「王様クレヨンの作家たち」
三上 豊(2016年執筆、山口長男とM氏コレクション展より)
王様クレヨンといえば、ケースの左上にトランプのダイヤの王様がいて、小学生の頃使った方もいるだろう。今はもう製造されていないが大正時代初期から続いた有名な画材だった。1951年頃から10年間ほど、その製造会社を経営していたのがM氏で、一時は目黒区の都立大近くに工場があり、工場2階では、山口長男や高橋秀が制作に励んでいたという。
今回、M氏コレクションの一部が展示されるわけだが、なかでも目を引く軸物(No.17)、画家津田青楓の寄せ書きがある。1973年、M氏が中央線中野駅近くに開廊した中野画廊へ寄せた内容となっている。「僕ノ孫弟子に当ル」M君とある。さて直系の「兄弟子」にあたる人物はだれであろう。津田は画塾をなんども運営した経歴をもつのではっきりとはしないが、1枚の写真から想像すれば、オノサト・トシノブが浮かび上がる(図1 )。
1931年からオノサトは津田の画塾に入り、3年間籍をおく。しばらくして津田は左翼活動のため検挙され画塾から手を引くが、33年に描かれた《犠牲者》(東京国立近代美術館蔵)のモデルは、作品の旧蔵者羽仁五郎によればオノサトという(塾生立花説も)。さらにオノサトの略歴を追うと(中原佑介篇年譜 『抽象への道 オノサト・トシノブ 』1988年 新潮社)、1940年、日本大学在籍中に知り合った韓国の画家金煥基を訪ねたさい、当時ソウル(旧京城)郊外に住んでいた山口長男を紹介され山口家に逗留している。ここで二人の画家はつながるのだが、敗戦後東京に引き揚げた山口が、M氏とどう巡り合ったのかは現段階では不明だ。
しかしながら、中野画廊開廊記念展には、山口もオノサトも出品しており、オノサトは開廊記念展の次に近作版画39点による個展を開催している。その次に個展をもったのが仙波均平である。仙波は大正期10年近くパリで絵画を学び、慶應義塾普通部に、1928年から45年まで図画の教師をしている(太田正文「師古山房随記24—画家・仙波均平氏」『月刊日本美術』1973年11月号)。慶應幼稚舎から学んでいたM氏とつながっているだろう。仙波展は米寿記念であり、主催は慶應義塾普通部教え子とある。そこにM氏と同級の駒井健司がいる。彼は版画家駒井哲郎の兄である。駒井は、今回出品作でもあるM氏の長男の肖像(No.19 2歳の誕生日記念)を手がけており、M家とは長く親密な交流があった。ひとつのエピソードを。1950年頃、駒井は自身が設計したプレス機を発注しており、完成を半年近く楽しみにしている様子を記している(『若き日の手紙』1979年 美術出版社)。このプレス機の製造費用をM氏が支援したという話がある。駒井が10年間ほど使ったそのプレス機は、現在町田市立国際版画美術館2階のフロアーに展示されている。その解説によれば、プレス機は駒井からM氏へわたり、さらに千葉の美術教師西村紘治へ、そして町田市に寄贈されたとある。今回の出品作もこのプレス機で刷られたのだろう。
駒井は世田谷区在住だったが、今回の出品作家をみると、世田谷がらみから都立大近くにあった王様クレヨンの工場に出入りする彼らの姿が見えてもくる。高橋秀は、現在の武蔵野美術大学で学んでいたが、出版社のアルバイトが縁で独立美術協会の緑川廣太郎と知り合う。1950年頃、世田谷区瀬田に住む緑川は、セルフビルドの掘っ建て小屋のようなアトリエをもち、その脇に鰻の寝床のような場所をつくり、高橋に提供する。そこで高橋は駒井哲郎や古茂田守介と出会い、ふたりとは生涯にわたり交友を続ける仲となる。
ここで彼らの出品作のいくつかを見てみよう。
高橋秀は60年代初頭からイタリアに在住して活躍した。その作風は「エロスに溢れ」とよくいわれる。だが本展出品作の1点は趣が異なる。椅子とラッパがある作品(No.14)は、ビュッフェの影響がみられ、閉鎖的な空間や潔癖さが指摘される50年代後半の作例のひとつである(谷藤史彦「評伝高橋秀(1)」『ふくやま美術館研究紀要5』2012年)。
緑川廣太郎の《海に生きる》(No.3)は、同名のシリーズの1点。1989年の横浜市民ギャラリーでの回顧展に出品されている。神話の一場面を思わせ、丸い月(または太陽)が画面に必ず登場する晩年の作品である。「「死」にとらわれることなく自然の中で自然に即して生きてゆく、そのような精神の境地を漁夫の姿を借りて表した」と指摘されている(斉藤泰嘉「月と舟人」『緑川廣太郎画集』1992年 美術出版社)。
古茂田守介の版画作品はいずれも晩年の作例。病弱な古茂田は身近なものをモチーフにした作品が多い。食卓の魚や野菜、人間も壺も同じように描くようになった抽象への試行は、裸婦と貝がひとつの画面にありながらもフォルムの追求をやめない古茂田のイメージの断片でもある。もともと山口長男が好きだった。山口宛の書簡に「長男さんが悪いものを作る筈がありません。長男さんと云う人間だからです」と記している(古茂田美津子「大作の大胆な強さ」『月刊美術』1993年3月号)。そういえば、古茂田の兄公雄はやはり画家を志し、1932年に津田青楓の上野洋画研究所に入所とある。
桂ゆきのクレヨン画は、50年代半ばの作品群に近い人物像の描き方が伺えるが、形象の重なりが画面に動きをもたらし、「ひとつの画像が全く異なる見え方」を示している(関直子「桂ゆき ある寓話」同名展図録 2013年)。また、1938年、桂は山口長男らと二科会内に九室会を創立した。日本近代美術史の1頁を作ったことはよく知られている。
加納光於は、1956年、瀧口修造が企画運営をしていたタケミヤ画廊での個展で注目されてきた新人だった。《紋章のある風景》(No.16)が出品されたグループ展「第4回銅版画展」(1958年 画廊ひろし)の評では、本作を挿図に瀧口が加納の作風を次のように評している。「ヴィジョンと形象の完全な一致におどろいたことがある。最近の仕事ではむしろその頃の完成を破って銅版の許容するもっと混沌としたものに身を任せようとしているように見える」とし、「将来もっとも期待される作家の一人」と讃を送る(瀧口修造「個展グループ展選評」『美術手帖』1958年3月号)。
さて、本展会場の主役とでもいうべき山口長男作《五つの線》(No.1)に移ろう。2枚の合板を縦に合わせた四角い支持体に、黒と赤茶の2色で描かれている。黒色は全くの地色ではなく、赤茶とせめぎあうように画面にある。円の求心的なフォルムにたいして細長い赤茶の形は画面内に揺れ、いまにも踊り出しそうだ。本作が描かれた1954年は、現段階では 19点の作例が確認され、第39回二科展に出品された3点の内の1点となっている。翌年には第3回サンパウロ・ビエンナーレに出品された5点の内の1点ともなった(『山口長男作品集』1981年 講談社)。戦前期、京城で多くの小作人とともに鍬で畑を耕してきた山口だが、戦後はナイフで絵を耕してきた。本作は山口の50年代抽象の代表作であり、練馬区立美術館に長く寄託されてきた。山口は、この絵をある日かついでM氏のもとに持ってきたという。日頃、食事などをクレヨン工場2階で世話になっており、M氏夫人へのお礼だったとの話しが伝わっている。
M氏は、今回のコレクション展を見てもわかるように、自分がある視点をもって作品収集をしてきた人物ではない。どちらかといえば、パトロン的な存在であり、来るもの拒まず的な面があったといえよう。中野画廊の展覧会記録をみても公募団体の若手をシリーズ化し、また彼らが地方で展示をするときは援助をしている。聞くところによれば、自宅では週末は必ずといっていいほど宴会が行なわれたとか。画廊内でもそうした雰囲気がただよっていたに違いない。王様M氏の前で、駒井哲郎がうれしそうにギターを弾く、そんな「王様クレヨンをめぐる空間」があったのだ。
(みかみ ゆたか 和光大学芸術学科教授・編集者)

