植田実のエッセイ「本との関係」第12回

「暮らしは建築を凌駕する」


 昨年、すなわち2018年に第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が開催された。日本館での展示テーマは「建築の民族誌」。現地には行けなかったがキュレーターの貝島桃代さんから送られてきたそのカタログの、ユニークで溌剌として、どこかダメ押し的なまでの明快さにすっかり魅せられた。
 本に同封されていた日本館での展示を撮影した絵葉書を見ると、例の2階の、16メートル角の4壁面と、1階のピロティの形と位置をそのまま上階に反映させている4つの壁柱とに、さまざまの絵柄図サイズの図面が架けられている。これまでの展示が、図面のほかに模型やオブジェまで持ちこんで、ぎっしり詰め合わせという面白さとは今回は一変して、あっさりとがらんとした空間が残されている。だがこれらの図面がすごい。それを、実際に展示室の図面の前に立ってしげしげと眺めまわす以上に、たぶん十全に教えてくれるのがこのカタログではないかと思うのだ。
 42作品が集められている。
 作品は大きなドローイング1枚のばあいもあれば数枚から成るものもある。またその表現があまりにも自由かつ発見・発明的で、図面という言葉では括れない。以下とりあえずドローイングと呼ぶことにするが、そこには何が描かれているのか。街や村や住まいである。生活者からの視点をあくまで貫いているのでそこに時間が関わり、また建築を抜け出たサインや行動だけから見える環境になっていたりする。
 そうしたドローイングが日本の街や村をはじめとして香港、ソウル、ヨハネスブルグ、グラスゴー、アーメダバード、キエフ、ベオグラード、リマ、アディスアベバ、バリ、アテネ、リバプール、北京、上海などの各地から送られてきている。それぞれの場所の観察記録で、その地球的拡がりと表現の個性的深さに圧倒される。貝島さんが巻頭エッセイで触れている数多くの読書体験のなかでのルドルフスキーの「建築家なしの建築」は、この「本との関係」の前々回、前回に、上の本がニューヨークで出版され、その邦訳を当時私が編集を担当していた「都市住宅」誌の別冊(1975年11月)として出した時代の雰囲気を伝えるために私も挙げていたのだが、「民族誌」には70年代と現在との接点もあると同時に大きな隔たりも感じる。つまり現実の街や建築を写すドローイングが、半世紀をかけて自立しはじめているのだ。
 カタログではそれを次のように見事に説明している。
 「ドローイングは、「現実世界」を反映するというよりも、むしろ独自の一貫性と継続性をもって「現実の内的世界」を構築しているといえるだろう。」(もうひとりのキュレーター、ロラン・シュトルダー+アンドレアス・カルパクチ「ドローイングはプランではない」より)
 「ドローイングはアートとしてあるだけでなく、工具や手段もしくはものの見方として、優れて本質的に「建築の民族誌」に適合するということである。(中略)建築はアートとしての建築として存在するのではなく、アートの宿主となるのであり、(後略)」(もうひとりのキュレーター、井関悠「建築とアートのあいだに」より)
 そしてジャケットに書かれた案内の第1行は、さらに端的に言う。
 「暮らしは建築を凌駕する。」と。
 どんなドローイングがあるかというと、
 「わたしの家、階段 その2」でDo Ho Suhは、生まれたソウルから始まってニューヨーク、ベルリンなどでの住まいを経て現在ロンドンに落ち着くまでの55年の記録として、住んだ家(の図面)を年代順に垂直に連らね、それを赤い階段で束ねた。高いタワー状の、あるいは水中に長々と漂う海藻のような家が可視化されている。
 「奔放な標識、コード化された縄張り」でFlorian Goldmannはアテネ市中で見かける悪戯書きのような、しかし実はあるグループの縄張り圏内の主張やサッカーファンの声明だったり、またそれを否定するバッテンや取り消し線がそこに重ねられたりの動きが日々観察できる。その生きた地図が広範囲につくられて、一般の地図ではまるで見えない街を現出する。
 建築が生涯的な時間のなかで積層されたり、広い市域全体に広がるから「暮らしは建築を凌駕する」だけではない。
 例えば「W邸」では、須藤由希子が何世代にもわたって住まわれた1軒の家と庭の佇まいを細密画のように描いただけのように見えるのに、やはり「建築を凌駕する」ものの存在が迫ってくる。
 このように42作品を見ていくと、ひとつとして同じものがない。カタログはB5型に近いサイズで200ページ、ソフトカバーの、ごくハンディな本である。大きな図面などはかなりコンパクトになり、その細部を見るには拡大鏡が欠かせない。それをはじめから見越したように、帯には貝島さん、シュトルダーさん、井関さんのキュレーター3人が手に拡大鏡を持って、これはなに? これも建築? Is this a Plan, or is it a Drawing? と、つぶやいている。各作品は4ページで、後半2ページには全図、そのなかからめぼしい部分をピックアップし、
拡大鏡を通して、つまり円形枠のなかにいくつか取り出して前半2ページに紹介している。じつにうまい編集だ。

