植田実のエッセイ「本との関係」第19回

電話してみる


 長谷川愛子の名が『建築』1961年1月号の編集スタッフのなかに入っている。それ以前からいたのかも知れない。もともとは妹の静子さんがスタッフとして創刊準備の作業に加わっていたのだが急に結婚されることになり、多分創刊号が出る前に渡米した、そのあとに姉の愛子さんが入ってきた。目次に編集スタッフや編集委員の名が初めて記載されるようになるのが上に挙げた61年1月号からで、それ以外の記録は手元にないから、正確な時期は分からない。
 それまでは目次には編集長と発行者の名が入っているだけだった。日本ではどの建築雑誌もほぼ同様で、単行本なら今でも奥付けには著者と発行者の名だけがあって編集者の名などないのがふつうだ。印刷所と製本所名はしっかり記載されている。これが慣例である。だから著者が「あとがき」で担当編集者あるいは本文作成上の協力者の名を挙げて謝辞を述べることが多いがこれも慣例だろう。欧米の本で、こうした謝辞を含めた「あとがき」を見ることはほとんどない。その必要がある場合は巻頭に置かれている。例えばスティーヴン・キングの『トミーノッカーズ』では巻頭に批評家としての妻、編集者、技術上の文章チェックをしてくれた人、あるいはアドヴァイスしてくれたパイロット、歯科医、地質学者、等々への感謝が捧げられている。これに対して大沢在昌の「新宿鮫シリーズ5」の『炎蛹』では「後記」に、東京消防庁、農林水産省の専門家たち、編集者たちへの謝意が述べられているが、日本人にはこうした、終わってからの挨拶がしっくりするのではないか。巻頭ではどうしても仰々しく思えてしまうのだが、それは「あとがき」への馴染みにすぎないかもしれない。いずれにしても1冊の本を書きあげ形にするという行為を、あくまで著者という、ひとりに強く収斂させるか、それとも多数の人間という複合体の所産として見せるかの違いは、国別というより本を文化としてとらえるイメージの違いにも関わってくるはずである。
本の後記で「協力を得た人々はあまりに多く、その名をすべては挙げられないが、ここでは感謝の念だけを記しておく」などと書かれたりしていることがあるが、いかにも日本人的というか情緒的で、欧米の著者は感謝という言葉を口に出す以上は何がなんでも具体的な人名を列挙する。映画や演劇の受賞式でのスピーチが、誰もが判で押したように協力者たちの名を限られた時間内に流麗な早口で挙げるのと、それは同じだろう。最近の映画ではエンド・マークのあとに延々とその作品に関わった人々の名が続くが、そこにも協力者への感謝あるいは協力者の権利を明確にする(あるいは、させられる)ある文化圏の伝統がさらに徹底した形で表れている気がする。日本映画もこれに倣うようになってきたが。いや建築誌ではもっとすごい例がある。彰国社から出されている専門誌『施工』の1993年3月号はほぼ全ページ(270ページ)を、大阪に竣工した新梅田シティ(原広司+アトリエ・ファイ設計)の特集に充てているがその巻末9ページには主要関係者名が列挙されている。オーナー会社の社長から厨房機器担当まで1万人を優に越えるリストだ。建築なら、ただ1件を実現するまでにこれだけの人が関わってくる。

