中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第11回
阿部展也
阿部展也作品を初めて知ったのは佐谷画廊での展覧会でのことで瀧口修造との詩画集『妖精の距離』(1932年 春鳥会)のページに印刷されたドローイングによってであった。まだ京橋に画廊があった時だったので、少なくとも1982年以前のことであり、まだ私は大学生であった。瀧口修造に興味をもっていたから札幌から愛知の実家に戻るときに東京に立ち寄って画廊を訪問した際に見ることになったのであろう。そのイメージに魅了されたのを覚えている。阿部のこのときの印象があまりに強かったのか、その後、阿部展也ときくと曲面で構成されたドローイングのイメージが浮かぶようになってしまった。


阿部展也の本名は芳文。大正2(1913)年、現在の新潟県五泉市に生まれた。7歳の時に東京・池之端に転居しているため、10歳の時に東京で関東大震災に遭っている。京北中学を四年で中退、以後は家を出て独立して生計を立てるようになり、絵を描きながら外山卯三郎が主宰する研究所に通った。余談ながら外山卯三郎の実家は下落合1146番地にあり、佐伯祐三や前田寛治(二人ともに下落合在住)が所属した1930年協会のスポークスマン的な役割を担っていた。阿部は昭和7(1932)年、19歳で独立美術協会展に入選した。同時に友人たちと1940年協会を結成、阿部芳文の名前で展覧会に出品するなど活躍の場を拡大していった。1940年協会は1930年協会とは違い、シュルレアリスム的な表現を主体とした美術団体であったが、組織としては短命に終わる。
一方、阿部展也といえば写真にも深いかかわりがある。戦前のこの時期、阿部は雑誌『フォトタイムス』の論客として写真評論を書いている。また、自ら撮影した写真を誌面に提供している。阿部は浜松市で写真撮影を学んだが、親戚が写真館を営んでおり、そこに暮らした時期に習得したようだ。1930年代の『フォトタイムス』には瀧口修造や永田一脩が頻繁に文章を寄せており、阿部も論客の一人となる。『フォトタイムス』は下落合西部に本社をおく写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたPR雑誌であった。木村専一をはじめとする編集部は新興写真の動きを先取りし、日本におけるモダン・フォトグラフィ受容に大きな役割を果たしたのだった。

