土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」
16.『画家の沈黙の部分』~後編
さて、話を本書に戻します。改めて目次に眼をとおし、本書に再録されていない画家のことも思い出しながら全体の構成を見直すと、クレー、ミロ、ミショーなどに対する瀧口の、偏愛ともいえる思い入れの深さに、気づかされるのではないでしょうか。以下、この3人の画家に焦点を絞って見ていくことにします。
まずクレーについては、本書「後記」のなかで次のように述べており、それまでのクレー論をまとめること、および「クレーはここにいる」を再録することが、本書刊行の動機のひとつだったことが分かります。
「私はこれまでなぜかミロ、殊にクレーについてはより多く書いているのだが、これまでに私の評論集に収めたものを除いて、おもなものはほとんどここに集められたと思う。「クレーはここにいる」は、クレー展の記念作品集(限定版)のために書きおろされたもので、折柄、私は書くことについての危機に見舞われ、一年以上一語も書けず、刊行者草月出版部に大きな迷惑をかけることになり、私にとって忘れえぬキズあとを残しているものである。[後略]」
「自筆年譜」1962年の項でも、クレー論の執筆に難渋した様子が、つぎのように書かれています。
「元旦から前年偶然貰ったグアッシュを使い久しく忘れていたデカルコマニーに没頭する。10月、「詩人の肖像」を扉絵とする連作百点のミニアチュールを主として第3回個展「私の心臓は時を刻む」を南画廊で催す。しかしこの年の春から、前年11月に催されたパウル・クレー展の記念画集のための論文書けず苦しむ。5月ついに斎藤神経科の北杜夫医師について暮れまで診察をうける。その間、デカルコマニーとは別に紙を焦がして描くデッサンを主にこころみる。」
こうした難産の末に「パウル・クレー論 クレーはここにいる」は脱稿され、『クレー』(草月出版部、1963年5月。図21)に収録されました。本書でも265頁のうち32頁を占める長篇で(54頁~85頁。うち3頁は図版)、評論や論考というよりも、散文詩といった方が相応しいように思われます。本来は単行本画集の解説ですから、まず求められるのは、画家の生涯や作品についての、ある程度客観的な概説のはずですが、この連載第11回で述べた通り、この頃の瀧口は作品や作者を中立的に論評し解説するのではなく、作家に寄り添い共感する立場に移っていました。本稿執筆が難渋した原因は、こうした立場の根本的な違いにあったように思われます。この結果生み出されたのが、散文詩のような独特のスタイルだったのかもしれません。
図21 草月出版部『クレー』
ようやく刊行に漕ぎつけた『クレー』ですが、残念ながら一般に流通しないまま、幻の画集となってしまいました。海藤日出男氏から伺ったその事情については、以前の連載「瀧口修造の箱舟」第10回で述べたことがありますので、ここでは繰り返しません。画集とともにお蔵入りとなった「クレーはここにいる」に、陽の目を見させたいという希望が本書刊行の深い動機となっており、再録の対象をそれ以外にも拡げようとしたというのが、実情だったのかもしれません。いずれにしろ、クレーに対する思い入れが並々ならぬものであったのは確かでしょう。
草月出版部『クレー』以外にも瀧口はクレーの画集に関わっています。フェーバー世界名画集『クレー』(平凡社、1956年。図23)、ならびに紀伊國屋アート・ギャラリー6『クレー 不思議な四角形』(図24)です。解説者は前者がハーバート・リード、後者はジョセフ≂エミール・ミュールで、訳者はともに瀧口とされています。後者には奥付がなく、元のフランスアザン版(1956刊)の奥付がそのまま印刷され、帯に「日本語版監修 瀧口修造」と記されています。
図22 フェーバー世界名画集『クレー』
図23 紀伊國屋アート・ギャラリー『クレー 不思議な四角形』
ついでにご紹介しますが、このような瀧口のクレーに対する思い入れの深さを察し、改めて主なクレー論を戦前期まで遡ってまとめ、筆者(土渕)の解題を付けて刊行したのが『瀧口修造 パウル・クレー論集』(佐谷画廊、1990年。図22)です。前述の「瀧口修造の箱舟」第10回には、こうした瀧口の思い入れに理解のない佐谷和彦氏との、刊行前後の遣り取りなども記しておきましたので、ご関心のある向きはご覧ください(思い出すだけで不快感を抑えられず、お読みいただいて不愉快に思われるかもしれませんが、予めお断りしておきます)。
図24 『パウル・クレー論集』装幀は浅井潔氏
ミロについても、クレーに次ぐ3篇が収められています。意外に少ない印象ですが、本書のほかに、この連載第6回でも述べましたが、世界初の単行本画集『ミロ』や、前述の原色版美術ライブラリー『ミロ』、ファブリ名画集59『ジョアン・ミロ』(平凡社、1971年。図25)にも携わっています。さらには、いずれご紹介しますが、共作の詩画集2冊を制作し、最晩年にも「ユーモアと冒険の彫刻 ミロ展」図録(西武美術館、1979年。図26)に「野に置け風の時計」を寄稿しています。ミロは瀧口の生涯を通じて関りが深く、多くの論考を残した画家の筆頭ともいえるでしょう。
