中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第10回
吉田 博
沖縄・名護出身の木版画家、真栄田義次と出会ったのは札幌でのことであった。大学生であった私がよく訪問していた画廊+版画工房に真栄田はふらりと顔をだした。何度か出会ううちに親しくなり、さまざまな話をうかがった。某テレビ番組のヒーローものに登場する怪獣の着ぐるみの制作を行っていたこと、その製造方法で特許をとったこと、木版画は吉田遠志のところで習得したことなどだった。吉田遠志の父親である吉田博が美しい木版画を制作し、それが海外、とくにアメリカで人気があって、息子の遠志もそれを継ぐかたちで大判の木版画を制作している、その工房で働いていたのだとのことだった。その時には吉田親子が版画制作していた場所のそばに住むことになろうなど知る由もなく、遠志の弟の穂高も版画家であることに驚き、山登りのサークルにはいって北海道の山を登っていた私には「穂高」という名前を息子につけた父親の思いを想像してみるくらいであったように思う。親子3人の作品のなかでは穂高の作品が当時の私にはより現代的にみえ、穂高の作品をギャラリーでの展覧会でかろうじて見ているくらいなのであった。
私が落合に越してきた際、地元の方と話していると、昔話として吉田博のことが話題になることがあった。大きな洋館であったそうで印象に残るほどであったようだ。GHQ占領下の東京において吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになり、訪問する兵士やその家族の車がときには列をなしてしまうほどであったと聞いた。昭和20(1945)年秋にはマッカサー元帥夫人もアトリエを訪問、その人気に拍車をかけた。ついには米軍将校クラブで版画講習会を開催、参加者を募ってバスでアトリエ見学会が開催されるなど大人気であったという。
「穂高山」
吉田博は明治9(1876)年福岡県久留米市の生まれ。京都で洋画を学び、三宅克己の影響で水彩画を描き始める。初めての渡米は明治32(1899)年のこと。中川八郎とともに渡米、デトロイト美術館とボストン美術館での展覧会に参加している。その後、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを歴訪した。明治35(1902)年、吉田の発案により太平洋画会を満谷国四郎や中川八郎とともに結成した。吉田は早くから風景を題材にした作品を描いたが、特に山岳や建物をモチーフにすることを好んだ。従い、息子の名前に穂高を選んだのだろう。大正9(1920)年、新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を始めた。透明感のある色彩と光の表現が美しい作品である。
「牧場の午後」
「帆船」
吉田は大正12(1923)年の関東大震災の際に版木と木版画をすべて焼失している。直後の3度目の渡米の際には初めて木版画作品を持参、好評を博した。欧州を歴訪ののち大正14(1925)年に帰国したが、自ら版元になって「アメリカ・シリーズ」「ヨーロッパ・シリーズ」の出版を開始したのだった。そして昭和9(1934)年、下落合2丁目667番地に洋館を建築し越してきた。
今回の散歩の出発点は西武新宿線の下落合駅である。北口改札をでて、すぐに右に歩くと妙正寺川にでる。ここには西橋がかかっている。橋を渡って左にゆくと落合中通りにでる。目の前には新目白通りがある。新目白通りを渡り、そのまま坂を登れば聖母病院にいたる道であるが、その脇にある狭い坂道(西坂)を登る。この道の上には旧徳川男爵家の屋敷があったが、今は学生寮に変わった。坂を登りきると三差路になっていて右の道に入る。すぐに左手に「かば公園」がある。道なりに歩くと台地上の尾根を行くことになる。右手に聖母病院に入る道の手前が吉田博邸、版画工房のあった場所である。ここで吉田の代表的な木版画は制作され、息子たちである遠志や穂高が成長し、また息子たちも版画を制作するようになるのだった。吉田邸は大きな洋館として記憶されているが、そばには聖母病院、佐伯祐三アトリエ記念館があるといった立地だ。
〇印の場所が吉田博邸のあった場所
吉田博邸のあった場所の現在の様子
今も残る旧番地表示。翠ヶ丘という地名が。
「ナイアガラ瀑布」
「日本南アルプス 駒ヶ岳山頂より」
「招魂社付近」
「養沢 西の橋」
吉田博は昭和22(1947)年、太平洋画会会長に就任。第三回日展の審査員も務めたが昭和25(1950)年4月5日に74歳で死去した。油絵も魅力的であるが、やはり水彩画や木版画の透明感は格別である。戦後の占領期に日本に滞在したアメリカ人たちから人気があったのも頷くことができる。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●本日のお勧め作品は天津恵です。
天津恵 Kei AMATSU
《太陽の詩》
シルクスクリーン
イメージサイズ:32.5x39.3cm
シートサイズ:45.0x50.7cm
P.P. サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものでは「第311回企画◆葉栗剛展 」を開催します。
会期:2019年5月24日[金]―6月8日[土]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは毎年アジアやアメリカのアートフェアに出展し、木彫作家・葉栗剛の作品をメインに出品しています。今回は、2014年以来二回目となる個展を開催し、国内未公開作品11点をご覧いただきます。
初日5月24日[金]17時よりオープニングを開催します。
●『DEAR JONAS MEKAS 僕たちのすきなジョナス・メカス』
会期:2019年5月11日(土)~6月13日(木)
会場:OUR FAVOURITE SHOP 内 OFS gallery
〒108-0072 東京都港区白金5-12-21 TEL.03-6677-0575
OPEN 12:00-19:00(ただし展示最終日は17:00まで)
CLOSE: 月・火(祝日を除く)
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
