台風19号がもたらした河川の氾濫による被害がますます広がっています。
無事だった私たちはボランティアに駆けつけたいのですが、老いた身ではせめてもの気持ちとして被災地に義捐金を送るぐらいしか出来ません。
為政者たちが政(まつりごと)を行なうとき、否応なく優先順位の選択を迫られる(に違いない)。
私たちのような社会の片隅で、細々と事業を営む身には想像もできませんが、もしもその場に自分がいたらと思うと身が竦み、この大災害に遭遇している人々のことを思い夜も眠れないのではないでしょうか。指導者たちには弱者、少数者に寄り添う姿勢を見せてほしいと願うばかりです。
ときの忘れものの主力スタッフは昨日台北に向かいアートフェアに参加しています。
何とか成功して凱旋してもらいたいのですが・・・・・
明日10月18日は『洋酒伝来』など数々の著書で知られた藤本義一さんの命日です(1999年10月18日死去、享年71)。
破産して今日の食事代すらないとき、知らん振りをして「ワタヌキさん、うちの女の子が結婚するんで靉嘔さんの版画を贈りたいんや。何か持ってきて」と赤坂のサントリー本社に呼んでくれた日のことを昨日のことのように思い出します。
直木賞作家の藤本義一さんとはまったくの同姓同名ですが、二人とも関西生まれ、親交もありました。

右から、岡部徳三、綿貫不二夫、藤本義一、高森俊(藤本さんの後ろ)、小林美智子
棒ネクタイは藤本さんのトレードマーク、よく通る美声の持ち主でオークションのフリ師として毎回会場を盛り上げてくださいました。
1974年12月15日第3回東京オークションにて
主催:現代版画センター
会場:喫茶オランジュ(東京・東日本橋)
1974年に創立した現代版画センターには多彩な分野から、それも世代を超えて多くの人々が集まりました。
顧問の久保貞次郎先生(跡見学園女子短大学長)が当時65歳、事務局長の尾崎正教先生(小学校教師)が52歳、企画委員の岡部徳三さん(シルクの刷り師)が42歳、同じく企画委員の藤本義一さんが47歳、最初に地方組織である盛岡支部を結成してくれた上田浩司さんが42歳、事務局次長として実務を仕切った橋本凌一さんは亭主と同い年の28歳、最初は押しかけボランティア、後にはスタッフとして活躍した西岡文彦さんは弱冠22歳でした。
1927年(昭和2年)兵庫県神戸生まれの藤本義一さんは当時サントリーの宣伝部に在籍するサラリーマンで、べ平連の活動家であり、小コレクター運動のメンバーでした。
関西で育った藤本さんは1946年に詩人の竹中郁の薦めで同人詩誌『航海表』を発刊します。1948年にはこどもの詩誌「きりん」の編集部に入りますが、「きりん」の一時休刊にともない、雑誌社の太陽社に転職します。その後神戸市の社会教育課を経て、スモカ歯磨やさくらクレパスなどでも働き、1959年(昭和34年)に株式会社壽屋宣伝部(現サントリー)に入社し、定年まで勤められました。1965年に東京転勤後は同僚の開高健らとともにベ平連に参加し、反戦運動に尽力されます。
サントリーのワイン相談室長で、日本ワイン協会専務理事を務め、日蘭学会、蘭学資料研究会、日本風俗史学会などでも活躍されており、定年後の夢は故郷神戸でフランス料理のレストランをやりたいのだがと語っていました。晩年は癌と闘いながら、有名レストランを借り切りワインの会を主催、破産した私たち夫婦にも声をかけてくださいました。借金返済の日々にあって超高級レストランのワイン会への参加は束の間、苦労を忘れる夢のひとときでした。
著書に『洋酒伝来』(東京書房社1968年)、『ワインと洋酒のこぼれ話』(日本経済新聞社、1977年)、『とっておき ワインと洋酒の物語』(PHP研究所、1984年)、『洋酒物語』(廣済堂、1992年)など多数。
現代版画センターの結成から最後の倒産にいたるまで、企画委員として尽力され、破産後も私たちに暖かい支援の手をさしのべてくれたことを生涯忘れません。ありがとうございました。
◆11月2日(土)東京・目白で「第2回 久保貞次郎の会」が開催されます。ゲストは写真家の細江英公先生と、名古屋大学大学院教授の栗田秀法先生です。どうぞご参加ください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
