尾崎森平のエッセイ「長いこんにちは」第12回(最終回)
『絵画について・後編』
例えばオークション。オークションは出品された品を他の入札希望者の誰よりも欲しているという想いを最高額として示す。それがサザビーズやクリスティーズなどの高価な美術品を扱うオークションとなれば、落札した暁には物欲を満たすどころか名誉さえもついてくる。そのサザビーズとクリティーズの二大オークションにて2020年8月までに超高額で落札された歴代の作品を見てみれば、ダヴィンチ、ピカソ、モディリアーニ、クーニング、セザンヌ、バスキア、ベーコン、ムンク、ウォーホル、ジャコメッティなど、殆どが絵画(静止画)や彫刻などの立体作品がその上位を占める。では存命の高額落札作家はどうだろう。ジェフ・クーンズを筆頭にダミアン・ハースト、奈良美智、村上隆、バゼリッツ、キーファー、リチャード・プリンス…上位を占めるのは主に絵画や写真、立体作品を制作している作家の静止画と立体作品である。もちろんインスタレーションやパフォーマンスなどは再現性が難しく、そもそも売買されることを念頭に制作されていないものもあるし、セカンダリーマーケットでの価格が作品そのものの芸術的な価値や社会的・歴史的な重要さと必ずしも一致するわけではない。それを踏まえてもしかしである。高額落札作品の中になぜ静止画よりも情報量が多い、ハイスペックな映像作品やインスタレーション作品が入らないのか?
それは人間の欲望とは究極的に、欲する対象と自己との完璧な同一化にあるからだ。
子供が母親と同一化したいと願うエディプスコンプレックスなど最たる例だ。また、美味しいものを食べたいと欲することは、食べ物と自己とを同一化せんとする(まさに血肉とする)行為であり、ひとつの所有願望のかたちだ。性行為は相手の内臓に接触し、互いに相手を自身の内に取り込みたいと欲するが故の行為である(余談だけど「身体を重ねる」という言葉は、互いの肉体は同一化を永遠に阻む障壁であるのに、その障壁を重ね合わせることでしか同一化に近づいたと感じることが出来ないという切なく哀しい響きがあるよね…)。受験や就活も大学や会社という集団・組織、社会と自己を同一化させたいと欲するが故の行為で、度々人類が全体主義や民族主義に傾倒してしまうのもその欲望の為である。社会と自己とを積極的に同一化させようとする試みは、自己の内にも社会を取り込む相互関係である。
つまり、情報量が多くスペックの高い表現が、より鑑賞者の「自己同一化」の欲望を満たすというわけではないのだ。
話が横道に逸れかけた。時を戻そう。
インスタレーション作品は大型のものが多いが購入して所有することができるし、当然自宅で展示することもできる(広いスペースがあれば)。しかしインスタレーションの主役はあくまで作品が生み出す「空間」にあり、「空間」とは観念的なもので実体を持たない。所有し同一化したいという攻撃的な欲望はインスタレーションという「空間」= 己れの観念の内に手を伸ばすも、実体のない観念には指一本触れることはできず、まさに空を掴むごとくかわされ、所有も同一化も不完全に終わる。
では映像作品はどうか。映像作品は原理的に所有も同一化もできない。映像は物体ではなく光である。映像作品のマスターデータが入ったDVDを購入したとしても、それは映像データが保存されたDVDという物体を所有しているのであって、映像という光は所有できない。そして画面の内側でくり広げられる世界には指一本触れることもできない。映像はどこまでいっても二次元の世界であり、三次元を生きる我々とは別の空間・時間軸の世界なのだ。だから所有も同一化も永遠にできない。故に我々は欲望の対象である二次元上のアニメーションのキャラクターを観るだけでは満足できず、フィギュアとして実体化することで所有を実現し、挙げ句は等身大にまでする。愛する者を所有し、同一化したいと願う哀しい人間の性、業である。
人間の根源的な「自己同一化」という欲望は所有欲に反映される。しかしインスタレーション作品も映像作品も、欲望の矛先に実体がない。つまり究極的には所有ができないし、同一化もできない。
では絵画やポスターなどの静止画や立体作品はどうか。
遡ればエルズワース・ケリーのように、壁に並んだ絵画同士が、絵画と展示会場(建築)が魅力的な化学変化を起こすよう設計された絵画(オールオーヴァーの拡張はインスタレーションを志向する)というものを、ペインターは制作の方向性を決める上で一つ基準として持ってはいるが、絵画(静止画)はそもそもフレーム内で完結する独立した存在である。だから我々は静止画を鑑賞する際にはその前に立ち、フレームの内に描かれたあらゆる情報を読み取ろうと目を細める。そこで我々は静止画と差し向かい、無言の会話をする。
