前衛美術家・斉藤陽子・TAKAKOとフルクサス

荒井由泰


創造美育協会(創美)と小コレクター運動に関する調べ物をしていた時、偶然フルクサスの斉藤陽子の名前と出会った。日本美術オーラルヒストリーアーカイヴに彼女の名前があった。このアーカイヴは美術界で活躍しているアーティストに直接のインタビューを通して、その人生やアートの原点を紐解くものである。

私のふるさと・福井県出身の現代美術家で名前ぐらいは知っていたが、一週間にわたるインタビューで赤裸々に語る言葉にたくましくインターナショナルな世界で活躍してきた生き様を見て、驚きと敬意の念を強く抱いた。彼女は日本ではさほど知名度は高くないが、欧米ではフルクサスへの参加メンバーとして有名で、ニューヨークの近代美術館(MOMA)には16点の木工のアートワークが所蔵されている。斉藤陽子・フルクサスつながりで同じアーカイヴにあった靉嘔(アイオー)塩見允枝子(しおみみえこ)久保田成子(くぼたしげこ)も合わせ読んでみると彼らの関係性が見えてきた。

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丁度、ときの忘れもので「塩見允枝子 特別頒布会」が開催されていることもあり、「斉藤陽子」をとおしてフルクサスの日本人アーティストについて皆様に知ってもらう良い機会と思い、急遽筆を取った。

彼女は1929年に福井県鯖江市の大地主の家に生まれ、戦後日本女子大に学び(映画ばかり見ていたようだが)、福井に戻り、中学校の事務員、その後、国語と家庭科の先生になった。美術は好きだったようだが決して美術家を目指してはいなかった。そうそう、彼女の名前だがサイトウヨウコと思っていたが、正しくはサイトウタカコと読む。小学校の低学年のとき、父親が姓名判断でミサコから陽子と書いてタカコと読む名前に変えたようだ。

彼女は1963年に果敢にも単身でニューヨークに行き、そこで偶然にも靉嘔のロフトの2階に住むことから、隣のビルにいたフルクサスのジョージ・マチューナスらと出会い、フルクサスとの関係が深まった。
フルクサス運動は1960年代初頭にニューヨークではじまり、世界中に波及した前衛芸術のムーブメントで、美術、音楽、舞踏、詩の境界を横断する実験的な取り組みで、フルクサスの名のもと展覧会、コンサート、パーフォマンス、インスタレーションをはじめ、出版や作品の販売が行われた。その提唱者はリトアニア出身のジョージ・マチューナスとイギリス出身のディック・ヒギンズで、ナムジュン・パイクジョン・ケージら、日本人ではオノ・ヨーコ、靉嘔そしてここに登場する斉藤、塩見、久保田らが参加した。

タカコは1950年代はじめ、中学校の教員時代に福井の創造美育運動の草分け的存在の木水育男らと出会い、創美のメンバーとなった。創美の夏期ゼミナールに積極的に参加し、創美の提唱者でリーダーの久保貞次郎の考え方に強く影響を受けた。創美運動が求めた子供たちの自由闊達な絵は子供たちが持つ創造力の賜物であり、先生と生徒という上下の関係性でなく、対等ななかに生まれたものであるとの考え方に共感するとともに、無名のアーティストを支援する小コレクター運動についても「世界的に例のないすばらしい活動」と言い切った。彼女の作品やパーフォマンスを見ると創美運動の真髄が色濃く残っているように思える。

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創美との関わりから芸術に対する想いが強くなり、福井を飛び出し、東京へ。そして北海道(絵を描きながら日雇いに人夫をしていた。北海道時代の絵は久保が買ってくれ、旅費のたしとなった。)、さらに1963年に渡米(ニューヨーク)、その後フランス、イタリア、イギリス、ドイツへと世界が舞台となっていく。彼女は生来、大変器用で自分で洋服や木工品作りをやり、また料理も得意で、どんな仕事もいとわず、自然体で人と接し、様々な苦難(各国での滞在ビザの取得に苦労したようだ)もしなやかに乗り越えた。そして、フルクサスの一員として、キャリアを重ね、世界的なアーティストとして、91歳になった今も遊び心いっぱいで作品作りやパーフォマンスを続けている。

