土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」
11.瀧口修造『余白に書く』(その1)
瀧口修造『余白に書く』
みすず書房
24.0×9.3㎝(B5判縦半截、並製・紙ジャケット、ビニールカバー、箱)
表紙 サム・フランシス
自装
読者のためノート1頁、本文164頁(うち欧文44頁)、注記4頁(うち欧文2頁)、目次3頁(うち欧文1頁)。
限定1500部 各部番号入
限定番号1-40 本文新局紙印刷 著者署名入
限定版号41-1500 本文別製金毬紙印刷
奥付の記載事項
余白に書く
1966・5・30 発行 1000
本文印刷 精興社
表紙印刷 中興社
製本 鈴木製本所
発行者 みすず書房
東京都文京区本郷3丁目17番
15号 電話 814-0131
振替東京 195132 ©1966
図1 『余白に書く』(表紙)と箱(表側)
『余白に書く』は、『点』に続く瀧口6冊目の著作ですが、「評論集」と呼ぶのは適当ではないでしょう。というのも、前回採り上げた『点』の「あとがき」で、美術評論家としての自らの活動に一区切りつけ、読者に別れを告げていたからです。主に展覧会の序文が収録されている点から「序文集」、あるいは収録された各篇の内容から「画論集」と呼ぶのがよいかもしれません。この点はまた後で触れます。
図2 本文(邦文)
図3 本文(欧文)
B5判縦半截という縦長の判型に、本文横組みという特異な造本(図2,3)、サム・フランシスによる青い表紙(図4)の瀟洒な装幀。瀧口の自装です。タイトル頁の前の、遊び紙の裏側(図5)で、以下のように解説され、私信からの引用でしょうか、サムの言葉も記されています。
「表紙はサム・フランシス。
ただしこれは作品というよりもアトリエの床で見つけた絵具の飛沫であった。
“I am more than happy to hear you will use my marginalia, yohaku ni kaku bulue splashes for your covering the margins. Sam interested as you know in the erotic margin and all edges of things. ...I should dedicate my marginalia to you”
Sam Francis
図4 表紙・裏表紙
図5 タイトル頁と遊び紙裏面
本文は邦文55篇と欧文(英仏文)25篇の2部で構成され、両部の間に薄葉紙が挟み込まれています。邦文の部はさらに前半52篇と後半3篇の2部に分かれ、前半の52篇では、大西茂写真展に際して書かれた「写真というメカニズムを通して」(1955年3月)から、野地正記展に際して書かれた「『習作集』以降」(1965年10月)までが、年代順に並べられています。後半の3篇は自らの造形を念頭に書かれたと思われる「影像人間の言葉」(1962年4月)、および「オブジェの店」をひらく構想などに触れた「白紙の周辺」(1963年3月)と「物々控」(1965年4月)です(図6)。前半の52篇のうち、「プエブロ・インディアンたちは」「いわば『他人の絵』に」「私の心臓は時を」「詩人の肖像」の4篇は、自作展に際して書かれたものですから、他の作家に関するものは48篇ということになります。
図6 邦文目次
欧文の部の25篇では、アンリ・ミショーに宛てた“a Henri Michaux”(1958年8月)から塩見千枝子(允枝子)に宛てた“for Chieko Shiomi’s Spatial poem”(1965年)までが、邦文同様、年代順に収録されています。うち19篇は欧文単独の(邦訳を伴わない)文章または詩で、残り6篇は邦訳の原文または邦文の自訳です(図7)。
図7 欧文目次
欧文の25篇で目を引くのは10篇のアクロスティック詩でしょう。これは詩の各行の頭にその詩を贈られた人の名のアルファベットが置かれた詩のことで、名前が読み込まれた10名は、フォートリエ、今井俊満、バルテュス、ティンゲリー、吉村二三生、前田常作、タジリシンキチ、利根山光人、福島秀子、ムナーリです。なお、10篇のなかで邦訳され邦文の部にも収録されているのは、利根山光人宛ての1篇のみです。その際の経緯については、利根山自身がトレーシング・ペーパー製実物の写真図版入りで回想していますので、ご紹介しておきます(利根山光人「燭の火」、「本の手帖」特集瀧口修造、1969年8月。図8)。
