王聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」第2回
「神奈川県立近代美術館のレガシー」
2019年4月20日から5月6日まで鎌倉文華館鶴岡ミュージアムで「新しい時代のはじまり」展が開催された。鎌倉文華館鶴岡ミュージアムは、2016年1月に惜しまれて閉館した坂倉準三設計の神奈川県立近代美術館鎌倉館を継承して生まれ変わった文化施設であるが、主にその改修工事の内容を伝えるお披露目展であった。この建築を思うとき、先人たちが日本の公立美術館を創り育んできた努めに、建築の美しさに対する敬意と同じくらいのそれを覚えるのは、私を含め多くの美術ファン、建築ファンも同じだと嬉しい。
1、日本の公立近代美術館をリードしてきた神奈川県立近代美術館
1951年11月、戦後の混乱と再生の時代に日本初の公立近代美術館として神奈川県立近代美術館は開館した。当時は収蔵作品がなく、借用作品による企画展「セザンヌ・ルノワール展」、「藤川勇造展」に始まり、以後、萬鉄五郎、松本竣介、麻生三郎、福沢一郎、村井正誠、山口薫、ゴヤ、クリンガー、シャガールなどを展示する精力的な展覧会活動を通じて次第にコレクションが形成された。鎌倉館では2016年1月の活動終了までに525の展覧会が催され、現在の所蔵作品数は1984年大髙正人設計の鎌倉別館と2003年佐藤総合計画設計の葉山館併せて約14000件にのぼる。
ところで、国内初の公立近代美術館の開館は、文展の出品作品を基盤に1952年に開館した国立近代美術館よりも1年だけ早かった。1949年に有島生馬、安井曾太郎ら神奈川の画家や評論家から内山岩太郎県知事に美術館建設を望む声が寄せられたことが発端ではあるが、近代美術館を望む声は戦後に始まったわけではなく明治初期から上がっていた。特に1889年(明治22)以降、さまざまな美術団体が生まれ、定期的に展覧会を開催するようになると、同時代美術を扱う美術館の必要性が高まり、展覧会の内容・展示方法にも既に目が向けられ始めていたことが、明治期の岡倉天心や高村光太郎の論評から読み取れる。1926年(大正15)には貸し陳列室を主にした東京府美術館が開館し、主に公募団体の展示施設として親しまれた。個人蒐集家の収集品から発展するケースの多い私立美術館に対し、近代の始まりや近代化を進めた頃の日本では、公立美術館は同時代の美術、あるいは同時代性の展覧会を開催する施設の要素が強かった。坂倉準三は神奈川県立近代美術館を「現代美術館」と呼び、過去の秀でたものを歴史的に骨董品のように陳列するのではなく、同時代の人との関係が生まれる美術館を目指したことは最後に述べたい。
神奈川県立近代美術館の誕生以降、美術館建設は主要都市から地方へ広がり、60年代後半~70年代前半に明治100年や県政100年を記念して各地で県立美術館が開館、80年代には多くの市立美術館も開館した。日本の公立美術館では、館設立の決定後に作品収集を始めることが多く、歴史的評価が定まった目玉作品の購入を目指すと同時に、戦後美術の作品を充実させ近現代美術の系統的な収集を図るのが傾向となった。収集する過程で、展示については企画展、特に自主企画の展覧会活動が重視されたことは、神奈川県立近代美術館鎌倉館が貫いたひとつのモデルでもあり、地域の公立美術館でも所蔵作品や運営方針と絡めた特色ある企画が目指され、多くの作家の発掘作業や資料蓄積が進んだ。景気がよかった70年代後半から80年代前半にかけて美術館の開館ピークを迎え、それらの美術館建築の改修が近年の美術館建設ラッシュを招いていることは因果とも考えられる。
2、改修工事で蘇った色彩と中庭
さて、本題の「新しい時代のはじまり」展は1950年に山下寿郎、坂倉準三、谷口吉郎、前川國男、吉村順三が参加した指名競技設計の坂倉案にはじまる。鉄骨造とし、外壁にアスベスト板(フレキシブルボード)と大谷石を用いた乾式工法は、コンクリートを用いた他の案に対し、戦後の物資不足に対応する経済的な案だったという。また、当時の先進諸国ではモダン建築が地域性とどのように融合するかが問われいた頃でもあり、敷地の樹木や池との調和、特に中庭や平家池のある南側ピロティなどで、モダンの構造と表現の中に伝統的な日本の要素を取り入れた独特の空間の創出が試された。