図1 津田画塾懇親会 1933年9月 中列左より 三木清、谷川徹三、東郷青児、津田青楓、安井曾太郎、板垣鷹穂、板垣の後ろがオノサト・トシノブ、前列及び後列は塾生(『盲亀半世記
津田青楓喜寿祝賀出版』より1956年9月 南画廊)。

図2 王様クレヨンの会社で、駒井哲郎(右)、うしろに銅版のプレス機。
図3 王様クレヨンの宴会でギターを弾く駒井哲郎。

図4 壁面に山口長男《五つの線》(左)と仙波均平《裸婦》(右)。中野画廊開廊の時。1973年

図5 中野画廊にて、山口長男(中央)、桑原実(右)
17. 津田青楓
書(軸装)
32.5×41.4cm (Scroll : 1440×69.2cm)
1973
18. 古茂田守介「M氏の肖像」
スケッチブックに素描、鉛筆
40.0×28.2cm (Sheet size : 41.0×32.0cm)
右下にサインあり
19. 駒井哲郎「誕生祝い」
エッチング
9.5×7.1cm(Sheet size: 21.8×16.7cm)
Ed.30 1960年
サインあり
《誕生祝い》の作品の元になった写真
●『山口長男とM氏コレクション展』カタログ

『山口長男とM氏コレクション展』カタログ
2016年
ときの忘れもの 発行
テキスト:三上豊(和光大学)
和英併記、20ページ
25.7×18.2cm
500円(税別) ※送料250円
メールにてお申込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
*画廊亭主敬白
ただいま開催中の「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」は1950年代から70年代にかけて絵の具会社や画廊を経営していたM氏旧蔵の作品です。ときの忘れものは2016年にも「山口長男とM氏コレクション展」を開催しました。
その折のカタログにご執筆いただいた三上豊先生の「王様クレヨンの作家たち」を再録掲載しました。
◆ときの忘れものでは「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」(アポイントメント制/WEB展)を開催中です。
会期=2020年6月16日[火]―7月11日[土]
皆様がご自宅でも楽しんでいただけるよう前回瑛九展に続き動画を制作しYouTubeで公開しています。