フレーム内で作品が完結するのは静止画だけでなく映像作品も同様である。しかし映像の主役は三次元上のスクリーンやモニター、つまりフレームではなく投射される映像である為、映像作品の画とフレームは同一ではない。主役は虚像であり、スイッチを消せば消えてしまうのだ。反対に絵の具などの描画材や印刷用インクなどで構成される静止画の画とフレームは同一である。主役であるフレーム内の画はそのまま静止画を構成し、三次元に鎮座する。
つまり、インスタレーション作品や映像作品とは違い、静止画や立体作品は所有することができるのだ。それは単に購入することができるという意味だけではなく、実体を持ち、我々と同じ次元に存在し、同じように歳をとり、差し向かって会話することができる彼らを見る(鑑賞する)ということが所有する行為なのだ。指全本で触れることができるし、一思いにこの手で殺す(破壊する)こともできるのだ。空間という観念や虚像の光は殺すことができない。それらに欲望を向けても月のように逃げていく。しかし静止画や立体作品はこの暴力的な「自己同一化」の欲望を受け止めてくれる。だから手に入れたくなるのだ。美味しい食事や愛する人の身体や心のように。だから買うのだ、ダヴィンチやクーニングやウォーホルの作品を。
静止画がどれだけインスタレーションや動画よりも情報量が劣る低スペックであったとしても、人間が欲望によって駆動する動物である限り、絵画もポスターも死ぬことはないのだ。
もうお分かりだと思うが、それでも作品との自己同一化は絶対に叶わない。父親という壁に阻まれて無意識下へと沈んでいくエディプスコンプレックのように。愛する人との性行為がどこまでも他人であることの確認になってしまうように、自己同一化への欲望はすべて夢に終わるのだ。それでも、そこにあるアーティストの創作の痕跡と、息遣いと思想を欲して、僕らは性懲りもなく愛し、所有し、重なり合いたくなってしまうのだ。それが人間なのだ。
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一年をかけた長い長いこんにちはとなりました。アーティストの尾崎 森平でした。こんにちはの挨拶が終わったら、すぐにさようならの挨拶だなんて、これは僕の絵の「Hello,Goodbye」を載せてもらわなきゃ(もちろんこの絵のタイトルはビートルズの名曲からです)。
あ、そうだ!。現在、版画の販売サイトを制作中です。近々完成予定ですので是非チェックしてください!
さてさて、ビートルズも良いのですが、お別れにピッタリな歌を僕と同じ苗字の偉大なシンガーが歌っていましたね。ふふ、実は僕のカラオケの隠し球でもあります。ここ一番のときに歌うんです。今がその時ですね。白いスーツを着て高らかに歌い上げて、お別れの挨拶と代えさせて頂きます。
それでは、また逢う日まで。
【タイトル】Hello,Goodbye
【サイズ】1220×2440×50mm
【素材】アクリル、キャンバス、パネル
【制作年】2009年
(おざき しんぺい)
■尾崎森平 Shinpey OZAKI
1987年仙台市生まれ 。岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース卒業。現代の東北の景色から立ち現れる神話や歴史的事象との共振を描く。2016年「VOCA 2016 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち 」大原美術館賞 。平成27年度 岩手県美術選奨。2019年4月ときの忘れもの「Tricolore2019―中村潤・尾崎森平・谷川桐子展」に出品。2020年2月リアスアーク美術館個展「N.E.blood 21 vol.73 尾崎森平展」、2020年2月ギャラリー ターンアラウンド個展「1 9 4 2 0 2 0」開催。
ホームページ https://shinpeywarhol.wixsite.com/ozaki-shinpey
●本日のお勧め作品は宇田義久です。
宇田義久 Yoshihisa UDA
"leafisheed 13-1(blue)"
2013年
板、木綿布、アクリル絵具、ウレタンニス
30.0×17.5×8.5cm
裏面にサインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
『絵画について・後編』
