているイサム・ノグチさんの作品は、札幌にあるモエレ沼公園や、香川県高松市牟礼町にあるイサム・ノグチ庭園美術館(2009年にときの忘れもが企画した香川の建築とうどんを楽しむツアーで訪問)にある彫刻群、和紙を使った柔らかい光の照明などです。
オペラシティでは、1930年代に生計を立てていたという肖像彫刻や、アジアを訪ねる際に経由したモスクワで斉白石から学び描いた墨絵、舞踏家・マーサ・グラハムの舞台のための装置のドローイングやその舞台映像、1950年の日本訪問時に京都の陶芸家・宇野仁絵のもとで手掛けた陶芸など、私の全く知らないイサム・ノグチの世界がほとんどでした。
個人的に興味深かったのは50年代に日本で制作されたテラコッタや陶で、古代を思わせるような、あるいはアフリカの民族が持っていそうな、ユニークなフォルムをした愛らしいものたち。それぞれが何かのキャラクターのように個性を持っています。
徐々に作風は少し変化しますが、一貫して有機的な曲線のものでした。
また、歴代の《AKARI》が展示されており、1953年の初代《AKARI》からタイプ違いのものが舞台上の役者のように配置されていて、その変遷や新たな試みなど一目でわかりました。

IMG_38092mのあかり(1985、和紙、竹、木)

谷口吉郎さんとコラボレーションした慶應義塾大学の萬來舎(通称:ノグチ・ルーム)の図面や写真も出品されていましたが、イサム・ノグチさんは1950年代に日本を訪れた際に丹下健三さん、谷口吉郎さんなどの建築家や、北大路魯山人さん、長谷川三郎さん、岡本太郎さんなど多くの芸術家たちとも交流されます。年表には記載されていませんが、現在ときの忘れもので展覧会中の内間安瑆さん俊子さん夫妻とも知り合い、生涯にわたり交流がありました。
私はこの夏はモエレ沼公園を再訪する予定ですが、ニューヨークのイサム・ノグチ庭園美術館も是非訪ねたい場所なので、次回ニューヨークのアートフェア出展のときの行きたい場所候補に挙げておこうと思います。

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おだちれいこ

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イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ
展覧会特設サイト
世界文化を横断しながら、彫刻はもとより、舞台装置や家具のデザイン、陶芸、庭や公園などのランドスケープ・デザインにいたるまで、多面的な活動を展開したイサム・ノグチ。
本展では抽象彫刻家として常に「身体」を意識しつづけたノグチが、やがてランドスケープという人間をとりまく環境へと向かい、ノグチ自身がいう「空間の彫刻」=庭、公園へと情熱を拡大していったことに注目します。
国内外から集めた貴重な作品や資料約80点で「異文化の融合」と「生活と環境の一体化」をめざしたノグチの活動の全容を紹介します。 (同館HPより)

◆同時開催
収蔵品展063 「うつろうかたち-寺田コレクションの抽象
2018年7月14日(土)-9月24日(月)
東京オペラシティ アートギャラリー ギャラリー3&4
オノサト・トシノブ「タペストリーA」(1977年、現代版画センターエディション)はじめ、難波田龍起、堂本尚郎、中西夏之、他

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*画廊亭主敬白
今夏必見の展覧会、「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」が東京オペラシティで始まりました。
1950年5月イサム・ノグチが19年ぶりに来日したとき、禅、茶道に関する書籍の翻訳を頼まれたのが内間安瑆先生でした。

イサム・ノグチ自身の回想によれば<1950年、戦後初めて私が日本を訪れた際、誰よりも二人の人物が私を助けてくれた。一人はアメリカで著名な芸術家となった長谷川三郎、そして もう一人が、この度のアメリカでの初個展で紹介されている内間安瑆である。
以後、二人は生涯にわたり交流を続けました。
今回のオペラ・シティでの展覧会カタログの年譜には内間安瑆の名は全く登場しませんが、「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日~11月9日開催)に再録されたイサム・ノグチの文章を二つ紹介します。

内間安瑆のために
イサム・ノグチ


 私たちは皆、二重の国民性という問題に直面している。私のように実際に両親の国籍が違うとか、二つの国に深い関わりがあるという場合だけではない。世界は、互いに親しい隣人となり、依存し合いながら、実に小さくなってきている。
国民性というような障壁は、現在を生きる私たちによって、益々なんとかして乗り越えられるべき歴史の名残のように思われる。芸術家として、または科学者として生きる者は、常に無限の限界を探りながら、余計なものを取り除いた真理を追究しなければならない。今日では、世界中のどのアーティストも、他のどんな場所へもアクセスでき、影響や刺激を求めることが可能だ。