栗田秀法さんの特別寄稿(前編、後編)をあわせてお読みください。
※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。前日までにメールでご予約ください。日・月・祝日休廊。
◆「没後60年 第29回瑛九展」は終了しましたが、今回初めて制作した動画・第一部と第二部は引き続きYouTubeでご覧になれます。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」も併せてお読みください。
今まで研究者やコレクターの皆さんが執筆して下さったエッセイや、瑛九情報は2020年5月18日のブログ「81日間<瑛九情報!>総目次(増補再録)」にまとめて紹介しています。
◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
三上 豊(2016年執筆、山口長男とM氏コレクション展より)
王様クレヨンといえば、ケースの左上にトランプのダイヤの王様がいて、小学生の頃使った方もいるだろう。今はもう製造されていないが大正時代初期から続いた有名な画材だった。1951年頃から10年間ほど、その製造会社を経営していたのがM氏で、一時は目黒区の都立大近くに工場があり、工場2階では、山口長男や高橋秀が制作に励んでいたという。
今回、M氏コレクションの一部が展示されるわけだが、なかでも目を引く軸物(No.17)、画家津田青楓の寄せ書きがある。1973年、M氏が中央線中野駅近くに開廊した中野画廊へ寄せた内容となっている。「僕ノ孫弟子に当ル」M君とある。さて直系の「兄弟子」にあたる人物はだれであろう。津田は画塾をなんども運営した経歴をもつのではっきりとはしないが、1枚の写真から想像すれば、オノサト・トシノブが浮かび上がる(図1 )。
1931年からオノサトは津田の画塾に入り、3年間籍をおく。しばらくして津田は左翼活動のため検挙され画塾から手を引くが、33年に描かれた《犠牲者》(東京国立近代美術館蔵)のモデルは、作品の旧蔵者羽仁五郎によればオノサトという(塾生立花説も)。さらにオノサトの略歴を追うと(中原佑介篇年譜 『抽象への道 オノサト・トシノブ 』1988年 新潮社)、1940年、日本大学在籍中に知り合った韓国の画家金煥基を訪ねたさい、当時ソウル(旧京城)郊外に住んでいた山口長男を紹介され山口家に逗留している。ここで二人の画家はつながるのだが、敗戦後東京に引き揚げた山口が、M氏とどう巡り合ったのかは現段階では不明だ。
しかしながら、中野画廊開廊記念展には、山口もオノサトも出品しており、オノサトは開廊記念展の次に近作版画39点による個展を開催している。その次に個展をもったのが仙波均平である。仙波は大正期10年近くパリで絵画を学び、慶應義塾普通部に、1928年から45年まで図画の教師をしている(太田正文「師古山房随記24—画家・仙波均平氏」『月刊日本美術』1973年11月号)。慶應幼稚舎から学んでいたM氏とつながっているだろう。仙波展は米寿記念であり、主催は慶應義塾普通部教え子とある。そこにM氏と同級の駒井健司がいる。彼は版画家駒井哲郎の兄である。駒井は、今回出品作でもあるM氏の長男の肖像(No.19 2歳の誕生日記念)を手がけており、M家とは長く親密な交流があった。ひとつのエピソードを。1950年頃、駒井は自身が設計したプレス機を発注しており、完成を半年近く楽しみにしている様子を記している(『若き日の手紙』1979年 美術出版社)。このプレス機の製造費用をM氏が支援したという話がある。駒井が10年間ほど使ったそのプレス機は、現在町田市立国際版画美術館2階のフロアーに展示されている。その解説によれば、プレス機は駒井からM氏へわたり、さらに千葉の美術教師西村紘治へ、そして町田市に寄贈されたとある。今回の出品作もこのプレス機で刷られたのだろう。
駒井は世田谷区在住だったが、今回の出品作家をみると、世田谷がらみから都立大近くにあった王様クレヨンの工場に出入りする彼らの姿が見えてもくる。高橋秀は、現在の武蔵野美術大学で学んでいたが、出版社のアルバイトが縁で独立美術協会の緑川廣太郎と知り合う。1950年頃、世田谷区瀬田に住む緑川は、セルフビルドの掘っ建て小屋のようなアトリエをもち、その脇に鰻の寝床のような場所をつくり、高橋に提供する。そこで高橋は駒井哲郎や古茂田守介と出会い、ふたりとは生涯にわたり交友を続ける仲となる。