例えばオークション。オークションは出品された品を他の入札希望者の誰よりも欲しているという想いを最高額として示す。それがサザビーズやクリスティーズなどの高価な美術品を扱うオークションとなれば、落札した暁には物欲を満たすどころか名誉さえもついてくる。そのサザビーズとクリティーズの二大オークションにて2020年8月までに超高額で落札された歴代の作品を見てみれば、ダヴィンチ、ピカソ、モディリアーニ、クーニング、セザンヌ、バスキア、ベーコン、ムンク、ウォーホル、ジャコメッティなど、殆どが絵画(静止画)や彫刻などの立体作品がその上位を占める。では存命の高額落札作家はどうだろう。ジェフ・クーンズを筆頭にダミアン・ハースト、奈良美智、村上隆、バゼリッツ、キーファー、リチャード・プリンス…上位を占めるのは主に絵画や写真、立体作品を制作している作家の静止画と立体作品である。もちろんインスタレーションやパフォーマンスなどは再現性が難しく、そもそも売買されることを念頭に制作されていないものもあるし、セカンダリーマーケットでの価格が作品そのものの芸術的な価値や社会的・歴史的な重要さと必ずしも一致するわけではない。それを踏まえてもしかしである。高額落札作品の中になぜ静止画よりも情報量が多い、ハイスペックな映像作品やインスタレーション作品が入らないのか?
それは人間の欲望とは究極的に、欲する対象と自己との完璧な同一化にあるからだ。
子供が母親と同一化したいと願うエディプスコンプレックスなど最たる例だ。また、美味しいものを食べたいと欲することは、食べ物と自己とを同一化せんとする(まさに血肉とする)行為であり、ひとつの所有願望のかたちだ。性行為は相手の内臓に接触し、互いに相手を自身の内に取り込みたいと欲するが故の行為である(余談だけど「身体を重ねる」という言葉は、互いの肉体は同一化を永遠に阻む障壁であるのに、その障壁を重ね合わせることでしか同一化に近づいたと感じることが出来ないという切なく哀しい響きがあるよね…)。受験や就活も大学や会社という集団・組織、社会と自己を同一化させたいと欲するが故の行為で、度々人類が全体主義や民族主義に傾倒してしまうのもその欲望の為である。社会と自己とを積極的に同一化させようとする試みは、自己の内にも社会を取り込む相互関係である。
つまり、情報量が多くスペックの高い表現が、より鑑賞者の「自己同一化」の欲望を満たすというわけではないのだ。
話が横道に逸れかけた。時を戻そう。
インスタレーション作品は大型のものが多いが購入して所有することができるし、当然自宅で展示することもできる(広いスペースがあれば)。しかしインスタレーションの主役はあくまで作品が生み出す「空間」にあり、「空間」とは観念的なもので実体を持たない。所有し同一化したいという攻撃的な欲望はインスタレーションという「空間」= 己れの観念の内に手を伸ばすも、実体のない観念には指一本触れることはできず、まさに空を掴むごとくかわされ、所有も同一化も不完全に終わる。
では映像作品はどうか。映像作品は原理的に所有も同一化もできない。映像は物体ではなく光である。映像作品のマスターデータが入ったDVDを購入したとしても、それは映像データが保存されたDVDという物体を所有しているのであって、映像という光は所有できない。そして画面の内側でくり広げられる世界には指一本触れることもできない。映像はどこまでいっても二次元の世界であり、三次元を生きる我々とは別の空間・時間軸の世界なのだ。だから所有も同一化も永遠にできない。故に我々は欲望の対象である二次元上のアニメーションのキャラクターを観るだけでは満足できず、フィギュアとして実体化することで所有を実現し、挙げ句は等身大にまでする。愛する者を所有し、同一化したいと願う哀しい人間の性、業である。
人間の根源的な「自己同一化」という欲望は所有欲に反映される。しかしインスタレーション作品も映像作品も、欲望の矛先に実体がない。つまり究極的には所有ができないし、同一化もできない。
では絵画やポスターなどの静止画や立体作品はどうか。
遡ればエルズワース・ケリーのように、壁に並んだ絵画同士が、絵画と展示会場(建築)が魅力的な化学変化を起こすよう設計された絵画(オールオーヴァーの拡張はインスタレーションを志向する)というものを、ペインターは制作の方向性を決める上で一つ基準として持ってはいるが、絵画(静止画)はそもそもフレーム内で完結する独立した存在である。だから我々は静止画を鑑賞する際にはその前に立ち、フレームの内に描かれたあらゆる情報を読み取ろうと目を細める。そこで我々は静止画と差し向かい、無言の会話をする。
