土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」
5.瀧口修造『ダリ』
瀧口修造『ダリ』
アトリヱ社 西洋美術文庫第24巻
18.8×13.0㎝(「四六変型判」)
本文29頁、附記1頁、図版目次5頁
カラー図版1点、モノクロ図版51点、
表紙:サルバドール・ダリ肖像写真
図1 瀧口修造『ダリ』
奥付の記載事項
西洋美術文庫第二十四巻 ダリ
昭和十四年一月五日印刷
昭和十四年一月十日発行
著者 瀧口修造
發行者 東京市牛込區矢來町一〇九 北原義雄
原色版印刷 東京市芝區西芝浦三ノ二 アサヒ印刷株式會社
表紙及寫眞版印刷 東京市小石川區柳町二四 近藤印刷所
本文印刷及製本 東京市牛込區西五軒町三四 福山印刷製本所
發賈所 東京市牛込區西五軒町三四 有信書房
發行所 東京市牛込區矢來町一〇九 アトリヱ社
電話牛込六四二一
振替東京六六〇〇二
第五囘配本
豫約定價八拾錢
本書と次回採り上げる予定の『ミロ』は、ともにアトリヱ社西洋美術文庫の1冊です。この文庫は第1期・第2期各24冊、計48冊がラインナップされ(図2)、福沢一郎『エルンスト』(図3)なども含まれています。また同じ判型・体裁で東洋美術文庫シリーズ全48巻もあります。ただし東洋美術文庫の表紙には作家の肖像が掲載されていないようです(図4)。
図2 西洋美術文庫シリーズ
図3 瀧口修造『ミロ』と福沢一郎『エルンスト』
図4 『牧谿』と『等伯』
本書『ダリ』の本文は、瀧口修造『シュルレアリスムのために(せりか書房、1968年。図5)に「謎の創造者―サルバドール・ダリ」として、再録されています(本文および図版6点)。言葉遣い・用語などに若干の加筆修正があります。
図5 『シュルレアリスムのために』
同じ西洋美術文庫の前出『ミロ』が、世界初のミロに関するモノグラフ(単行研究書)として著名なので、本書はその影に隠れてあまり注目されていないようです。しかし本書はその内容が当時の前衛絵画に大きな影響を与えただけでなく、瀧口自身にとっても、その後の人生の転機をもたらすこととなる、たいへん重要な一冊であると思います。この点をご説明するためにも、瀧口とダリとの関わりをざっと振り返っておきましょう。
ダリが1929年11月のパリのゴーマン画廊で個展を開催してから、あっという間にシュルレアリスムの絵画の中心的な画家の一人となったことは、改めて詳述するまでもありません。「偏執狂的・批判的方法」「可食的な美」などを提唱する一方、「象徴機能をもったオブジェ」を開拓するなど、オブジェの探求の面でも大きく貢献しました。30年代前半のシュルレアリスムを理論的に主導していたのはダリだったといっても過言ではないでしょう。
その一方、数々の奇行や尊大な言動がマスコミ受けを狙った商業主義であるとして顰蹙を買い、さらにはヒトラーやフランコ将軍を公然と支持したため、ブルトンたちから厳しく批判され、38年にはシュルレアリスムから除名されるに至りました。ブルトンがダリを、Salvador DaliのアナグラムAvida Dollars(「ドル亡者」の意)と呼んだのも有名です。
瀧口がダリについて言及したのは、1932年12月に東京府美術館で開催された「巴里・東京新興美術展」の展覧会評「フランス新興美術展を見る」(「新美術研究」1933年1月。初出未見。『コレクション瀧口修造』14巻所載)あたりが初めてでしょうか。このなかでは、展覧会全体に対しては「いかなる意味からも意味深いこころみであったことは、誰も一致する」と高く評価しながら、ダリの作品が招来されなかったのは「物足りない」と述べています。
30年代中ごろにはダリの論考を美術雑誌などに次々に訳出・紹介していきます。まず35年3月にはダリの「シュルレアリスムの実験に現れたる対象」を訳出します(「詩法」8号。図6。なお、この「対象」とは「オブジェ」の最初の訳語です)。続いて「サルバドール・ダリと非合理性の絵画」(「みづゑ」誌、1936年6月)、「ラファエル前派に現われた永遠の女性の亡霊的シュルレアリズム」(「エコルド東京」2号、1937年2月。図7)を、さらに「ナルシスの変貌」「サルバドール・ダリの形態学」(ともに「みづゑ」1938年6月)などが続きます。こうした一連のダリ紹介・訳出を総括する形でまとめられた単行書が本書です。
図6 「詩法」
図7 「エコルド東京」
1930年代後半には日本の前衛絵画では地平線や水平線が描かれた不思議な風景画を、多くの画家や画学生が制作しますが、彼らは多かれ少なかれ、シュルレアリスムの、とりわけダリの影響を受けていたと考えられます。その点で、本書が1930~40年代の日本の前衛絵画に及ぼした影響は極めて大きいといえるでしょう。
ただし瀧口本人はこうしたダリ風の絵画の流行については複雑な思いをもって見ていたようで、「影響について」(「美術」1939年11月)のなかで「伝染病的感染」とコメントしています。ダリの理論と作品が(さらにはその人物も含め)不可分のものであることを強調してきた瀧口からすると、理論の理解よりも画風の再現を優先するような制作は、不本意であるばかりか危険とすら思えたのでしょう。