図25 ファブリ名画集『ジョアン・ミロ』
図26 「ユーモアと冒険の彫刻 ミロ展」図録
なお、ミロについては、名前の表記の変遷も重要です。前出の世界初の単行本画集『ミロ』では「ジョアン」とされていますが、戦後の原色版美術ライブラリーなどでは、スペイン語の表記の慣例に従って「ホアン」に変更されました。本書でも表記は「ホアン」ですが、気になっていたようで、来日した際に本人に直接確認しています。そのときの様子が本書の「第二版の註記」(図27)として、「後記」のさらに後に記されています。以下に引用します。
「本書刊行の翌年、ミロに親しく会った折り、日本で呼び慣れているホアンについて質したところ、ぜひカタルーニャ風にジョアンと呼んでほしいと言われたので、それ以来は私自身はそう書くようにしている。カスティリーヤ地方語の普遍化したスペイン語のフアンに当るカタルーニャ名がジョアンなのである」
図27
アンリ・ミショーについては、主題として扱っている文章は本書の3篇で尽きるようですが、アンフォルメルを論じたエッセイなどでしばしば言及されているほか、『余白に書く』には、ミショー宛てに捧げられた単句「夏扇口なし」および仏文の「UN ÉVENTAIL D’ÉTÉ, PAS DE BOUCHE.」が収録されています。本書の「アンリ・ミショーを訪ねる」には、この句が浮かんだ際の様子が語られています。また、所蔵していたミショーの水彩(図28、29)について、「藝術新潮」1963年7月号(図30)の特集「わが贅沢貧乏」に寄せた「自成蹊」(図31)のなかで、「2点の愛すべきミショーの水彩が、求めずして私の壁を飾ることになった」述べています。常に身近に感じ、愛でていたようです。自身が造形の仕事を開始した際にも、フォンタナなどと同様に、視野に入っていたことは間違いないでしょう。
図28 瀧口旧蔵のミショー「水彩」(富山県美術館蔵。「瀧口修造/加納光於《海燕のセミオティック》2019」展図録より転載)
図29 同
図30 「藝術新潮」1963年7月号
図31 「自成蹊」
以上のとおり、本書は瀧口が最も親しみを覚えている画家についての文章、詩などを再録した、戦後7冊目に当たる美術評論集で、晩年のさまざまな思い入れや感慨だけでなく、理想とする装幀の姿までも窺い知ることのできる点で、他に類のない、極めつけの一冊といえるでしょう。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
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16.『画家の沈黙の部分』~後編
さて、話を本書に戻します。改めて目次に眼をとおし、本書に再録されていない画家のことも思い出しながら全体の構成を見直すと、クレー、ミロ、ミショーなどに対する瀧口の、偏愛ともいえる思い入れの深さに、気づかされるのではないでしょうか。以下、この3人の画家に焦点を絞って見ていくことにします。
まずクレーについては、本書「後記」のなかで次のように述べており、それまでのクレー論をまとめること、および「クレーはここにいる」を再録することが、本書刊行の動機のひとつだったことが分かります。
「私はこれまでなぜかミロ、殊にクレーについてはより多く書いているのだが、これまでに私の評論集に収めたものを除いて、おもなものはほとんどここに集められたと思う。「クレーはここにいる」は、クレー展の記念作品集(限定版)のために書きおろされたもので、折柄、私は書くことについての危機に見舞われ、一年以上一語も書けず、刊行者草月出版部に大きな迷惑をかけることになり、私にとって忘れえぬキズあとを残しているものである。[後略]」
「自筆年譜」1962年の項でも、クレー論の執筆に難渋した様子が、つぎのように書かれています。
「元旦から前年偶然貰ったグアッシュを使い久しく忘れていたデカルコマニーに没頭する。10月、「詩人の肖像」を扉絵とする連作百点のミニアチュールを主として第3回個展「私の心臓は時を刻む」を南画廊で催す。しかしこの年の春から、前年11月に催されたパウル・クレー展の記念画集のための論文書けず苦しむ。5月ついに斎藤神経科の北杜夫医師について暮れまで診察をうける。その間、デカルコマニーとは別に紙を焦がして描くデッサンを主にこころみる。」
こうした難産の末に「パウル・クレー論 クレーはここにいる」は脱稿され、『クレー』(草月出版部、1963年5月。図21)に収録されました。本書でも265頁のうち32頁を占める長篇で(54頁~85頁。うち3頁は図版)、評論や論考というよりも、散文詩といった方が相応しいように思われます。本来は単行本画集の解説ですから、まず求められるのは、画家の生涯や作品についての、ある程度客観的な概説のはずですが、この連載第11回で述べた通り、この頃の瀧口は作品や作者を中立的に論評し解説するのではなく、作家に寄り添い共感する立場に移っていました。本稿執筆が難渋した原因は、こうした立場の根本的な違いにあったように思われます。この結果生み出されたのが、散文詩のような独特のスタイルだったのかもしれません。