図8 利根山光人宛てアクロスティック詩
アクロスティック詩については、まえがきに相当する「読者のためのノート」で、瀧口自ら次のように解説しています(図9)。
「いわゆるacrosticと呼ばれる、名前の文字を頭によみこんだ言葉の遊戯詩は、まったく私的に、時には即興的にこころみたものであって、海外から訪れた、または海外を訪れる芸術家との交友のしるしであり、私の一時期の奇癖悪癖の産物である。」
図9 読者のためのノート
ここに述べられた「私的」「交友のしるし」という言葉は、アクロスティック詩に限らず、本書に収録された各篇にも共通する点と思われます。本書の初出一覧に相当する「注記」(図10)や“NOTES”(図11)によれば、上で見た他の作家たちに関する邦文篇の48篇のうち、以下に触れる例外2篇を除いた46篇は、展覧会に際して書かれた序文や詩・私信です。いずれも作家に寄り添い共感する立場から書かれており、前著『点』までの、多かれ少なかれ客観性や批判が必要だった美術評論とは、大きく異なっています。
図10 注記
図11 NOTES
2篇の例外は「美術手帖」(1958年1月。図12)に掲載された「河原温の世界は」、および「読売新聞」(1963年8月7日)に掲載された「アーシル・ゴーキーの『素描』」です。前者は「美術手帖」創刊10周年記念企画「明日を期待される新人群」の推薦・紹介文で、「紹介」「推薦」の性格が強いのは、当然でしょう。「絵画とは何か。この問いは画家の永遠の呪文……」という言葉を結語とし、絵画の本質を問う姿勢が顕れています。後者は西武百貨店で開催された素描展の感想で、ゴーキーの運命と自らの戦争体験にも思いを致す内容は、やはり画家への共感の色彩が濃厚です。本書に収録された文章は、全体を通じて作家に寄り添う姿勢のものに絞られており、その統一感は見事というしかありません。逆にこれは、『点』までの評論集では、「紹介」「推薦」の性格を有するものが除外されていたことを物語るものでもあるでしょう。
図12 「美術手帖」1958年1月号
さらに注目されるのは、本書各篇に貫かれた、造形の原理ないし根本を問う姿勢ではないでしょうか。たとえば上に引用した河原温論の「絵画とは何か」という問い以外にも、次のような問いから書き起こされた(または題された)文章や詩が確認されます。
「写真というメカニズムを通して、人間は飽くことを知らぬ影像の猟人となっている」(大西茂写真展、1955年3月)
「今日の絵画は極度に無形象の世界に身を投げ出しているように見える」(斉藤義重展、1959年9月)
「なぜの彫刻」(荒川修作展、1961年1月)
「絵画はどこから発生するのだろう?」(若狭暁男展、1961年9月)、
「抽象とはなにか」(小野里利信展、1962年3月)
「私はちかごろ、絵画を時間として考えることに興味をもつことが多いのだが」(時間派展、1962年5月)
「写真とは何だろう?」(吉岡康弘作品集の推せん文、1962年5月)
こうした造形の本質や原理を問う姿勢は、いわゆる美術評論家というよりも、造形思想家ないし美学者・芸術学者に近いように思われます。本書に収録された各篇は、邦文・欧文を問わず、散文というよりも散文詩、あるいは詩そのもので書かれたものが多いので、しばしば美術作品に対する感想を単に詩的に表現したものという誤解を招いているようですが、造形に関する原理的な思考や深い問いかけが込められていることを見落してはならないでしょう。冒頭で本書は「評論集」というよりも、「序文集」か「画論集」と呼ぶのが適当ではないか、と述べた理由もここにあります。
このような各篇に続いて、邦文の部の末尾には、比較的長い次の3篇が置かれています。すなわち「影像人間の言葉」(「美術手帖」増刊「現代のイメージ」、1962年4月。図13)、「白紙の周辺」(「みづゑ」、1963年3月。図14)、「物々控」(「美術手帖」増刊「おもちゃ」、1965年4月。図15)です。