 さて、長谷川愛子さんについてだが、当時の私にとって忘れ難い印象を受けたのはこんなことだった。
 『建築』1961年10月号はアントニン・レーモンド特集である。レーモンドに焦点に当てたいとは編集委員も編集長もずいぶん前から口にしていたが彼に連絡することにはぐずぐずしていた。要するに誰もレーモンドとのコネがなかった。『建築』はそれ以前の号でレーモンド事務所の作品紹介をしている(本連載第17回参照)ので、ツテがないはずはなかったと思うのだがアントニン・レーモンドそのひとに直接連絡するのはまったく別だったのだろう。すると長谷川さんが、私もレーモンドさんに知遇を得ているわけではないが、とにかく意向を訊いてみると言ってその場で電話して、あっさり解決してしまった。レーモンドはこの企画に好意的かつ積極的で、結果としては、この大建築家の生身の息づかいが感じられるという意味でも、二度とつくれない素晴らしい特集号になった。ばかりではなく、その翌年の4月号では「アントニン・レーモンド木造建築集」まで続けて出している。
 知らない人に電話をかけて頼みごとをする、たったこれだけの話である。しかし今でも、長谷川さんといえばまずこのことを思い出すほど深い感銘を受けた。というより、深く自分を恥じた。自分だってそのくらいのことはできたはずなのに、人まかせにしたままだった。以来、現在まで私はどの編集者に対してもまずこうした資質からも性格や能力を判断しているような気がする。
 「モダンリビング」の創刊に関わり、1950年代の同誌の名編集者として知られる渡辺曙さんにインタヴューしたとき、「モダンリビング」版ケーススタディ・ハウスの企画実現の際、新聞記事でその名を知った丹下健三にその日のうちに電話して自宅を訪ねたという。丹下さんは企画に賛成はしたが多忙なときだったので池辺陽を紹介した。丹下邸を出るなり渡辺さんは近くの公衆電話から池辺さんに連絡をとり、そのまま会いに行き、ケーススタディ・ハウスの企画が動き出した。その迅速な行動に驚く私に、ぼくは天皇に対してだって同じだよ、天皇に電話しないのは用事がないからさ、と渡辺さんは笑っていた。こんな編集者もいる。いや編集者に限らず誰にも必要な行動力だろう。例えばパーティは未知の人に出会い、自分の知らなかった世界に触れ、自分からも新しい興味ある話題を提供することに努める場である。仕事や病気の話題は御法度という暗黙のルールが欧米のパーティでは厳しいのも、仲間うちでじゃれ合っているのではパーティに参加したとはいえないからだろう。
 長谷川さんは『建築』に入る以前は、くわしくは知らないが東京大学建築学部の内田祥哉研究室におられた。そのせいなのか、人あるいはその人脈に通暁していて、たいていの人については立ちどころにそのプロファイルを引き出してみせる、信じられないような記憶力の持ち主だった。誌面構成を考えたり文章を書いたりすることには控えめだったが、こうした編集者能力で『建築』を支え、のちに平良さんと始める『SD』ではいっそうパワーアップし、同誌編集長となってからは長谷川カラーらしきものが感じられるまでになった。
 なんだか仲間うちだけで動く編集者はダメ、みたいに聞こえるかもしれないが、別の面から見れば違ってくる。主義主張を重んじる雑誌なら自分たちの目指す方向と異なる建築家の仕事は扱う必要はなく、面白そうな建築家に見境なく声をかけるのは単なるスノビズムということになる。(長谷川さんはそういう編集者でもない。むしろ好き嫌いがはっきりしていた。)『建築』での平良編集長は、編集スタッフのやりたいことを掣肘することはなかった。しかし、だからといってスノビズムの許容ではなかったと思う。スタッフも『建築』の方向性を心得ていたと思う。
 そういうことで、このレーモンド特集、その次号の菊竹清訓特集あたりまでは編集委員の意向が生かされていたと思うが、さらにそれに続く61年12月号の白井晟一特集には、自分たちの考えとは路線が違うのではないかという疑問が委員から出された。アントニオ・ガウディについての記事についても「ガウディはもういいよ」という声が聞こえた。白井もガウディも、これは宮嶋さんの意向が強かったのだがこの頃からすでに、異端でありながら建築家としての評価が安定していた、いや定着してしまっていたふたりは、創刊以来読者の意表を衝くことをめざした人選による建築家特集によって誌面に批評性のテクスチャをつくろうとする編集委員のもくろみに反したのかもしれない。また62年に入って、こちらは私が偶々選んだオスヴァルト・マティアス・ウンゲルス、エンリコ・カスティリオーニ、ヘントリッヒ/ペチュニッヒ設計事務所などの作品紹介にも委員は消極的だった(結局は採用になったが)。すなわち『建築』という、強い思想性と柔軟な発想を旨とする受け皿を前提としたとしても、別の価値観をもった編集者が参入し、あるいは育ってきたなかで、このメディアの主義主張の輪郭が曖昧になってきたともいえる。編集委員会が開かれることも少なくなっていた。
 この年、私はさらにフィリップ・ジョンソン、ピエル・ルイジ・ネルヴィ、清家清特集の企画をほとんど勝手に進め、平良さんには巻頭論文や巻頭対談をお願いするというかたちにして、当の建築家のエッセイや作品紹介のレイアウトは、ひとりでやらせてもらっている。『建築』と、そのあとに私が編集長をつとめた『都市住宅』でも巻頭論文、対談、座談会、インタビューなどは基本的に、建築局長の平良さんにお願いしている。自分が建築について文章を書いたり話したりする気持ちはこの頃は皆無に等しかった。
 『建築』創刊から1967年4月号の磯崎新特集第2集あたりまで、私の担当したものについては、花田佳明さんが『植田実の編集現場』(ラトルズ刊、2005 本連載第1回参照)でくわしく辿って下さっているので詳細はそちらに委ねることにする。こうした流れのなかで1963年、平良さんと長谷川さんは鹿島出版会に移り、65年に月刊『SD(スペース・デザイン)』を創刊、その2年後、私も平良さんに呼ばれて鹿島出版会に入り、翌年、月刊『都市住宅』の創刊に関わることになる。
 『SD』創刊の頃だが、私は『建築』の編集作業と並行して、月刊『a+a(aluminium and architecture)』という、40頁ほどの薄さだが『建築』と同じサイズ、A4変形判の雑誌を全面的に担当していた。発行・財団法人軽金属協会と目次にある。宮嶋さんが同協会から編集と制作を委託されたもので最初の頃は自分でやっていたが、その頃はもう『建築』の編集長であった宮嶋さんとしてはどうにもならないということで私にお鉢がまわってきた。小雑誌だがそれなりに編集長の体験をもてたかというと、タイトル・ロゴと表紙デザイン、それと特集記事を自分なりのペースでやってみた、という程度であとはアルミの特許・実案の提示とか協会ニュースとかのレイアウト処理に追われていた。だがこの頃は、街を歩いてもまずアルミニウムのカーテンウォールのビルばかりを探していた。アルミニウムと建築という専門分野を深めた先に、思いがけない特異な批評的視野が見つかるような気もしていたのである。そのさなかに、都市と住宅をテーマとした雑誌創刊の誘いがきた。軽金属協会には申しわけない結果になったが、つい数年前、アルミニウム協会からかつての『a+a』について話してくれという連絡がきて驚いた。長年隠していた犯罪が突然、白日の下にさらされたような気分。協会関係のみなさんの優しさに、かえって何もしゃべれなくなった。(この項続く)

(2007.9.13/2019.12.10 うえだ まこと

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◎昨日読まれたブログ(archive)/2015年03月09日|山本鼎「ブルトンヌ」1千万円
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