ダリがシュルレアリスムから除名された後も、瀧口は「アメリカに渡ったダリ」(「セルパン」1939年7月。図8)や「ダリの近況」(「みづゑ」1939年7月。図9)を発表するなど、ダリに対する関心を持ち続け、ダリの動向を追っていました。
図8 「セルパン」
図9 「みづゑ」
戦後もダリとの関わりは続きます。主なトピックを挙げると、ダリ『異説・近代藝術論』(紀伊国屋書店、1958年。図10)の訳出(原題は『古いモダンアートのコキュたち』Les Cocus du Vieil Art Moderne)、日本初のダリ展(1964年。毎日新聞社主催、東京プリンスホテル1階特設ギャラリー。愛知県美術館、京都市美術館に巡回)の図録編集およびカタログテキスト「ダリ芸術を迎えて」の執筆(図10)、さらにはダリ著、マックス・ジェラール解説『ダリ』の翻訳(河出書房、1970年。図12)などです。
図10 『異説・近代藝術論』
図11 ダリ展図録(1964年)
図12 マックス・ジェラール解説『ダリ』
1958年のヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧した際には、出来たばかりの前出『異説・近代藝術論』を直接届けるためもあって、カダケスのダリ宅を訪問し、ダリ本人と面談し、ちょうどダリを訪ねてきたマルセル・デュシャンとも面談しています(「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第6回参照)。
マルセル・デュシャンに会ったのは、まったくの偶然でしたが、瀧口の後半生の柱の一つがデュシャン研究となったことを考えると、ダリとの関わりが瀧口の人生の大きな転回点の伏線となっていたのはまちがいありません。本書は日本におけるシュルレアリスム絵画受容を物語る歴史的な1冊であるばかりでなく、瀧口の後半生の展開の契機をもたらした、極めて重要な1冊ということができるでしょう。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅱ-27"
デカルコマニー
イメージサイズ:13.5×10.5cm
シートサイズ :18.4×12.3cm
※Ⅱ-26と対
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●年末年始ご案内
ときの忘れものの年内営業は12月29日(土)まで。2018年12月30日(日)~2019年1月7日(月)までは冬季休廊いたします。
ブログは年中無休、毎日更新しますのでお楽しみください。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

5.瀧口修造『ダリ』
瀧口修造『ダリ』
アトリヱ社 西洋美術文庫第24巻
18.8×13.0㎝(「四六変型判」)
本文29頁、附記1頁、図版目次5頁
カラー図版1点、モノクロ図版51点、
表紙:サルバドール・ダリ肖像写真
図1 瀧口修造『ダリ』奥付の記載事項
西洋美術文庫第二十四巻 ダリ
昭和十四年一月五日印刷
昭和十四年一月十日発行
著者 瀧口修造
發行者 東京市牛込區矢來町一〇九 北原義雄
原色版印刷 東京市芝區西芝浦三ノ二 アサヒ印刷株式會社
表紙及寫眞版印刷 東京市小石川區柳町二四 近藤印刷所
本文印刷及製本 東京市牛込區西五軒町三四 福山印刷製本所
發賈所 東京市牛込區西五軒町三四 有信書房
發行所 東京市牛込區矢來町一〇九 アトリヱ社
電話牛込六四二一
振替東京六六〇〇二
第五囘配本
豫約定價八拾錢
本書と次回採り上げる予定の『ミロ』は、ともにアトリヱ社西洋美術文庫の1冊です。この文庫は第1期・第2期各24冊、計48冊がラインナップされ(図2)、福沢一郎『エルンスト』(図3)なども含まれています。また同じ判型・体裁で東洋美術文庫シリーズ全48巻もあります。ただし東洋美術文庫の表紙には作家の肖像が掲載されていないようです(図4)。
図2 西洋美術文庫シリーズ
図3 瀧口修造『ミロ』と福沢一郎『エルンスト』
図4 『牧谿』と『等伯』本書『ダリ』の本文は、瀧口修造『シュルレアリスムのために(せりか書房、1968年。図5)に「謎の創造者―サルバドール・ダリ」として、再録されています(本文および図版6点)。言葉遣い・用語などに若干の加筆修正があります。
図5 『シュルレアリスムのために』同じ西洋美術文庫の前出『ミロ』が、世界初のミロに関するモノグラフ(単行研究書)として著名なので、本書はその影に隠れてあまり注目されていないようです。しかし本書はその内容が当時の前衛絵画に大きな影響を与えただけでなく、瀧口自身にとっても、その後の人生の転機をもたらすこととなる、たいへん重要な一冊であると思います。この点をご説明するためにも、瀧口とダリとの関わりをざっと振り返っておきましょう。
ダリが1929年11月のパリのゴーマン画廊で個展を開催してから、あっという間にシュルレアリスムの絵画の中心的な画家の一人となったことは、改めて詳述するまでもありません。「偏執狂的・批判的方法」「可食的な美」などを提唱する一方、「象徴機能をもったオブジェ」を開拓するなど、オブジェの探求の面でも大きく貢献しました。30年代前半のシュルレアリスムを理論的に主導していたのはダリだったといっても過言ではないでしょう。