図13 「影像人間の言葉」
図14 「白紙の周辺」
図15 「物々控」
「影像人間の言葉」は、ブルトン『超現実主義と絵画』の翻訳やアンフォルメル旋風、さらには自身の造形の試みなども経たうえで書かれた文章ですし、「白紙の周辺」「物々控」は、オブジェの店をひらく構想について触れた貴重な文献です。この3篇が邦文の部の末尾に置かれたことにより、本書の「画論集」としての性格が高まり、重要性が増しているのは確かでしょう。これら3篇についてはすでに「影像人間の理路」(「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展図録。図16)や「透明な部屋」(「瀧口修造 夢の漂流物」展図録。図17)などで述べたことがありますので、ご参照ください。
図16 「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展図録
図17 「瀧口修造 夢の漂流物」展図録
以上のように、本書は展覧会パンフレットや案内状などに発表された序文や詩、私信などを収録した「序文集」であり、作家に寄り添う姿勢で書かれている点で、それまでの「評論集」とは大きく異なっています。瀟洒で軽快な装幀に反して、造形の根源を問うという深く重い内容をもった、「画論集」の性格も色濃くもっています。「詩人・美術評論家」という枠を越えた、1960年代中頃の姿を生き生きと留めているという点からも、最も重要な著作の一つであり、おそらくは瀧口快心の一冊ということができるでしょう。
なお、瀧口没後の1982年7月には、同じみすず書房から『余白に書く1・2』が刊行されました。本書の再刊および続篇に当たるものといえるでしょう。これについては次回に触れることにします。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"I-11"
インク、紙
イメージサイズ:30.5×22.0cm
シートサイズ :35.4×27.0cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
11.瀧口修造『余白に書く』(その1)
瀧口修造『余白に書く』
みすず書房
24.0×9.3㎝(B5判縦半截、並製・紙ジャケット、ビニールカバー、箱)
表紙 サム・フランシス
自装
読者のためノート1頁、本文164頁(うち欧文44頁)、注記4頁(うち欧文2頁)、目次3頁(うち欧文1頁)。
限定1500部 各部番号入
限定番号1-40 本文新局紙印刷 著者署名入
限定版号41-1500 本文別製金毬紙印刷
奥付の記載事項
余白に書く
1966・5・30 発行 1000
本文印刷 精興社
表紙印刷 中興社
製本 鈴木製本所
発行者 みすず書房
東京都文京区本郷3丁目17番
15号 電話 814-0131
振替東京 195132 ©1966
図1 『余白に書く』(表紙)と箱(表側)『余白に書く』は、『点』に続く瀧口6冊目の著作ですが、「評論集」と呼ぶのは適当ではないでしょう。というのも、前回採り上げた『点』の「あとがき」で、美術評論家としての自らの活動に一区切りつけ、読者に別れを告げていたからです。主に展覧会の序文が収録されている点から「序文集」、あるいは収録された各篇の内容から「画論集」と呼ぶのがよいかもしれません。この点はまた後で触れます。
図2 本文(邦文)
図3 本文(欧文)B5判縦半截という縦長の判型に、本文横組みという特異な造本(図2,3)、サム・フランシスによる青い表紙(図4)の瀟洒な装幀。瀧口の自装です。タイトル頁の前の、遊び紙の裏側(図5)で、以下のように解説され、私信からの引用でしょうか、サムの言葉も記されています。
「表紙はサム・フランシス。
ただしこれは作品というよりもアトリエの床で見つけた絵具の飛沫であった。
“I am more than happy to hear you will use my marginalia, yohaku ni kaku bulue splashes for your covering the margins. Sam interested as you know in the erotic margin and all edges of things. ...I should dedicate my marginalia to you”
