中村惠一のエッセイ「盛岡彷徨記」その2

盛岡の街を歩く


 盛岡第一画廊での「一日だけの須賀敦子展」を見るために盛岡を訪問したが、その実、もう一つの目的は画家・松本竣介が育った町を歩いてみるということだった。6月30日午前中、盛岡の建築家である中村孝幸さんのご案内によって盛岡の建築ツアーは始まった。ホテルから盛岡城址の方角に繁華街を歩く。古い街並みに老舗らしいバーや喫茶店、飲食店がある。町中に湧水があるなど水の豊かな地であることを感じた。もちろん町のなかをゆうゆうと北上川が流れているのだから当然なのかもしれない。さて、盛岡の中心部に残されている歴史的建造物の多くは銀行や公会堂のような施設で、明治末から昭和初期のものが多く、地元のランドマークとして住民があえて残そうとされているという点に拍手を贈りたい気持ちになった。私の住んでいる新宿・落合地域では中村彜アトリエはかろうじて残したものの、吉武東里設計の刑部人アトリエやアビラ村の金山平三アトリエ、岸田劉生の「草持てる男」のモデルとなった古屋芳雄(医学研究者で白樺派の文学者)の洋館などがことごとく取り壊されている。その惨状を考えるにつけ、盛岡は素晴らしいと思ったのだ。

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 まずは旧岩手銀行赤レンガ館にゆく。東京駅に似た姿だなと思ったら、東京駅の設計を担当した辰野金吾を擁する辰野・葛西建築設計事務所により明治44(1911)年に設計・建築された建物であった。もともとは盛岡銀行が施主。建物は赤煉瓦造りに緑のドームとルネッサンス風の輪郭の厳格さを現わしており、当時の洋風建築の特徴をほぼ完全な姿で伝えている。内部には付け柱を用い、天井に石膏モチーフを施す等、明治期の銀行建築の姿を良く示している。辰野金吾が設計した建築としては東北地方に唯一残る作品でもあり、昭和52(1977)年1月20日に盛岡市保存建造物に指定された。平成24(2012)年8月3日岩手銀行としての営業を終了し、約3年半に及ぶ保存修理工事を経て、公開施設として生まれ変わったものである。我々が訪問した際には、ちょうど東北地方の漆器の展示即売のイベントを館内で実施されていた。

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 次に「もりおか啄木・賢治青春館」に伺う。この建物は旧第九十銀行本店本館で、国の重要文化財に指定されている貴重な建造物である。館内は盛岡を代表する文学者の石川啄木と宮沢賢治に関係する資料が展示されていた。当時,若き司法省技師であった盛岡出身の横浜勉の設計で,明治41(1908)年3月15日起工,明治43(1910)年12月11日に竣工している。全体に簡略された折衷様式であるが,日本の洋風建築遺構には数少ないロマネスク風の外観を呈している。開口部の石型アーチ,建物隅部に突出したロケット,荒削りなコーナーストーン,破風に取り付いた付柱風の石彫飾などで,その様式的な雰囲気を創り出し,概して簡素なうちに荘重さを表現している。構造的には,煉瓦組積造の外壁が独立しており,これに木造の横架材をもって上階床を支え,木造小屋組が,外壁頂部に乗っている。私にとっては今まで見たことがない構造であったので面白かった。

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 次も銀行建築、旧・盛岡貯蓄銀行本館である。盛岡市出身の工学博士,葛西萬司の主宰した葛西建築事務所により設計および監理された建物であり,昭和2(1927)年12月17日に竣工した。建物の主体構造は,鉄筋コンクリート造で,主要部は2階建,一部に中2階,中3階,の小室を有し,屋上階は鉄骨造で建物前面の重要な意匠を兼ねている。

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 基礎は鉄筋コンクリートで,柱部分では地下約2メートル,柱間の外壁は煉瓦1.5から2枚積の外側に厚6センチメートルの花崗岩が貼られている等が昭和51(1976)年の改装時に確認されているという。意匠的には外観に新古典様式の様相を呈しているが,全体として近代デザインの流れの中にある構成と考えることができる。すなわち,建物前面の列柱,軒蛇腹の装飾,その他古典的な意匠の装飾石彫で壁面を飾っているが,列柱の柱頭は古典様式にその類を見ない新しいものであり,また,建物全体を積み上げていくような構成は,20世紀初頭の近代建築の手法の影響が強いと考えられる。今も盛岡信用金庫本店として現役で使われている。この建物は画家、松本竣介の父親が関係した銀行が建てたものであり、竣介にもなじみの街並みであったそうだ。その街並みをみながら歩くことができて、うれしかった。ここから北の地域は銀行建築ではなく古い民家も並ぶ街であり、近くには北上川が流れていて、上流には丘が見えている風景がひろがり、竣介の絵を思い出したりもした。
 銀行建築ではないが岩手県公会堂も昭和2(1927)年に建築されている。設計は東京帝国大を出て早稲田大学建築科で教えていた佐藤功一であり、二年後に竣工した日比谷公会堂も同じようなスタイルにまとめている。日比谷公会堂と似ているなとは思ったが、こちらの方が先だったとは思わなかった。ここも現役で使われている。

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 街歩きは盛岡信用金庫本店から北に向かい、南部鉄器の工房である釜定、ござ九とよばれる森九商店などの民家が残されている。江戸から明治にかけての建物であった。またその北には紺屋町番屋が大正2(1913)年の姿を見せている。藩政時代に盛岡消防よ組番屋として建築され、大正2年に建て替えられたものが現在も残っている。このあたりの街並みを松本竣介も見て育ったのだなと改めて街を見まわした。

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 まったくの余談ながら駅に向かう道に新聞社の入っていたビルがあり、屋上に小屋が設置されていた。今は使われていないように見える小屋は確かめるすべはなかったが、私には鳩小屋に見えた。もしそうならば、1960年代まで使っていたという伝書鳩の小屋ではないかと想像した。朝日新聞の報道カメラマンの方にその使い方を聞いたことがある、伝書鳩の存在を実感できた瞬間であった。
なかむら けいいち

中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)

●本日のお勧め作品は松本竣介です。
matsumoto_13松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《古代建築》
1946年
紙にインク、水彩
イメージサイズ:16.9x11.8cm
シートサイズ:20.3x14.0cm
※松本竣介展(2012年 ときの忘れもの)p.3所収 No.1
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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