無事だった私たちはボランティアに駆けつけたいのですが、老いた身ではせめてもの気持ちとして被災地に義捐金を送るぐらいしか出来ません。
為政者たちが政(まつりごと)を行なうとき、否応なく優先順位の選択を迫られる(に違いない)。
私たちのような社会の片隅で、細々と事業を営む身には想像もできませんが、もしもその場に自分がいたらと思うと身が竦み、この大災害に遭遇している人々のことを思い夜も眠れないのではないでしょうか。指導者たちには弱者、少数者に寄り添う姿勢を見せてほしいと願うばかりです。
ときの忘れものの主力スタッフは昨日台北に向かいアートフェアに参加しています。
何とか成功して凱旋してもらいたいのですが・・・・・
明日10月18日は『洋酒伝来』など数々の著書で知られた藤本義一さんの命日です(1999年10月18日死去、享年71)。
破産して今日の食事代すらないとき、知らん振りをして「ワタヌキさん、うちの女の子が結婚するんで靉嘔さんの版画を贈りたいんや。何か持ってきて」と赤坂のサントリー本社に呼んでくれた日のことを昨日のことのように思い出します。
直木賞作家の藤本義一さんとはまったくの同姓同名ですが、二人とも関西生まれ、親交もありました。

右から、岡部徳三、綿貫不二夫、藤本義一、高森俊(藤本さんの後ろ)、小林美智子
棒ネクタイは藤本さんのトレードマーク、よく通る美声の持ち主でオークションのフリ師として毎回会場を盛り上げてくださいました。
1974年12月15日第3回東京オークションにて
主催:現代版画センター
会場:喫茶オランジュ(東京・東日本橋)
1974年に創立した現代版画センターには多彩な分野から、それも世代を超えて多くの人々が集まりました。
顧問の久保貞次郎先生(跡見学園女子短大学長)が当時65歳、事務局長の尾崎正教先生(小学校教師)が52歳、企画委員の岡部徳三さん(シルクの刷り師)が42歳、同じく企画委員の藤本義一さんが47歳、最初に地方組織である盛岡支部を結成してくれた上田浩司さんが42歳、事務局次長として実務を仕切った橋本凌一さんは亭主と同い年の28歳、最初は押しかけボランティア、後にはスタッフとして活躍した西岡文彦さんは弱冠22歳でした。
1927年(昭和2年)兵庫県神戸生まれの藤本義一さんは当時サントリーの宣伝部に在籍するサラリーマンで、べ平連の活動家であり、小コレクター運動のメンバーでした。
関西で育った藤本さんは1946年に詩人の竹中郁の薦めで同人詩誌『航海表』を発刊します。1948年にはこどもの詩誌「きりん」の編集部に入りますが、「きりん」の一時休刊にともない、雑誌社の太陽社に転職します。その後神戸市の社会教育課を経て、スモカ歯磨やさくらクレパスなどでも働き、1959年(昭和34年)に株式会社壽屋宣伝部(現サントリー)に入社し、定年まで勤められました。1965年に東京転勤後は同僚の開高健らとともにベ平連に参加し、反戦運動に尽力されます。
サントリーのワイン相談室長で、日本ワイン協会専務理事を務め、日蘭学会、蘭学資料研究会、日本風俗史学会などでも活躍されており、定年後の夢は故郷神戸でフランス料理のレストランをやりたいのだがと語っていました。晩年は癌と闘いながら、有名レストランを借り切りワインの会を主催、破産した私たち夫婦にも声をかけてくださいました。借金返済の日々にあって超高級レストランのワイン会への参加は束の間、苦労を忘れる夢のひとときでした。
著書に『洋酒伝来』(東京書房社1968年)、『ワインと洋酒のこぼれ話』(日本経済新聞社、1977年)、『とっておき ワインと洋酒の物語』(PHP研究所、1984年)、『洋酒物語』(廣済堂、1992年)など多数。
現代版画センターの結成から最後の倒産にいたるまで、企画委員として尽力され、破産後も私たちに暖かい支援の手をさしのべてくれたことを生涯忘れません。ありがとうございました。
◆11月2日(土)東京・目白で「第2回 久保貞次郎の会」が開催されます。ゲストは写真家の細江英公先生と、名古屋大学大学院教授の栗田秀法先生です。どうぞご参加ください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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