ここで彼らの出品作のいくつかを見てみよう。
高橋秀は60年代初頭からイタリアに在住して活躍した。その作風は「エロスに溢れ」とよくいわれる。だが本展出品作の1点は趣が異なる。椅子とラッパがある作品(No.14)は、ビュッフェの影響がみられ、閉鎖的な空間や潔癖さが指摘される50年代後半の作例のひとつである(谷藤史彦「評伝高橋秀(1)」『ふくやま美術館研究紀要5』2012年)。
緑川廣太郎の《海に生きる》(No.3)は、同名のシリーズの1点。1989年の横浜市民ギャラリーでの回顧展に出品されている。神話の一場面を思わせ、丸い月(または太陽)が画面に必ず登場する晩年の作品である。「「死」にとらわれることなく自然の中で自然に即して生きてゆく、そのような精神の境地を漁夫の姿を借りて表した」と指摘されている(斉藤泰嘉「月と舟人」『緑川廣太郎画集』1992年 美術出版社)。
古茂田守介の版画作品はいずれも晩年の作例。病弱な古茂田は身近なものをモチーフにした作品が多い。食卓の魚や野菜、人間も壺も同じように描くようになった抽象への試行は、裸婦と貝がひとつの画面にありながらもフォルムの追求をやめない古茂田のイメージの断片でもある。もともと山口長男が好きだった。山口宛の書簡に「長男さんが悪いものを作る筈がありません。長男さんと云う人間だからです」と記している(古茂田美津子「大作の大胆な強さ」『月刊美術』1993年3月号)。そういえば、古茂田の兄公雄はやはり画家を志し、1932年に津田青楓の上野洋画研究所に入所とある。
桂ゆきのクレヨン画は、50年代半ばの作品群に近い人物像の描き方が伺えるが、形象の重なりが画面に動きをもたらし、「ひとつの画像が全く異なる見え方」を示している(関直子「桂ゆき ある寓話」同名展図録 2013年)。また、1938年、桂は山口長男らと二科会内に九室会を創立した。日本近代美術史の1頁を作ったことはよく知られている。
加納光於は、1956年、瀧口修造が企画運営をしていたタケミヤ画廊での個展で注目されてきた新人だった。《紋章のある風景》(No.16)が出品されたグループ展「第4回銅版画展」(1958年 画廊ひろし)の評では、本作を挿図に瀧口が加納の作風を次のように評している。「ヴィジョンと形象の完全な一致におどろいたことがある。最近の仕事ではむしろその頃の完成を破って銅版の許容するもっと混沌としたものに身を任せようとしているように見える」とし、「将来もっとも期待される作家の一人」と讃を送る(瀧口修造「個展グループ展選評」『美術手帖』1958年3月号)。
さて、本展会場の主役とでもいうべき山口長男作《五つの線》(No.1)に移ろう。2枚の合板を縦に合わせた四角い支持体に、黒と赤茶の2色で描かれている。黒色は全くの地色ではなく、赤茶とせめぎあうように画面にある。円の求心的なフォルムにたいして細長い赤茶の形は画面内に揺れ、いまにも踊り出しそうだ。本作が描かれた1954年は、現段階では 19点の作例が確認され、第39回二科展に出品された3点の内の1点となっている。翌年には第3回サンパウロ・ビエンナーレに出品された5点の内の1点ともなった(『山口長男作品集』1981年 講談社)。戦前期、京城で多くの小作人とともに鍬で畑を耕してきた山口だが、戦後はナイフで絵を耕してきた。本作は山口の50年代抽象の代表作であり、練馬区立美術館に長く寄託されてきた。山口は、この絵をある日かついでM氏のもとに持ってきたという。日頃、食事などをクレヨン工場2階で世話になっており、M氏夫人へのお礼だったとの話しが伝わっている。
M氏は、今回のコレクション展を見てもわかるように、自分がある視点をもって作品収集をしてきた人物ではない。どちらかといえば、パトロン的な存在であり、来るもの拒まず的な面があったといえよう。中野画廊の展覧会記録をみても公募団体の若手をシリーズ化し、また彼らが地方で展示をするときは援助をしている。聞くところによれば、自宅では週末は必ずといっていいほど宴会が行なわれたとか。画廊内でもそうした雰囲気がただよっていたに違いない。王様M氏の前で、駒井哲郎がうれしそうにギターを弾く、そんな「王様クレヨンをめぐる空間」があったのだ。
(みかみ ゆたか 和光大学芸術学科教授・編集者)