フレーム内で作品が完結するのは静止画だけでなく映像作品も同様である。しかし映像の主役は三次元上のスクリーンやモニター、つまりフレームではなく投射される映像である為、映像作品の画とフレームは同一ではない。主役は虚像であり、スイッチを消せば消えてしまうのだ。反対に絵の具などの描画材や印刷用インクなどで構成される静止画の画とフレームは同一である。主役であるフレーム内の画はそのまま静止画を構成し、三次元に鎮座する。
つまり、インスタレーション作品や映像作品とは違い、静止画や立体作品は所有することができるのだ。それは単に購入することができるという意味だけではなく、実体を持ち、我々と同じ次元に存在し、同じように歳をとり、差し向かって会話することができる彼らを見る(鑑賞する)ということが所有する行為なのだ。指全本で触れることができるし、一思いにこの手で殺す(破壊する)こともできるのだ。空間という観念や虚像の光は殺すことができない。それらに欲望を向けても月のように逃げていく。しかし静止画や立体作品はこの暴力的な「自己同一化」の欲望を受け止めてくれる。だから手に入れたくなるのだ。美味しい食事や愛する人の身体や心のように。だから買うのだ、ダヴィンチやクーニングやウォーホルの作品を。
静止画がどれだけインスタレーションや動画よりも情報量が劣る低スペックであったとしても、人間が欲望によって駆動する動物である限り、絵画もポスターも死ぬことはないのだ。
もうお分かりだと思うが、それでも作品との自己同一化は絶対に叶わない。父親という壁に阻まれて無意識下へと沈んでいくエディプスコンプレックのように。愛する人との性行為がどこまでも他人であることの確認になってしまうように、自己同一化への欲望はすべて夢に終わるのだ。それでも、そこにあるアーティストの創作の痕跡と、息遣いと思想を欲して、僕らは性懲りもなく愛し、所有し、重なり合いたくなってしまうのだ。それが人間なのだ。
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一年をかけた長い長いこんにちはとなりました。アーティストの尾崎 森平でした。こんにちはの挨拶が終わったら、すぐにさようならの挨拶だなんて、これは僕の絵の「Hello,Goodbye」を載せてもらわなきゃ(もちろんこの絵のタイトルはビートルズの名曲からです)。
あ、そうだ!。現在、版画の販売サイトを制作中です。近々完成予定ですので是非チェックしてください!
さてさて、ビートルズも良いのですが、お別れにピッタリな歌を僕と同じ苗字の偉大なシンガーが歌っていましたね。ふふ、実は僕のカラオケの隠し球でもあります。ここ一番のときに歌うんです。今がその時ですね。白いスーツを着て高らかに歌い上げて、お別れの挨拶と代えさせて頂きます。
それでは、また逢う日まで。
【タイトル】Hello,Goodbye 【サイズ】1220×2440×50mm
【素材】アクリル、キャンバス、パネル
【制作年】2009年
(おざき しんぺい)
■尾崎森平 Shinpey OZAKI
1987年仙台市生まれ 。岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース卒業。現代の東北の景色から立ち現れる神話や歴史的事象との共振を描く。2016年「VOCA 2016 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち 」大原美術館賞 。平成27年度 岩手県美術選奨。2019年4月ときの忘れもの「Tricolore2019―中村潤・尾崎森平・谷川桐子展」に出品。2020年2月リアスアーク美術館個展「N.E.blood 21 vol.73 尾崎森平展」、2020年2月ギャラリー ターンアラウンド個展「1 9 4 2 0 2 0」開催。
ホームページ https://shinpeywarhol.wixsite.com/ozaki-shinpey
●本日のお勧め作品は宇田義久です。
宇田義久 Yoshihisa UDA"leafisheed 13-1(blue)"
2013年
板、木綿布、アクリル絵具、ウレタンニス
30.0×17.5×8.5cm
裏面にサインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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