靉嘔へのインタビューによれば彼は一足早く1958年に日本を飛び出し、ニューヨークに渡った。その後、荒川修作や河原温が続いた。フランスへとも考えたようだが留学試験が難関だったこともあり、ジャクソン・ポロック、マルセル・デュシャンのいるアメリカを目指した。当時アメリカに入るにはオール・ギャランティ(身分保障)が必要で、美容家として首尾よく入国し、その後、アート・スチューデント・リーグの版画教室に入り学生ビザを取得した。彼の作品の評価が高く、作品も売れ出した。彼はカナル・ストリートにロフトを持ったが、そこでオノ・ヨーコの引き合わせで、フルクサスの共同創設者のディック・ヒギンズと出会い、ハプニングやパーフォマンスの手伝い、参加と関係が深まった。さらに、もう一人の創設者のジョージ・マチューナスが1964年、靉嘔のロフトの隣のビルに引っ越してきて、フルクサスの関係がさらに強くなった。同じ時にタカコが靉嘔のロフトの2階に引っ越したこともあり、自然とフルクサスの活動に関わることになった。1968年に欧州に渡るが、インタビューではニューヨーク時代、作品作りはしていたが、プロのアーティストとの自覚はなかったと述べている。そのため、作品を気軽に知人にあげていた。また、小コレクター運動の精神でまわりの作家の作品を購入していた。ニューヨークを離れてからは、フルクサスのアーティストと自覚し、作品作りやパーフォマンスに磨きをかけることになる。

1991年に福井市のディマンシュホールで「斉藤陽子展 遊びーパフォーマンスー」が創美の渡辺光一夫妻の尽力で開催された。当時、私は福井にいたにもかかわらず、残念ながら見逃した。30年近く前のことなので、この展覧会を体験した人は限られている。アートフル勝山のメンバーで美術喫茶サライの松村せつさんは歴史の貴重な目撃者の一人だ。突然、裸になって、母親の着物に着替える不思議なパーフォマンス「母と共に」等に感動したことを話してくれた。先日、この展覧会を記録した小冊子が見つかった。まさに当時の貴重な資料だ。

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今一度ニューヨークに戻るが、1964年、ジョージ・マチューナスの強いラブコールを受けて、一大決心をして塩見允枝子と久保田成子が連れ立って、ニューヨークにやってきた。当日はマチューナスが空港に2人を迎え、彼のロフトで靉嘔やナムジュン・パイクらも集い、タカコの手料理とともに、ささやかな歓迎会が開催された。タカコは絵画、塩見は音楽、久保田はもともと彫刻と分野も異なり、過ごしてきた人生も異なっている。ナムジュン・パイクが塩見の日本でやってきた前衛的なイベントやコンサートがフルクサスの活動そのものであると言い、マチューナスに作品(エンドレス・ボックス)を送ることをすすめたことから、塩見との交流がはじまった。久保田はオノ・ヨーコらからフルクサスのことを聞き、関心を高めた。そして教員をやめて、渡米を決めた。

塩見は一年間滞在し、日本に戻り、結婚と育児で一時期アーティスト活動を中断したが、現在までフルクサスのメンバーとして「消え行くものは美しい」の哲学のもと現在に至るまで精力的に活動を続けている。久保田はフルクサスの事務局的な仕事を手掛けるとともにナムジュン・パイクと結婚し、ビデオアートに活躍の場を移し、ナムジュン・パイクとともにビデオアーティストとして活躍した。惜しくも2015年に亡くなった。

今まで、フルクサスの活動にはさほど興味がなかったが、タカコとのご縁から、彼らの活動に興味を持った。彼らは芸術と生活を結びつける作品作りやイベント・パーフォマンスを遊び心いっぱいで実践してきた。当時は売れなかったようだが、多様なマルティプル作品を安い価格で販売していた。それが、今や貴重で、高価な芸術品となっているから、アートの世界は不思議で面白い。当時はみんな貧しい生活をしていたようだが、心が自由かつ豊かであったからこそ、歴史に残った。