瀧口や阿部はシュルレアリスム的な写真表現を表現基盤とする「前衛写真協会」を昭和13(1938)年に結成、写真家ばかりではなく画家も参加した。そのメンバーであるが瀧口、阿部のほか永田一脩 、濱谷浩、田中雅夫、今井滋、西尾進、森堯之、柴田隆二、永井東三郎、伊藤幸男、田村榮、奈良原弘などであった。永田や阿部も画家であるが、森や今井も画家であり、その作風は超現実的である。しかし、戦争がこうした動きをとめてしまう。シュルレアリスムを牽引する瀧口修造と福沢一郎のふたりがともに治安維持法違反の嫌疑により特高に取り調べされてしまう。実質シュルは時代の表現から消えてしまう。戦争中にフィリピンに従軍した阿部展也は昭和21(1946)年に帰国した。そして、すぐに画家としての活動を始めた。阿部が下落合に転居してきたのは昭和23(1948)年のこと。すぐ近くには吉田博の工房もあった。阿部のアトリエには実に多くの才能が出入りをした。宮脇愛子、間所沙織、漆原英子など戦後を代表する女性画家たちが皆、阿部に師事し、下落合のアトリエに通ったというのも面白い。
丸印の場所が阿部展也アトリエのあった場所
今回のスタートも西武新宿線の下落合駅である。吉田博工房と同様のルートをたどる。駅前の道を右にとり西の橋を渡り、新目白通りを横断して西の坂を登る。三差路の右の道路に入って2分くらい歩けば阿部展也アトリエのあった場所にいたる。このアトリエには写真家である大辻清司も出入りした。大辻が撮影した実験工房メンバーの画家・福島秀子をモデルにした有名な一連の写真は下落合の阿部のアトリエで阿部の演出によって撮影されたものであった。阿部が演出し大辻が写真撮影を行うといったコラボレーションが何度か継続されている。写真の背景は当然阿部のアトリエ内部であるので、大辻の写真はその美術的な構成要素とともに重要な資料でもある。
阿部展也アトリエのあった場所の現在
大辻清司撮影の写真
戦前から続く瀧口修造との親密な関係からか、タケミヤ画廊に阿部は瀧口を紹介する。タケミヤ画廊の瀧口企画による第1回展は阿部展也個展であった。二人がともに下落合に住むようになるとその関係はさらに深化し、タケミヤ画廊の展示企画も順調に継続した。このタケミヤ画廊で岡上淑子や草間彌生がデビューする。大辻清司が所属したグラフィック集団の展覧会もタケミヤ画廊で開催された。1954年12月、日本橋高島屋8階の催事場で「第1回国際主観主義写真展」が開催された。ドイツのオットー・シュタイネルトに触発されて結成された日本主観主義写真連盟がその主体となったが、その中心には瀧口、阿部、三瀬幸一がいた。メンバーの人選をみると阿部の写真人脈と瀧口のタケミヤ人脈が色濃く表れている。阿部はエンコスティックによるアンフォルメルな表現から明るくモダンな純粋抽象へと作風を変化させていった。そして下落合ばかりか日本を離れてイタリアで活動するようになる。結局イタリア在住のままに亡くなってしまった。下落合在住期間は決して長くはなかったが、阿部展也にとって非常に重要な時期にあたっていた。アトリエでの写真のための演出などの興味深い現場をぜひ覗いてみたかったと思う。



(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●本日のお勧め作品は、オノサト・トシノブです。
オノサト・トシノブ「さざ波」
1977年 油彩・キャンバス
30×30cm Signed
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
阿部展也
阿部展也作品を初めて知ったのは佐谷画廊での展覧会でのことで瀧口修造との詩画集『妖精の距離』(1932年 春鳥会)のページに印刷されたドローイングによってであった。まだ京橋に画廊があった時だったので、少なくとも1982年以前のことであり、まだ私は大学生であった。瀧口修造に興味をもっていたから札幌から愛知の実家に戻るときに東京に立ち寄って画廊を訪問した際に見ることになったのであろう。そのイメージに魅了されたのを覚えている。阿部のこのときの印象があまりに強かったのか、その後、阿部展也ときくと曲面で構成されたドローイングのイメージが浮かぶようになってしまった。


阿部展也の本名は芳文。大正2(1913)年、現在の新潟県五泉市に生まれた。7歳の時に東京・池之端に転居しているため、10歳の時に東京で関東大震災に遭っている。京北中学を四年で中退、以後は家を出て独立して生計を立てるようになり、絵を描きながら外山卯三郎が主宰する研究所に通った。余談ながら外山卯三郎の実家は下落合1146番地にあり、佐伯祐三や前田寛治(二人ともに下落合在住)が所属した1930年協会のスポークスマン的な役割を担っていた。阿部は昭和7(1932)年、19歳で独立美術協会展に入選した。同時に友人たちと1940年協会を結成、阿部芳文の名前で展覧会に出品するなど活躍の場を拡大していった。1940年協会は1930年協会とは違い、シュルレアリスム的な表現を主体とした美術団体であったが、組織としては短命に終わる。
一方、阿部展也といえば写真にも深いかかわりがある。戦前のこの時期、阿部は雑誌『フォトタイムス』の論客として写真評論を書いている。また、自ら撮影した写真を誌面に提供している。阿部は浜松市で写真撮影を学んだが、親戚が写真館を営んでおり、そこに暮らした時期に習得したようだ。1930年代の『フォトタイムス』には瀧口修造や永田一脩が頻繁に文章を寄せており、阿部も論客の一人となる。『フォトタイムス』は下落合西部に本社をおく写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたPR雑誌であった。木村専一をはじめとする編集部は新興写真の動きを先取りし、日本におけるモダン・フォトグラフィ受容に大きな役割を果たしたのだった。