 良いか悪いかは別問題として、私たちは、もはや孤立の心地よさを単純に楽しんではいられない。遠く見知らぬものは、どうということもないものに見える程に、なんと身近で現実のものとなってきていることだろうか。 そしてさまざまな歴史と場所にとり囲まれた芸術家にとって、自分自身の内面だけが、逃げ場所となる。どうしたら、真の自分自身でいられるのか!日本に影響された芸術家は、おそらく日本よりもアメリカにもっといる。 私たちのアートの世界は、今やジャングルと化している。それが、今日の私たちの世界なのだ。好むと好まざるとにかかわらず、その状況から、私たちはお互いに、自分自身と他のすべての人々の救済を模索しなければならない。そして最後に、地理的伝統ゆえではなく、その人間の時代と真の人格を反映し、それに忠実であるものが、本物として認められ残るであろう。時代は変わる、しかしそれは過去にいつもそうであったことと何か違いがあるだろうか? 
 内間は、まさにその好例だ。彼はアメリカ人ゆえに、より日本的なのだろうか? それとも日本人であるがゆえに、よりアメリカ的なのだろうか?あるいは彼は日本人ゆえに、より日本的なのだろうか、または、アメリカ人ゆえに、よりアメリカ的なのだろうか? 私は、この二つの世界の狭間にとらわれた、彼の内なる資質を推奨する。そして、この相互関係の問題にさらされ、その答えを追究している彼を高く評価する。
         東京 1955
*展覧会リーフレット『ANSEI UCHIMA』 (Associated American Artists/ ニューヨーク、1997年)所収(初出不明)

トリミング
1950年代、日本にて
左からイサム・ノグチ、内間安瑆、内間俊子

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 1950年、戦後初めて私が日本を訪れた際、誰よりも二人の人物が私を助けてくれた。一人はアメリカで著名な芸術家となった長谷川三郎、そして もう一人が、この度のアメリカでの初個展で紹介されている内間安瑆である。
 20年間の不在と忘却から、私にとって、子供時代をすごしたその地。特に、学ぶべきことが最も多く、私たちを魅了する感性の国、日本との接点を、どう再構築したらよいのかが問題であった。この二人の友人は、計り知れないほど、私の力になってくれた。
 彼らは共に、西洋の美術に造詣が深い画家だった。そして再構築の手段を捜し求めていたよそ者の私は、お互いの必要性と友情を通し、それを見いだすことになるのである。私達はお互いに助け合った。
 内間は、私が関心を持った、禅と茶道に関する書籍を、何冊か翻訳してくれた。やがて彼自身の関心は、長谷川がそうであったように、日本の芸術における新旧の様相の発見と、それを世界の潮流に結びつけることへ向けられた。内間の場合、それは版画を通してであった。
 彼の芸術が、完全に日本的でも西洋的でもないものとして表れることは、必然である。過去20年間を日本で過ごした彼にとって、それ以外、どう彼が彼自身でいられるというのであろうか?もはや誰が、純粋に、‘これだ、 あれだ’などと断言できるであろうか。
純粋とは国民性という境界を超えた、個々の人格のことである。
 生まれで言うならば、内間はアメリカ人である。しかし、これまでの彼の芸術家としての発展のすべては、版画ルネッサンスのリーダーの一人として認められた、日本でなされている。

*内間安瑆のアメリカでの初個展「ANSEI UCHIMA」 (Mi Chou Gallery/ ニューヨーク、1961年)展覧会リーフレット所収
英文和訳:内間洋子
1959年内間夫妻渡米
イサム・ノグチ(右)と内間夫妻
「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録より(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日~11月9日開催)


●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり


01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm


●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
49_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"イタリーよりのパッケージ Package from Italy"

1977年
コラージュ
イメージサイズ: 50.5x35.0cm
シートサイズ: 57.5×42.7cm
サインあり


FromtheProvence内間俊子 Toshiko UCHIMA
"From the Provence - Avignon-"

1977年
コラージュ
ボックスサイズ:36.0×28.3×3.5cm
サインあり


27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり

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『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

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◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
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