次に、鎌倉館の展覧会のあゆみの紹介の後、改修工事の内容が紹介されていた。入館前、「外壁が白くなった、一部の大谷石が不自然、ところどころコルビュジエカラーに変わった、中庭の様子がへん」というのが改修後初見の斜め読みだった。なぜなら私の中のカマキンは、線は濃いめの無彩色、面はちょっと古びたクリーム色と鈍色で、中庭はスレート敷きが馴染みだったからだ。改修工事の年表によれば、1966年の新館と付属棟の増築の他に、屋根、天井、壁面ケース等の大規模改修が1969年と1991年に2回行われ、今回の改修では坂倉準三が存命だった1966年頃に戻すことが目標とされたようだ。例えば、H型の鉄骨柱は、1991年の改修でグレーに塗られていたが、今回の改修で元来の配色であるフランジ外側が濃茶、内側が濃緑、西側階段の独立柱はフランジ外側が濃茶、内側が真紅に蘇った。前回拙稿のエッセイでコルビュジエ設計のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸の壁面が複数の単色で塗られていたことを一言だけ書いたが、建築に理論的な絵画のように色彩を取り入れたコルビュジエ譲りの着彩、しかも1本の部材でのその塗り分けは新鮮な発見だった。これは表現の自由だろうか、効果だろうか。

また、中庭は坂倉準三が鶴岡八幡宮の境内地に建てられることを強く意識していたとされ、当初は玉砂利と敷石があったが、1991年の改修でスレート敷に変わっていたのだという。中庭周りに全面壁面があるのは、開館当時に映写室を作る予算はなかったが、もし中庭に映写幕をたらせば屋外で映像を見ることも可能と意図されたためである。今回の改修では、スレート敷きを玉砂利に戻すこととバリアフリーを両立するため、玉砂利をセメントで固めた洗い出し仕上げとなった。しかし、足裏の感触、足音を鑑みると、当時坂倉準三が境内を意識したであろう魂が蘇ったかどうかはやや疑わしい。

3、坂倉準三が美術館にこめた思い
坂倉準三がパリのル・コルビュジエのアトリエにいた頃は、前回拙稿のエッセイの時代から約10年後の1931~1936年、コルビュジエが共同住宅や都市計画を多く手がけ、「輝く都市」を刊行した頃だった。坂倉準三が神奈川県立近代美術館にプレファブの工業素材であるアスベスト板を選んだ点から、量産の材料を単体の住戸に採用し、住戸ユニットが都市に展開されゆく師譲りの感覚や、独立後にパリ万博日本館での仮設パビリオンを設計した経験が生きていたのではないかと想像する。また、大学で建築ではなく美術史を専攻し、当時最先端のアメリカの美術館の動向にも明るかった坂倉準三は、美術館の格式や歴史性よりも「現代」の社会性を重視し、復興とともに手に入りやすくなるはずの身近な材料を使い、人々に親しまれ、「現代」と通い合う美術館を目指していたことが伺い知れる。そんな坂倉準三が、神奈川県立近代美術館を「鎌倉の現代美術館」と呼び、「藝術新潮」1951年3月号に記したテキストを引用したい。「新しい現代美術館に於ては陳列されているものはたとえ昔のものであつてもすべて現代の中に生きているもの、現代の基盤の上にあるものである。(略)ある意味では、過去の客観的な価値などというものは存在せず、現代人が見るその主観的な価値において美術品を見せるわけで、過去の伝統的ないいものも、現代これからのその国の文化、あるいは国際的な文化の上に、いかに貢献するかという見地から見せるのが、現代美術館の役割だと考えられる。(略)兎に角この美術館が我が国の現代美術館の一つのモデルとして誕生し、(略)ひとり神奈川県ばかりではなく、さらに日本の各地方でそういう機運の起ることも考えられる。その一つの先駆ともなれば、この神奈川県美術館の役割は十分に果たされることになるであろう。」
今、日本の美術館はどうだろうか。令和の新しい時代に生まれ変わった「神奈川県立近代美術館」の精神は濁らず受け継がれているだろうか。昨年の1日あたりの動員数の高かった美術館の展覧会は、順に「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」、「至上の印象派 ピュールレ・コレクション」、「ルーヴル美術館展 肖像藝術-人は人をどう表現してきたか」、「没後50年 藤田嗣治展」だったわけだが、これら展示された過去の作品群が、観衆にただ昔の良いものとして受動的に享受されるのではなく、現代と通い合う同時代性の中で能動的に享受されたことを願ってやまない。
(おう せいび)
■王 聖美 Seibi OH
1981年神戸市生まれ。京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。国内、中国、シンガポールで図書館など教育文化施設の設計職を経て、2018年より建築倉庫ミュージアムに勤務。主な企画に「Wandering Wonder -ここが学ぶ場-」展、「あまねくひらかれる時代の非パブリック」展、「Nomadic Rhapsody-”超移動社会”がもたらす新たな変容-」展、「UNBUILT:Lost or Suspended」展。
●今日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
ル・コルビュジエ
"開いた手"
1963
リトグラフ
Sheet size: 65.0x50.0cm
版上サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