私はこの案内に従って、まず概要と拡大された円形ドローイングを眺め(円に沿ってA(建築)さんとE(民族誌)さんとの当意即妙の会話が楽しい)、次いでこの拡大ポイントを全図の中から探しだすことにしたが、思ったより大変だ。だがこの探索なくして全体図を細かく見ることはできなかっただろう。「暮らしは建築を凌駕する」を実感することもなかっただろう。ルドルフスキー以降、街と建築の観察とドローイングはさらに精度をきわめ、大規模になってもきている。だがこのカタログのような転換に出合ったのは初めてだった。「本は展示空間を凌駕する」可能性があると知った。
うえだ まこと
20190423162759_00001「建築の民族誌」表紙、裏表紙
(TOTO出版 2018年)

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「W House(W邸)」須藤由希子
Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo
撮影:岡野圭

20190423162233_0000320190423181722_00001
「My Home/s:Staircases - 2(わたしの家、階段 その2)」Do Ho Suh
Courtesy of the Artist and Lehmann Maupin, New York and Hong Kong, and Victoria Miro, London and Venice

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「Flexible Signposts to Coded Territories(奔放な標識、コード化された縄張り)」Florian Goldmann

※図版はすべて「建築の民族誌」TOTO出版2018年より
著者=貝島桃代,ロラン・シュトルダー,井関 悠
発行年月=2018年5月
体裁=B5判変型(168×210mm)、並製、200頁
ISBN=978-4-88706-372-3
ブックデザイン=橋詰宗
発行所=TOTO出版
©2018 Momoyo Kaijima, Laurent Stalder and Yu Iseki

今回この書籍を取り上げるにあたり、TOTO株式会社 文化推進部に許可をいただきました。

●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
isozaki_villa-01磯崎新 Arata ISOZAKI
《ヴィラ1》
1977年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:62.0x47.0cm
シートサイズ:65.0x50.0cm
サインあり  Ed. 100

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●カタログのご案内
1552636116154『第28回 瑛九展』図録
「第28回 瑛九展」
会期=2019年3月27日(水)~31日(日)
会場=ART BASEL HONG KONG 2019
発行:ときの忘れもの 2019年
サイズ:25.7×17.2㎝
ページ数:36P
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
図版:約44点掲載
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:Polly Barton、勝見美生(ときの忘れもの)
この個展での出品作品17点のほか、ときの忘れもので開催してきた瑛九の企画展のアーカイブ27点を収録。日英2か国語併記。


●ときの忘れものは4月28日(日)から5月6日(月)まで休廊します。連休中のお問い合わせには5月7日(火)以降にお返事いたします。

●『光嶋裕介展~光のランドスケープ
会期:2019年4月20日(土)~5月19日(日)
会場:アンフォルメル中川村美術館
[開館時間]火・木・土・日曜日 祝日 9時~16時(連休中は全日開館しています

●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。