植田実のエッセイ「手紙 倉俣さんへ」第1回

手紙 倉俣さんへ 1

倉俣史朗がもっとも深い信頼を寄せていた美術家」として紹介される田中信太郎が、倉俣さんとは電話を通しての会話が最後だったと語っている。「熱が下がんないんだ」と言っていたという。そしてこう続ける。
 「彼が無理をしてしまったのは、なんか薄々、自分が死ぬことを知っていたんじゃないかとしか思いようがないくらい。自叙伝の執筆も終え、古くからの知り合いにも会って、簡単なお別れをしてしまったんですね。」(『倉俣史朗読本』2012株式会社ADP)
 「自叙伝」というのは、『未現像の風景―記憶・夢・かたち』(1991住まいの図書館出版局)のことである。この校了直後に倉俣さんが亡くなった日から3ヵ月足らずで上梓される結果となったのだが、無理をお願いしていたのかという後ろめたさがいまでも鮮明な記憶として残る。本の構成は倉俣さんの仕事の小写真集に、14の断片的な文章、しかもそれぞれは400字足らずから1000字あまり。例外的に2000から3000字の章が2ヵ所あるていどである。その始まりと終わりは、すでに発表されていた「内的風景―記憶の中の小宇宙」の一文と「夢日記―夢のつづれ織り」の再録が枠取りしている。ささやかな本である。倉俣さんの説明だったのか、話をきいた田中さんなりの解釈だったのか今となっては確かめようもないが、自叙伝とは何やら物々しく、そんな先入観を抱いたままに実際の本に当たると戸惑うかもしれない。だがじつにうまい呼び名でもあると、この本に関わった者としてはひそかに感嘆している。たとえば回想記ならずっと平明な記憶の流れにそってゆくだろう。しかしこの小さな本の断章をあえて自叙伝と読めばそこに記憶の転倒が、構造が生じる。虚実の錯綜的迷路的な構造が現れてくる。倉俣さんはその誘惑を文体にしたのではなかったか。
 書かれている対象は小学初年の頃のおぼろな記憶から、第二次世界大戦の終わりまでの10年余りの期間における切れ切れのイメージで、素直に淡々と描いている(ように思える)。たとえば断章(と、とりあえず呼ぶことにする)1では父が勤めていた東京・駒込の理科学研究所でつくったアルミニューム製のレコードを竹の針できいたこと、断章2では床屋で坊主頭にされたあと、母がパピリオのバニシングクリームで頭をゴシゴシ拭きとってくれたこと。戦時色が急速に濃くなってきたころで、断章3ではもう静岡県に疎開している。愛鷹山の麓、愛鷹村仲東の「中堅的農家」に「縁故疎開でひとりあずけられた」。
 倉俣さんは私のひとつ年上、こまかく言うと8ヵ月ほど年上だからほぼ同世代で、当然疎開という事件はこちらにも大きく関わってきたが、倉俣さんの体験しためずらしいケースはほかに知らない。縁故疎開は父親が仕事上動けないとしても、ふつうは家族が丸ごと空襲から安全と思われる地域に避難するからだ。当時はまったく生活環境の異なるところに東京者が侵入してくる。抵抗されるのは当たり前だが家族ぐるみなら最小限の変わらない単位のなかにいることができる。ところが倉俣少年はひとりでそこに放り出された。御両親の、我が子にたいする信頼は、並ではなかったにちがいない。そして倉俣さんは書いている。「疎開の問題が多々あった時、嫌な想い出は一度としてなかった。こんな幸福(ハッピー)だった疎開経験は奇跡で稀だったと、その幸運をいまでも感謝している」。愛鷹での生活にいたる事情を説明していることもあって、この断章がいちばん長い。敵(アメリカ)軍のB29爆撃機の大編隊が愛鷹の空を一面覆っている描写はあるが、あの戦時の気配とはどこか違う。また「他所者(ソガイ)」の引け目から逃れるために「東京では餅はモーターで搗き、鶏小屋は糞をベルトで運び」などと吹聴したら「ウソツキシロー」の渾名を付けられてしまったというエピソードなど、当時の縁故疎開、集団疎開を問わず、その地元の子と疎開で来た他所者の子とのあいだにあった深刻な関係と時代がまるで感じられない。むしろふしぎな物語みたいだ。貴種流離譚を読んでいるような。ウソツキシローとはヤマトタケルノミコトと同格であるみたいな。
 そもそもこのエピソード自体が倉俣さんのウソだと私は思いこんでいる。「自叙伝」の面白さ、見事さについていちいち取り上げていくときりがないが、ほんとに短い一時期を、ごく短い文章で、しかも記憶も不確かになりつつあるその回想というシンプルさで、倉俣さんはおそるべき精緻な文章構造を駆使している。だからこの小さな本をいくら繰り返し読んでも飽きることがない。分かったと処理することができない。だがそのように考えて書いたのではない。そういう文体である。
 はじめに触れた田中信太郎さんの倉俣さんについてのはなしはまだたくさんあって、倉俣さんと親しかった職人やアーティストやデザイナーや写真家や建築家、あるいはスタッフや編集者とは微妙に違う特別な位置を、田中さんが占めていたこともあるのだろうが、一瞬にして倉俣史朗の透明な存在が鮮烈な像を結ぶ、そんな感性が見えてくる。キューブリックの『2001年宇宙の旅』が封切られたときのショックが直に伝わってくる。田中さんが倉俣さんのお嬢さんへの土産に贈った1本100円ほどのばらの造花から1週間ほど後に「ミス・ブランチ」のスケッチが描かれていた、そのすぐそばに倉俣さんがいる。あるいは「オブローモフ」の壁の仕上げ材をためらいなく全面張り直しさせたのを横でみていた田中さんはその「独裁者」ぶりを説明して、倉俣さんはどこにいても「空間のイメージが頭の中で完璧にできていて、ブレることがない」から現場に入った瞬間、「自分のイメージと現実の違いが許せない」。それと直結して、食べものでも重箱入りのは気取っていて嫌だから、そういう店ではうな重でも天重でもどんぶりに入れ直してもらう。だめなら店を出ていく。倉俣さん自身はこうしたことについて一切しゃべったり講釈したりしない。口数の多さが何よりいやなのだ。このような倉俣さん像は、現場では厳しく、細部の収まりに妥協をしない、でもふだんはやさしくザックバランなひと、といった類型的な人物像からいちばん離れたところに現れて、残された者たちに話しかけている。
 田中さんのはなしを収録した『倉俣史朗読本』は、2011年に六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催された「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展でカタログが制作されたが、その折りの20人あまりによる、それぞれが独自の視点から語ったレクチャーを編集して翌年に刊行された、500ページ近くものテクスト版である。構成・編は関康子、関さんは上の展覧会のディレクターでもあり、そのカタログの編集ディレクションをもつとめてもいる。展覧会もカタログもよく出来ているが、なんといっても『読本』がユニークだ。ふつうは企画展はオープニング初日にカタログも間に合わせているが、会期中にその美術館なり、ギャラリーで行われている公演やシンポジウム、あるいは初日ぎりぎりに仕上げることもあるだろう展示そのものも含めて紙のメディアに記録が残されることがあまりない。残念に思っているのはだれよりも当の学芸員や関係者にちがいないが、次の企画が迫っているのでなかなか対応できない。そこをかいくぐってまとめられた『読本』は書名どおり倉俣さん寄りではあるけれど、展示とそれに連結した言葉の厚味を十分に反映している。
 そもそも(10年近くも前だが)この展示企画自体がよかった。だけにとどまらず、安藤忠雄設計による会場21_21の力をあらためてしみじみ感じる機会ともなった。ときの忘れものブログに連載していた「美術展のおこぼれ」7で、そのことに触れている。