「神奈川県立近代美術館のレガシー」
2019年4月20日から5月6日まで鎌倉文華館鶴岡ミュージアムで「新しい時代のはじまり」展が開催された。鎌倉文華館鶴岡ミュージアムは、2016年1月に惜しまれて閉館した坂倉準三設計の神奈川県立近代美術館鎌倉館を継承して生まれ変わった文化施設であるが、主にその改修工事の内容を伝えるお披露目展であった。この建築を思うとき、先人たちが日本の公立美術館を創り育んできた努めに、建築の美しさに対する敬意と同じくらいのそれを覚えるのは、私を含め多くの美術ファン、建築ファンも同じだと嬉しい。
1、日本の公立近代美術館をリードしてきた神奈川県立近代美術館
1951年11月、戦後の混乱と再生の時代に日本初の公立近代美術館として神奈川県立近代美術館は開館した。当時は収蔵作品がなく、借用作品による企画展「セザンヌ・ルノワール展」、「藤川勇造展」に始まり、以後、萬鉄五郎、松本竣介、麻生三郎、福沢一郎、村井正誠、山口薫、ゴヤ、クリンガー、シャガールなどを展示する精力的な展覧会活動を通じて次第にコレクションが形成された。鎌倉館では2016年1月の活動終了までに525の展覧会が催され、現在の所蔵作品数は1984年大髙正人設計の鎌倉別館と2003年佐藤総合計画設計の葉山館併せて約14000件にのぼる。
ところで、国内初の公立近代美術館の開館は、文展の出品作品を基盤に1952年に開館した国立近代美術館よりも1年だけ早かった。1949年に有島生馬、安井曾太郎ら神奈川の画家や評論家から内山岩太郎県知事に美術館建設を望む声が寄せられたことが発端ではあるが、近代美術館を望む声は戦後に始まったわけではなく明治初期から上がっていた。特に1889年(明治22)以降、さまざまな美術団体が生まれ、定期的に展覧会を開催するようになると、同時代美術を扱う美術館の必要性が高まり、展覧会の内容・展示方法にも既に目が向けられ始めていたことが、明治期の岡倉天心や高村光太郎の論評から読み取れる。1926年(大正15)には貸し陳列室を主にした東京府美術館が開館し、主に公募団体の展示施設として親しまれた。個人蒐集家の収集品から発展するケースの多い私立美術館に対し、近代の始まりや近代化を進めた頃の日本では、公立美術館は同時代の美術、あるいは同時代性の展覧会を開催する施設の要素が強かった。坂倉準三は神奈川県立近代美術館を「現代美術館」と呼び、過去の秀でたものを歴史的に骨董品のように陳列するのではなく、同時代の人との関係が生まれる美術館を目指したことは最後に述べたい。
神奈川県立近代美術館の誕生以降、美術館建設は主要都市から地方へ広がり、60年代後半~70年代前半に明治100年や県政100年を記念して各地で県立美術館が開館、80年代には多くの市立美術館も開館した。日本の公立美術館では、館設立の決定後に作品収集を始めることが多く、歴史的評価が定まった目玉作品の購入を目指すと同時に、戦後美術の作品を充実させ近現代美術の系統的な収集を図るのが傾向となった。収集する過程で、展示については企画展、特に自主企画の展覧会活動が重視されたことは、神奈川県立近代美術館鎌倉館が貫いたひとつのモデルでもあり、地域の公立美術館でも所蔵作品や運営方針と絡めた特色ある企画が目指され、多くの作家の発掘作業や資料蓄積が進んだ。景気がよかった70年代後半から80年代前半にかけて美術館の開館ピークを迎え、それらの美術館建築の改修が近年の美術館建設ラッシュを招いていることは因果とも考えられる。
2、改修工事で蘇った色彩と中庭
さて、本題の「新しい時代のはじまり」展は1950年に山下寿郎、坂倉準三、谷口吉郎、前川國男、吉村順三が参加した指名競技設計の坂倉案にはじまる。鉄骨造とし、外壁にアスベスト板(フレキシブルボード)と大谷石を用いた乾式工法は、コンクリートを用いた他の案に対し、戦後の物資不足に対応する経済的な案だったという。また、当時の先進諸国ではモダン建築が地域性とどのように融合するかが問われいた頃でもあり、敷地の樹木や池との調和、特に中庭や平家池のある南側ピロティなどで、モダンの構造と表現の中に伝統的な日本の要素を取り入れた独特の空間の創出が試された。


次に、鎌倉館の展覧会のあゆみの紹介の後、改修工事の内容が紹介されていた。入館前、「外壁が白くなった、一部の大谷石が不自然、ところどころコルビュジエカラーに変わった、中庭の様子がへん」というのが改修後初見の斜め読みだった。なぜなら私の中のカマキンは、線は濃いめの無彩色、面はちょっと古びたクリーム色と鈍色で、中庭はスレート敷きが馴染みだったからだ。改修工事の年表によれば、1966年の新館と付属棟の増築の他に、屋根、天井、壁面ケース等の大規模改修が1969年と1991年に2回行われ、今回の改修では坂倉準三が存命だった1966年頃に戻すことが目標とされたようだ。例えば、H型の鉄骨柱は、1991年の改修でグレーに塗られていたが、今回の改修で元来の配色であるフランジ外側が濃茶、内側が濃緑、西側階段の独立柱はフランジ外側が濃茶、内側が真紅に蘇った。前回拙稿のエッセイでコルビュジエ設計のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸の壁面が複数の単色で塗られていたことを一言だけ書いたが、建築に理論的な絵画のように色彩を取り入れたコルビュジエ譲りの着彩、しかも1本の部材でのその塗り分けは新鮮な発見だった。これは表現の自由だろうか、効果だろうか。