瀧口や阿部はシュルレアリスム的な写真表現を表現基盤とする「前衛写真協会」を昭和13(1938)年に結成、写真家ばかりではなく画家も参加した。そのメンバーであるが瀧口、阿部のほか永田一脩 、濱谷浩、田中雅夫、今井滋、西尾進、森堯之、柴田隆二、永井東三郎、伊藤幸男、田村榮、奈良原弘などであった。永田や阿部も画家であるが、森や今井も画家であり、その作風は超現実的である。しかし、戦争がこうした動きをとめてしまう。シュルレアリスムを牽引する瀧口修造と福沢一郎のふたりがともに治安維持法違反の嫌疑により特高に取り調べされてしまう。実質シュルは時代の表現から消えてしまう。戦争中にフィリピンに従軍した阿部展也は昭和21(1946)年に帰国した。そして、すぐに画家としての活動を始めた。阿部が下落合に転居してきたのは昭和23(1948)年のこと。すぐ近くには吉田博の工房もあった。阿部のアトリエには実に多くの才能が出入りをした。宮脇愛子、間所沙織、漆原英子など戦後を代表する女性画家たちが皆、阿部に師事し、下落合のアトリエに通ったというのも面白い。
丸印の場所が阿部展也アトリエのあった場所今回のスタートも西武新宿線の下落合駅である。吉田博工房と同様のルートをたどる。駅前の道を右にとり西の橋を渡り、新目白通りを横断して西の坂を登る。三差路の右の道路に入って2分くらい歩けば阿部展也アトリエのあった場所にいたる。このアトリエには写真家である大辻清司も出入りした。大辻が撮影した実験工房メンバーの画家・福島秀子をモデルにした有名な一連の写真は下落合の阿部のアトリエで阿部の演出によって撮影されたものであった。阿部が演出し大辻が写真撮影を行うといったコラボレーションが何度か継続されている。写真の背景は当然阿部のアトリエ内部であるので、大辻の写真はその美術的な構成要素とともに重要な資料でもある。
阿部展也アトリエのあった場所の現在
大辻清司撮影の写真戦前から続く瀧口修造との親密な関係からか、タケミヤ画廊に阿部は瀧口を紹介する。タケミヤ画廊の瀧口企画による第1回展は阿部展也個展であった。二人がともに下落合に住むようになるとその関係はさらに深化し、タケミヤ画廊の展示企画も順調に継続した。このタケミヤ画廊で岡上淑子や草間彌生がデビューする。大辻清司が所属したグラフィック集団の展覧会もタケミヤ画廊で開催された。1954年12月、日本橋高島屋8階の催事場で「第1回国際主観主義写真展」が開催された。ドイツのオットー・シュタイネルトに触発されて結成された日本主観主義写真連盟がその主体となったが、その中心には瀧口、阿部、三瀬幸一がいた。メンバーの人選をみると阿部の写真人脈と瀧口のタケミヤ人脈が色濃く表れている。阿部はエンコスティックによるアンフォルメルな表現から明るくモダンな純粋抽象へと作風を変化させていった。そして下落合ばかりか日本を離れてイタリアで活動するようになる。結局イタリア在住のままに亡くなってしまった。下落合在住期間は決して長くはなかったが、阿部展也にとって非常に重要な時期にあたっていた。アトリエでの写真のための演出などの興味深い現場をぜひ覗いてみたかったと思う。



(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。
●本日のお勧め作品は、オノサト・トシノブです。
オノサト・トシノブ「さざ波」1977年 油彩・キャンバス
30×30cm Signed
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阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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