吉田 博
沖縄・名護出身の木版画家、真栄田義次と出会ったのは札幌でのことであった。大学生であった私がよく訪問していた画廊+版画工房に真栄田はふらりと顔をだした。何度か出会ううちに親しくなり、さまざまな話をうかがった。某テレビ番組のヒーローものに登場する怪獣の着ぐるみの制作を行っていたこと、その製造方法で特許をとったこと、木版画は吉田遠志のところで習得したことなどだった。吉田遠志の父親である吉田博が美しい木版画を制作し、それが海外、とくにアメリカで人気があって、息子の遠志もそれを継ぐかたちで大判の木版画を制作している、その工房で働いていたのだとのことだった。その時には吉田親子が版画制作していた場所のそばに住むことになろうなど知る由もなく、遠志の弟の穂高も版画家であることに驚き、山登りのサークルにはいって北海道の山を登っていた私には「穂高」という名前を息子につけた父親の思いを想像してみるくらいであったように思う。親子3人の作品のなかでは穂高の作品が当時の私にはより現代的にみえ、穂高の作品をギャラリーでの展覧会でかろうじて見ているくらいなのであった。
私が落合に越してきた際、地元の方と話していると、昔話として吉田博のことが話題になることがあった。大きな洋館であったそうで印象に残るほどであったようだ。GHQ占領下の東京において吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになり、訪問する兵士やその家族の車がときには列をなしてしまうほどであったと聞いた。昭和20(1945)年秋にはマッカサー元帥夫人もアトリエを訪問、その人気に拍車をかけた。ついには米軍将校クラブで版画講習会を開催、参加者を募ってバスでアトリエ見学会が開催されるなど大人気であったという。
「穂高山」吉田博は明治9(1876)年福岡県久留米市の生まれ。京都で洋画を学び、三宅克己の影響で水彩画を描き始める。初めての渡米は明治32(1899)年のこと。中川八郎とともに渡米、デトロイト美術館とボストン美術館での展覧会に参加している。その後、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを歴訪した。明治35(1902)年、吉田の発案により太平洋画会を満谷国四郎や中川八郎とともに結成した。吉田は早くから風景を題材にした作品を描いたが、特に山岳や建物をモチーフにすることを好んだ。従い、息子の名前に穂高を選んだのだろう。大正9(1920)年、新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を始めた。透明感のある色彩と光の表現が美しい作品である。
「牧場の午後」
「帆船」吉田は大正12(1923)年の関東大震災の際に版木と木版画をすべて焼失している。直後の3度目の渡米の際には初めて木版画作品を持参、好評を博した。欧州を歴訪ののち大正14(1925)年に帰国したが、自ら版元になって「アメリカ・シリーズ」「ヨーロッパ・シリーズ」の出版を開始したのだった。そして昭和9(1934)年、下落合2丁目667番地に洋館を建築し越してきた。
今回の散歩の出発点は西武新宿線の下落合駅である。北口改札をでて、すぐに右に歩くと妙正寺川にでる。ここには西橋がかかっている。橋を渡って左にゆくと落合中通りにでる。目の前には新目白通りがある。新目白通りを渡り、そのまま坂を登れば聖母病院にいたる道であるが、その脇にある狭い坂道(西坂)を登る。この道の上には旧徳川男爵家の屋敷があったが、今は学生寮に変わった。坂を登りきると三差路になっていて右の道に入る。すぐに左手に「かば公園」がある。道なりに歩くと台地上の尾根を行くことになる。右手に聖母病院に入る道の手前が吉田博邸、版画工房のあった場所である。ここで吉田の代表的な木版画は制作され、息子たちである遠志や穂高が成長し、また息子たちも版画を制作するようになるのだった。吉田邸は大きな洋館として記憶されているが、そばには聖母病院、佐伯祐三アトリエ記念館があるといった立地だ。
〇印の場所が吉田博邸のあった場所
吉田博邸のあった場所の現在の様子
今も残る旧番地表示。翠ヶ丘という地名が。
「ナイアガラ瀑布」
「日本南アルプス 駒ヶ岳山頂より」
「招魂社付近」
「養沢 西の橋」吉田博は昭和22(1947)年、太平洋画会会長に就任。第三回日展の審査員も務めたが昭和25(1950)年4月5日に74歳で死去した。油絵も魅力的であるが、やはり水彩画や木版画の透明感は格別である。戦後の占領期に日本に滞在したアメリカ人たちから人気があったのも頷くことができる。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●本日のお勧め作品は天津恵です。
天津恵 Kei AMATSU《太陽の詩》
シルクスクリーン
イメージサイズ:32.5x39.3cm
シートサイズ:45.0x50.7cm
P.P. サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものでは「第311回企画◆葉栗剛展 」を開催します。
会期:2019年5月24日[金]―6月8日[土]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは毎年アジアやアメリカのアートフェアに出展し、木彫作家・葉栗剛の作品をメインに出品しています。今回は、2014年以来二回目となる個展を開催し、国内未公開作品11点をご覧いただきます。
初日5月24日[金]17時よりオープニングを開催します。
●『DEAR JONAS MEKAS 僕たちのすきなジョナス・メカス』
会期:2019年5月11日(土)~6月13日(木)
会場:OUR FAVOURITE SHOP 内 OFS gallery
〒108-0072 東京都港区白金5-12-21 TEL.03-6677-0575
OPEN 12:00-19:00(ただし展示最終日は17:00まで)
CLOSE: 月・火(祝日を除く)
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。
*日・月・祝日は休廊。
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