Sam Francis
図4 表紙・裏表紙
図5 タイトル頁と遊び紙裏面本文は邦文55篇と欧文(英仏文)25篇の2部で構成され、両部の間に薄葉紙が挟み込まれています。邦文の部はさらに前半52篇と後半3篇の2部に分かれ、前半の52篇では、大西茂写真展に際して書かれた「写真というメカニズムを通して」(1955年3月)から、野地正記展に際して書かれた「『習作集』以降」(1965年10月)までが、年代順に並べられています。後半の3篇は自らの造形を念頭に書かれたと思われる「影像人間の言葉」(1962年4月)、および「オブジェの店」をひらく構想などに触れた「白紙の周辺」(1963年3月)と「物々控」(1965年4月)です(図6)。前半の52篇のうち、「プエブロ・インディアンたちは」「いわば『他人の絵』に」「私の心臓は時を」「詩人の肖像」の4篇は、自作展に際して書かれたものですから、他の作家に関するものは48篇ということになります。
図6 邦文目次欧文の部の25篇では、アンリ・ミショーに宛てた“a Henri Michaux”(1958年8月)から塩見千枝子(允枝子)に宛てた“for Chieko Shiomi’s Spatial poem”(1965年)までが、邦文同様、年代順に収録されています。うち19篇は欧文単独の(邦訳を伴わない)文章または詩で、残り6篇は邦訳の原文または邦文の自訳です(図7)。
図7 欧文目次欧文の25篇で目を引くのは10篇のアクロスティック詩でしょう。これは詩の各行の頭にその詩を贈られた人の名のアルファベットが置かれた詩のことで、名前が読み込まれた10名は、フォートリエ、今井俊満、バルテュス、ティンゲリー、吉村二三生、前田常作、タジリシンキチ、利根山光人、福島秀子、ムナーリです。なお、10篇のなかで邦訳され邦文の部にも収録されているのは、利根山光人宛ての1篇のみです。その際の経緯については、利根山自身がトレーシング・ペーパー製実物の写真図版入りで回想していますので、ご紹介しておきます(利根山光人「燭の火」、「本の手帖」特集瀧口修造、1969年8月。図8)。
図8 利根山光人宛てアクロスティック詩アクロスティック詩については、まえがきに相当する「読者のためのノート」で、瀧口自ら次のように解説しています(図9)。
「いわゆるacrosticと呼ばれる、名前の文字を頭によみこんだ言葉の遊戯詩は、まったく私的に、時には即興的にこころみたものであって、海外から訪れた、または海外を訪れる芸術家との交友のしるしであり、私の一時期の奇癖悪癖の産物である。」
図9 読者のためのノートここに述べられた「私的」「交友のしるし」という言葉は、アクロスティック詩に限らず、本書に収録された各篇にも共通する点と思われます。本書の初出一覧に相当する「注記」(図10)や“NOTES”(図11)によれば、上で見た他の作家たちに関する邦文篇の48篇のうち、以下に触れる例外2篇を除いた46篇は、展覧会に際して書かれた序文や詩・私信です。いずれも作家に寄り添い共感する立場から書かれており、前著『点』までの、多かれ少なかれ客観性や批判が必要だった美術評論とは、大きく異なっています。
図10 注記
図11 NOTES2篇の例外は「美術手帖」(1958年1月。図12)に掲載された「河原温の世界は」、および「読売新聞」(1963年8月7日)に掲載された「アーシル・ゴーキーの『素描』」です。前者は「美術手帖」創刊10周年記念企画「明日を期待される新人群」の推薦・紹介文で、「紹介」「推薦」の性格が強いのは、当然でしょう。「絵画とは何か。この問いは画家の永遠の呪文……」という言葉を結語とし、絵画の本質を問う姿勢が顕れています。後者は西武百貨店で開催された素描展の感想で、ゴーキーの運命と自らの戦争体験にも思いを致す内容は、やはり画家への共感の色彩が濃厚です。本書に収録された文章は、全体を通じて作家に寄り添う姿勢のものに絞られており、その統一感は見事というしかありません。逆にこれは、『点』までの評論集では、「紹介」「推薦」の性格を有するものが除外されていたことを物語るものでもあるでしょう。