図1 津田画塾懇親会 1933年9月 中列左より 三木清、谷川徹三、東郷青児、津田青楓、安井曾太郎、板垣鷹穂、板垣の後ろがオノサト・トシノブ、前列及び後列は塾生(『盲亀半世記
津田青楓喜寿祝賀出版』より1956年9月 南画廊)。

図2 王様クレヨンの会社で、駒井哲郎(右)、うしろに銅版のプレス機。
図3 王様クレヨンの宴会でギターを弾く駒井哲郎。
図4 壁面に山口長男《五つの線》(左)と仙波均平《裸婦》(右)。中野画廊開廊の時。1973年

図5 中野画廊にて、山口長男(中央)、桑原実(右)
17. 津田青楓書(軸装)
32.5×41.4cm (Scroll : 1440×69.2cm)
1973
18. 古茂田守介「M氏の肖像」スケッチブックに素描、鉛筆
40.0×28.2cm (Sheet size : 41.0×32.0cm)
右下にサインあり
19. 駒井哲郎「誕生祝い」エッチング
9.5×7.1cm(Sheet size: 21.8×16.7cm)
Ed.30 1960年
サインあり
《誕生祝い》の作品の元になった写真●『山口長男とM氏コレクション展』カタログ

『山口長男とM氏コレクション展』カタログ
2016年
ときの忘れもの 発行
テキスト:三上豊(和光大学)
和英併記、20ページ
25.7×18.2cm
500円(税別) ※送料250円
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*画廊亭主敬白
ただいま開催中の「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」は1950年代から70年代にかけて絵の具会社や画廊を経営していたM氏旧蔵の作品です。ときの忘れものは2016年にも「山口長男とM氏コレクション展」を開催しました。
その折のカタログにご執筆いただいた三上豊先生の「王様クレヨンの作家たち」を再録掲載しました。
◆ときの忘れものでは「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」(アポイントメント制/WEB展)を開催中です。
会期=2020年6月16日[火]―7月11日[土]
皆様がご自宅でも楽しんでいただけるよう前回瑛九展に続き動画を制作しYouTubeで公開しています。

栗田秀法さんの特別寄稿(前編、後編)をあわせてお読みください。
※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。前日までにメールでご予約ください。日・月・祝日休廊。
◆「没後60年 第29回瑛九展」は終了しましたが、今回初めて制作した動画・第一部と第二部は引き続きYouTubeでご覧になれます。
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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