図21 草月出版部『クレー』ようやく刊行に漕ぎつけた『クレー』ですが、残念ながら一般に流通しないまま、幻の画集となってしまいました。海藤日出男氏から伺ったその事情については、以前の連載「瀧口修造の箱舟」第10回で述べたことがありますので、ここでは繰り返しません。画集とともにお蔵入りとなった「クレーはここにいる」に、陽の目を見させたいという希望が本書刊行の深い動機となっており、再録の対象をそれ以外にも拡げようとしたというのが、実情だったのかもしれません。いずれにしろ、クレーに対する思い入れが並々ならぬものであったのは確かでしょう。
草月出版部『クレー』以外にも瀧口はクレーの画集に関わっています。フェーバー世界名画集『クレー』(平凡社、1956年。図23)、ならびに紀伊國屋アート・ギャラリー6『クレー 不思議な四角形』(図24)です。解説者は前者がハーバート・リード、後者はジョセフ≂エミール・ミュールで、訳者はともに瀧口とされています。後者には奥付がなく、元のフランスアザン版(1956刊)の奥付がそのまま印刷され、帯に「日本語版監修 瀧口修造」と記されています。
図22 フェーバー世界名画集『クレー』
図23 紀伊國屋アート・ギャラリー『クレー 不思議な四角形』ついでにご紹介しますが、このような瀧口のクレーに対する思い入れの深さを察し、改めて主なクレー論を戦前期まで遡ってまとめ、筆者(土渕)の解題を付けて刊行したのが『瀧口修造 パウル・クレー論集』(佐谷画廊、1990年。図22)です。前述の「瀧口修造の箱舟」第10回には、こうした瀧口の思い入れに理解のない佐谷和彦氏との、刊行前後の遣り取りなども記しておきましたので、ご関心のある向きはご覧ください(思い出すだけで不快感を抑えられず、お読みいただいて不愉快に思われるかもしれませんが、予めお断りしておきます)。
図24 『パウル・クレー論集』装幀は浅井潔氏ミロについても、クレーに次ぐ3篇が収められています。意外に少ない印象ですが、本書のほかに、この連載第6回でも述べましたが、世界初の単行本画集『ミロ』や、前述の原色版美術ライブラリー『ミロ』、ファブリ名画集59『ジョアン・ミロ』(平凡社、1971年。図25)にも携わっています。さらには、いずれご紹介しますが、共作の詩画集2冊を制作し、最晩年にも「ユーモアと冒険の彫刻 ミロ展」図録(西武美術館、1979年。図26)に「野に置け風の時計」を寄稿しています。ミロは瀧口の生涯を通じて関りが深く、多くの論考を残した画家の筆頭ともいえるでしょう。
図25 ファブリ名画集『ジョアン・ミロ』
図26 「ユーモアと冒険の彫刻 ミロ展」図録なお、ミロについては、名前の表記の変遷も重要です。前出の世界初の単行本画集『ミロ』では「ジョアン」とされていますが、戦後の原色版美術ライブラリーなどでは、スペイン語の表記の慣例に従って「ホアン」に変更されました。本書でも表記は「ホアン」ですが、気になっていたようで、来日した際に本人に直接確認しています。そのときの様子が本書の「第二版の註記」(図27)として、「後記」のさらに後に記されています。以下に引用します。
「本書刊行の翌年、ミロに親しく会った折り、日本で呼び慣れているホアンについて質したところ、ぜひカタルーニャ風にジョアンと呼んでほしいと言われたので、それ以来は私自身はそう書くようにしている。カスティリーヤ地方語の普遍化したスペイン語のフアンに当るカタルーニャ名がジョアンなのである」
図27アンリ・ミショーについては、主題として扱っている文章は本書の3篇で尽きるようですが、アンフォルメルを論じたエッセイなどでしばしば言及されているほか、『余白に書く』には、ミショー宛てに捧げられた単句「夏扇口なし」および仏文の「UN ÉVENTAIL D’ÉTÉ, PAS DE BOUCHE.」が収録されています。本書の「アンリ・ミショーを訪ねる」には、この句が浮かんだ際の様子が語られています。また、所蔵していたミショーの水彩(図28、29)について、「藝術新潮」1963年7月号(図30)の特集「わが贅沢貧乏」に寄せた「自成蹊」(図31)のなかで、「2点の愛すべきミショーの水彩が、求めずして私の壁を飾ることになった」述べています。常に身近に感じ、愛でていたようです。自身が造形の仕事を開始した際にも、フォンタナなどと同様に、視野に入っていたことは間違いないでしょう。
図28 瀧口旧蔵のミショー「水彩」(富山県美術館蔵。「瀧口修造/加納光於《海燕のセミオティック》2019」展図録より転載)
図29 同
図30 「藝術新潮」1963年7月号
図31 「自成蹊」以上のとおり、本書は瀧口が最も親しみを覚えている画家についての文章、詩などを再録した、戦後7冊目に当たる美術評論集で、晩年のさまざまな思い入れや感慨だけでなく、理想とする装幀の姿までも窺い知ることのできる点で、他に類のない、極めつけの一冊といえるでしょう。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●本日のお勧め作品は大竹昭子です。
大竹昭子 Akiko OTAKE無題
Type-Cプリント
35.5×43.0cm
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