また、中庭は坂倉準三が鶴岡八幡宮の境内地に建てられることを強く意識していたとされ、当初は玉砂利と敷石があったが、1991年の改修でスレート敷に変わっていたのだという。中庭周りに全面壁面があるのは、開館当時に映写室を作る予算はなかったが、もし中庭に映写幕をたらせば屋外で映像を見ることも可能と意図されたためである。今回の改修では、スレート敷きを玉砂利に戻すこととバリアフリーを両立するため、玉砂利をセメントで固めた洗い出し仕上げとなった。しかし、足裏の感触、足音を鑑みると、当時坂倉準三が境内を意識したであろう魂が蘇ったかどうかはやや疑わしい。

3、坂倉準三が美術館にこめた思い
坂倉準三がパリのル・コルビュジエのアトリエにいた頃は、前回拙稿のエッセイの時代から約10年後の1931~1936年、コルビュジエが共同住宅や都市計画を多く手がけ、「輝く都市」を刊行した頃だった。坂倉準三が神奈川県立近代美術館にプレファブの工業素材であるアスベスト板を選んだ点から、量産の材料を単体の住戸に採用し、住戸ユニットが都市に展開されゆく師譲りの感覚や、独立後にパリ万博日本館での仮設パビリオンを設計した経験が生きていたのではないかと想像する。また、大学で建築ではなく美術史を専攻し、当時最先端のアメリカの美術館の動向にも明るかった坂倉準三は、美術館の格式や歴史性よりも「現代」の社会性を重視し、復興とともに手に入りやすくなるはずの身近な材料を使い、人々に親しまれ、「現代」と通い合う美術館を目指していたことが伺い知れる。そんな坂倉準三が、神奈川県立近代美術館を「鎌倉の現代美術館」と呼び、「藝術新潮」1951年3月号に記したテキストを引用したい。「新しい現代美術館に於ては陳列されているものはたとえ昔のものであつてもすべて現代の中に生きているもの、現代の基盤の上にあるものである。(略)ある意味では、過去の客観的な価値などというものは存在せず、現代人が見るその主観的な価値において美術品を見せるわけで、過去の伝統的ないいものも、現代これからのその国の文化、あるいは国際的な文化の上に、いかに貢献するかという見地から見せるのが、現代美術館の役割だと考えられる。(略)兎に角この美術館が我が国の現代美術館の一つのモデルとして誕生し、(略)ひとり神奈川県ばかりではなく、さらに日本の各地方でそういう機運の起ることも考えられる。その一つの先駆ともなれば、この神奈川県美術館の役割は十分に果たされることになるであろう。」
今、日本の美術館はどうだろうか。令和の新しい時代に生まれ変わった「神奈川県立近代美術館」の精神は濁らず受け継がれているだろうか。昨年の1日あたりの動員数の高かった美術館の展覧会は、順に「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」、「至上の印象派 ピュールレ・コレクション」、「ルーヴル美術館展 肖像藝術-人は人をどう表現してきたか」、「没後50年 藤田嗣治展」だったわけだが、これら展示された過去の作品群が、観衆にただ昔の良いものとして受動的に享受されるのではなく、現代と通い合う同時代性の中で能動的に享受されたことを願ってやまない。
(おう せいび)
■王 聖美 Seibi OH
1981年神戸市生まれ。京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。国内、中国、シンガポールで図書館など教育文化施設の設計職を経て、2018年より建築倉庫ミュージアムに勤務。主な企画に「Wandering Wonder -ここが学ぶ場-」展、「あまねくひらかれる時代の非パブリック」展、「Nomadic Rhapsody-”超移動社会”がもたらす新たな変容-」展、「UNBUILT:Lost or Suspended」展。
●今日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
ル・コルビュジエ"開いた手"
1963
リトグラフ
Sheet size: 65.0x50.0cm
版上サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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