靉嘔が福井県大野市で行った講演会の話を思い出した。彼が聴衆の前に現れ、まず演題の近くのボードに「自由、自由、自由・・・・・・」と書きはじめ、さらには講堂の床の上にも「自由、自由、自由・・・・」ひたすら書き続けて、退場。かくして講演会がすべて終了した。話を聞きに来た人は何事が起ったかと思ったに違いない。これこそがフルクサス流のイベントであり、パーフォマンスだと、納得した。

フルクサス運動に関わった彼女らのアートや生き方に興味を持った方は是非とも「日本美術オーラルヒストリーアーカイヴ」にアクセスしていただき、インタビューを読んでいただきたい。また、YouTubeで彼らのパーフォマンスを見ることも可能だ。

多くのアーティストがそれぞれの個性を発揮したフルクサスの前衛的な活動は現在でも新鮮に映る。コロナ禍で不安や不信がまん延するなか、改めてアートの持つ力を信じることができた。
あらいよしやす

●荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は偶数月の8日に掲載しています。

■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆

*画廊亭主敬白
昨日に続き荒井由泰さんのエッセイを掲載しました。
荒井さんの住む福井県勝山は九頭竜川に沿った山間の小さな町ですが、私たちは幾度もツアーを組みアート好きの皆さんをご案内してきました。2015年1月の「勝山への旅」では参加した皆さんがレポートしていますので、お読みください。
石原輝雄さん「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」に参加して~その1

浜田宏司さん「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」に参加して~その2

酒井実通男さん「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」に参加して~その3

◆ときの忘れものでは7月30日ブログで塩見允枝子 特別頒布会を開催中です。
006)An Incidental Story on the Day of a Solar Eclipse #1, #2, #3
日蝕の昼間の偶発的物語 1巻、2巻、3巻
An Incidental Story on the Night of a Lunar Eclipse #1, #2, #3
月蝕の昼間の偶発的物語 1巻、2巻、3巻(アタッシュケース入り)

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《An Incidental Story on the Day of a Solar Eclipse #1, #2, #3
An Incidental Story on the Night of a Lunar Eclipse #1, #2, #3
日蝕の昼間の偶発的物語 1巻、2巻、3巻
月蝕の昼間の偶発的物語 1巻、2巻、3巻》

2008/2019年 6部限定、サインとナンバー入り
ケースのサイズ:38×27×7cm
<タイトル同様、この作品には長い経緯があるのです。発端は1994年にフンデルトマルク画廊の「ブック・オブジェクト展」へ参加を依頼され、3冊の鍵の掛かった手書きの本を出品したことに遡ります。その後、この物語は改訂を重ねながら、平面作品としてパリのドンギュイ画廊で展示されたり、ナレーションや環境音その他を伴うパフォーマンスとなったり、1997年には神戸国際現代音楽祭で「日蝕の昼間の偶発的物語#1、#2、#3」として、ソプラノやピアノを交えた本格的な室内楽として初演されたりしました。
この物語が何故「偶発的」なのかと言いますと、日蝕が始まると同時に、或るピアニストがバッハのパルティータという組曲を弾き始め、彼女がプレリュードを弾いているときならP, アルマンドに移ったならAを頭文字に持つ単語を多用して紡がれているからです。PならPという文字で始まる単語は沢山ありますが、どれを選ぶかによって、お話しの内容はすっかり変わってきます。ここに綴られた物語は、その時の私の想像力や好みによって偶々選ばれた単語によって具体化されたものだからです。そしてここでは、日蝕や月蝕という天体の現象、パルティータという音楽的な時間、そして不特定の場所で起きる様々な出来事、という三つの層の時間が同時に流れています。
J. S. バッハには6曲のパルティータがありますが、第1番~3番を「日蝕の昼間の偶発的物語」に、第4番~第6番を「月蝕の夜の偶発的物語」に当てています。
2008年に豊田市美術館で「日本のアーティスト6人」と題する展覧会が開かれたとき、
この6つの物語に1枚のグランドピアノの写真の拡大・縮小コピーを切り貼りしたイラストと楽譜の一部を添え、一種の絵本として展示し、来場の方々に読んで頂きました。
このアタッシュケース入りの6巻からなる全集は、その時の原稿に手を加えて6部限定のクリアファイル本として作成したものです。(塩見允枝子記)>
お申込みはこちらから、またはメール(info@tokinowasuremono.com)にてお願いします。
※お問合せ、ご注文には、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してくださ

●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。