図12 「美術手帖」1958年1月号さらに注目されるのは、本書各篇に貫かれた、造形の原理ないし根本を問う姿勢ではないでしょうか。たとえば上に引用した河原温論の「絵画とは何か」という問い以外にも、次のような問いから書き起こされた(または題された)文章や詩が確認されます。
「写真というメカニズムを通して、人間は飽くことを知らぬ影像の猟人となっている」(大西茂写真展、1955年3月)
「今日の絵画は極度に無形象の世界に身を投げ出しているように見える」(斉藤義重展、1959年9月)
「なぜの彫刻」(荒川修作展、1961年1月)
「絵画はどこから発生するのだろう?」(若狭暁男展、1961年9月)、
「抽象とはなにか」(小野里利信展、1962年3月)
「私はちかごろ、絵画を時間として考えることに興味をもつことが多いのだが」(時間派展、1962年5月)
「写真とは何だろう?」(吉岡康弘作品集の推せん文、1962年5月)
こうした造形の本質や原理を問う姿勢は、いわゆる美術評論家というよりも、造形思想家ないし美学者・芸術学者に近いように思われます。本書に収録された各篇は、邦文・欧文を問わず、散文というよりも散文詩、あるいは詩そのもので書かれたものが多いので、しばしば美術作品に対する感想を単に詩的に表現したものという誤解を招いているようですが、造形に関する原理的な思考や深い問いかけが込められていることを見落してはならないでしょう。冒頭で本書は「評論集」というよりも、「序文集」か「画論集」と呼ぶのが適当ではないか、と述べた理由もここにあります。
このような各篇に続いて、邦文の部の末尾には、比較的長い次の3篇が置かれています。すなわち「影像人間の言葉」(「美術手帖」増刊「現代のイメージ」、1962年4月。図13)、「白紙の周辺」(「みづゑ」、1963年3月。図14)、「物々控」(「美術手帖」増刊「おもちゃ」、1965年4月。図15)です。
図13 「影像人間の言葉」
図14 「白紙の周辺」
図15 「物々控」「影像人間の言葉」は、ブルトン『超現実主義と絵画』の翻訳やアンフォルメル旋風、さらには自身の造形の試みなども経たうえで書かれた文章ですし、「白紙の周辺」「物々控」は、オブジェの店をひらく構想について触れた貴重な文献です。この3篇が邦文の部の末尾に置かれたことにより、本書の「画論集」としての性格が高まり、重要性が増しているのは確かでしょう。これら3篇についてはすでに「影像人間の理路」(「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展図録。図16)や「透明な部屋」(「瀧口修造 夢の漂流物」展図録。図17)などで述べたことがありますので、ご参照ください。
図16 「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展図録
図17 「瀧口修造 夢の漂流物」展図録以上のように、本書は展覧会パンフレットや案内状などに発表された序文や詩、私信などを収録した「序文集」であり、作家に寄り添う姿勢で書かれている点で、それまでの「評論集」とは大きく異なっています。瀟洒で軽快な装幀に反して、造形の根源を問うという深く重い内容をもった、「画論集」の性格も色濃くもっています。「詩人・美術評論家」という枠を越えた、1960年代中頃の姿を生き生きと留めているという点からも、最も重要な著作の一つであり、おそらくは瀧口快心の一冊ということができるでしょう。
なお、瀧口没後の1982年7月には、同じみすず書房から『余白に書く1・2』が刊行されました。本書の再刊および続篇に当たるものといえるでしょう。これについては次回に触れることにします。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI"I-11"
インク、紙
イメージサイズ:30.5×22.0cm
シートサイズ :35.4×27.0cm
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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