 この度、ときの忘れものから、「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」のタイトルで、倉俣さんが遺したデッサン、ときにはスケッチともイラストレーションとも絵とも呼ばれるもののシルクスクリーン10点組を全6集の予定で出す企画があり、それを手伝うに際して報告しておきたいことを思いつくままに書かせていただくつもりです。
 たとえば上に挙げたスケッチやイラストレーションを、「カイエ」という呼び名に置きかえるつもりはなく、いわば繫留船のような働き、何が描かれているかが伝わる以上に自由にどこにもつながっていくような働きとして、倉俣さんの描いたもの、あるいは書いたものを見たい。カイエはそのまま訳せばノートだけれど、ノートはそれなりのイメージを日本語として帯びてしまっている。呼び名にこだわるつもりはないけれど、分野や範疇から完全に解き放たれていた倉俣さんを、彼自身の言葉、彼をよく知る人たちの言葉を通して、まず近づきたいと思いました。一方で、シルクスクリーンの刷り師石田了一さんによる試刷り数点が上がってきました。そこに、書かれたものと描かれたものとの境界もない、倉俣史朗の「線」の数々の表情がありました。
(2020.3.28 うえだ まこと

●植田実のエッセイ「手紙 倉俣さんへ」は毎月29日の更新です。
橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」も併せてお読みください。

●「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier
68 ミスブランチ 1988_中
『倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 1』より 《68 ミス ブランチ(1988)》 MISS BLANCHE(1988) シルクスクリーン 15版13色


74 花瓶 ガラスで葉の形の花瓶をつくり花のみを飾る 1990_中
『倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 2』より 《74 花瓶(1990)、花瓶》 Flower Vase(1990), Flower Vase シルクスクリーン 12版9色

倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier
各集(1~6集) シルクスクリーン10点組
作者 倉俣史朗
監修 倉俣美恵子
   植田実(住まいの図書館出版局編集長)
制作 1・2集 2020年
   3~6集 2021年~2024年予定
技法 シルクスクリーン
用紙 ベランアルシュ紙
サイズ 37.5×48.0cm
シルクスクリーン刷り 石田了一工房・石田了一
限定 35部(1/35~35/35)、
    《68 MISS BLANCHE》のみ75部
    (1集に35部、 3~6集に各10部ずつ挿入予定)
発行 ときの忘れもの
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「一日限定! 破格の掘り出し物」
二日目にご紹介するのは、昨日登場した永瀬義郎と同い年の、文字通り20世紀を代表する版画家・長谷川潔(1891-1980)。1918年(大正7年)渡仏、大戦中も帰国せず、望郷の念にかられながらも生涯をパリで過ごしました。フランスは1966年に文化勲章が授与しその業績を称えましたが、故国日本は冷たかった、亭主は長谷川潔に文化勲章を与えなかった日本の見識を疑います。
昨年のちょうど今頃、町田市立国際版画美術館で「パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 ーはるかなる精神の高みへ ー」が開催されました。西山純子先生(千葉市美術館)の出色のレビューをぜひお読みください。

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◎昨日読まれたブログ(archive)/2013年01月12日|鳥居民さんの死去を悲しむ
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