その一方、数々の奇行や尊大な言動がマスコミ受けを狙った商業主義であるとして顰蹙を買い、さらにはヒトラーやフランコ将軍を公然と支持したため、ブルトンたちから厳しく批判され、38年にはシュルレアリスムから除名されるに至りました。ブルトンがダリを、Salvador DaliのアナグラムAvida Dollars(「ドル亡者」の意)と呼んだのも有名です。
瀧口がダリについて言及したのは、1932年12月に東京府美術館で開催された「巴里・東京新興美術展」の展覧会評「フランス新興美術展を見る」(「新美術研究」1933年1月。初出未見。『コレクション瀧口修造』14巻所載)あたりが初めてでしょうか。このなかでは、展覧会全体に対しては「いかなる意味からも意味深いこころみであったことは、誰も一致する」と高く評価しながら、ダリの作品が招来されなかったのは「物足りない」と述べています。
30年代中ごろにはダリの論考を美術雑誌などに次々に訳出・紹介していきます。まず35年3月にはダリの「シュルレアリスムの実験に現れたる対象」を訳出します(「詩法」8号。図6。なお、この「対象」とは「オブジェ」の最初の訳語です)。続いて「サルバドール・ダリと非合理性の絵画」(「みづゑ」誌、1936年6月)、「ラファエル前派に現われた永遠の女性の亡霊的シュルレアリズム」(「エコルド東京」2号、1937年2月。図7)を、さらに「ナルシスの変貌」「サルバドール・ダリの形態学」(ともに「みづゑ」1938年6月)などが続きます。こうした一連のダリ紹介・訳出を総括する形でまとめられた単行書が本書です。
図6 「詩法」
図7 「エコルド東京」1930年代後半には日本の前衛絵画では地平線や水平線が描かれた不思議な風景画を、多くの画家や画学生が制作しますが、彼らは多かれ少なかれ、シュルレアリスムの、とりわけダリの影響を受けていたと考えられます。その点で、本書が1930~40年代の日本の前衛絵画に及ぼした影響は極めて大きいといえるでしょう。
ただし瀧口本人はこうしたダリ風の絵画の流行については複雑な思いをもって見ていたようで、「影響について」(「美術」1939年11月)のなかで「伝染病的感染」とコメントしています。ダリの理論と作品が(さらにはその人物も含め)不可分のものであることを強調してきた瀧口からすると、理論の理解よりも画風の再現を優先するような制作は、不本意であるばかりか危険とすら思えたのでしょう。
ダリがシュルレアリスムから除名された後も、瀧口は「アメリカに渡ったダリ」(「セルパン」1939年7月。図8)や「ダリの近況」(「みづゑ」1939年7月。図9)を発表するなど、ダリに対する関心を持ち続け、ダリの動向を追っていました。
図8 「セルパン」
図9 「みづゑ」戦後もダリとの関わりは続きます。主なトピックを挙げると、ダリ『異説・近代藝術論』(紀伊国屋書店、1958年。図10)の訳出(原題は『古いモダンアートのコキュたち』Les Cocus du Vieil Art Moderne)、日本初のダリ展(1964年。毎日新聞社主催、東京プリンスホテル1階特設ギャラリー。愛知県美術館、京都市美術館に巡回)の図録編集およびカタログテキスト「ダリ芸術を迎えて」の執筆(図10)、さらにはダリ著、マックス・ジェラール解説『ダリ』の翻訳(河出書房、1970年。図12)などです。
図10 『異説・近代藝術論』
図11 ダリ展図録(1964年)
図12 マックス・ジェラール解説『ダリ』1958年のヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧した際には、出来たばかりの前出『異説・近代藝術論』を直接届けるためもあって、カダケスのダリ宅を訪問し、ダリ本人と面談し、ちょうどダリを訪ねてきたマルセル・デュシャンとも面談しています(「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第6回参照)。
マルセル・デュシャンに会ったのは、まったくの偶然でしたが、瀧口の後半生の柱の一つがデュシャン研究となったことを考えると、ダリとの関わりが瀧口の人生の大きな転回点の伏線となっていたのはまちがいありません。本書は日本におけるシュルレアリスム絵画受容を物語る歴史的な1冊であるばかりでなく、瀧口の後半生の展開の契機をもたらした、極めて重要な1冊ということができるでしょう。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI"Ⅱ-27"
デカルコマニー
イメージサイズ:13.5×10.5cm
シートサイズ :18.4×12.3cm
※Ⅱ-26と対
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●年末年始ご案内
ときの忘れものの年内営業は12月29日(土)まで。2018年12月30日(日)~2019年1月7日(月)までは冬季休廊いたします。
ブログは年中無休、毎日更新しますのでお楽しみください。
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