■今週のWATANUKI'S CHOICE/
第42回/2021年2月9日/マン・レイ「モデル エルザ
マン・レイ《モデル エルザ》マン・レイ Man RAY「モデル エルザ」
1935年頃 ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:31.9×26.0cm
シートサイズ:38.3×27.9cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント

前衛芸術家とは異なる、職業写真家としての自分を前面に出したマン・レイのファッションポートレートの逸品です。
モデルは女性ファッションデザイナーのエルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli/1890-1973)。
作品は2002年にBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「マン・レイ写真展」のカタログに掲載された《468. スキャパレリのモード》(c.1935)に酷似した構図ですが、顔の角度が微妙に異なります(カタログ掲載の作品は右目が見えない)。《468. スキャパレリのモード》を撮影した際に連続して撮影されたネガを、後年ピエール・ガスマンがより大きいサイズで現像したものと思われます。

イタリア・ローマ生まれのエルザ・スキャパレリは1920年代から1930年代にかけて、女性のファッションに新風を吹き込み、現代に続く流れを作った功績者ですが、ライバルのシャネルに比べて知名度は低く、その業績もファッション業界でも長く埋もれていました。
1930~1940年代にはガブリエル・シャネルと共に、パリのオート・クチュール界に女帝として君臨し、サルバドール・ダリ、ジャン・コクトー、マン・レイ、ジャコメッティたちとの交流を深め、アートとファッションの融合を図ったことから、モード界・ファッション界のシュルレアリストととも呼ばれています。上記の作家たちとのコラボレーション以外にも、騙し絵をデザインに取り込んだ「トロンプルイユ」シリーズやショッキングピンクを色彩に用いるなど、独創的なデザインを発表する他、ファッションデザインを一年を通して行うのではなく、春と秋の二回のファッションショーで集中的に行うことを提案するなど、今日のファッション業界に多大な影響を残しました。

マン・レイは写真家としても著名ですが、その活動開始は1921年にパリに移住してからで、その理由も芸術ではなく、生活の糧を得るための職業写真家としてでした。初期はシュルレアリスト作家達の作品の記録撮影を行い、後に作家達のポートレートや集合写真を手掛け、やがてヴォーグやハーパース・バザーなどで発表され、高い評価を獲得します。1940年にはハーパース・バザーからアメリカでの専属契約を持ち掛けられますが、彼はそれを断り、以後は私的な撮影以外は写真に関わらず、画家としての制作活動に傾注していきました。

ピエール・ガスマン(Pierre Gassmann/1913-2004)は1913年ポーランド・ヴロツワフ生まれの写真家、フォト・ジャーナリスト。ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロベール・ドアノー等と交友し、1950年にプレス、ファッション、広告写真を取り扱う写真ラボ「Pictorial Service」(1963年にPictoへ改名)を設立し、それまで撮影者自身が行っていた現像作業を商業レベルで引き受ける場を設けました。これにより、カルティエ=ブレッソンのオリジナルプリントの現像を手掛けるようになった他、マンレ・レイを始め、多くの作家のモダンプリントを制作しました。
1947年のマグナム・フォトの設立の際にも、初期メンバーの一人として携わっています。常に新しい技術に貪欲で、1997年頃(当時81歳)にはアップルマッキントッシュを購入し、デジタル画像について学んでいました。

いわゆるガスマン・プリントとは、主に作家達の残したネガを用いて現像されたモダンプリント。
アンリ・カルティエ=ブレッソンのように、オリジナルの段階でガスマンが現像し、作家がサインしたプリントも存在します。
1995年のインタビューで、ガスマンは以下のように自己を語っています:
写真家というのは作曲家だ。彼等が書き出した楽譜を、指揮者である私が解釈するのさ

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・小林美香「写真のバックストーリー第29回 マン・レイ”ジュリエット”

・石原輝雄「マン・レイへの写真日記」全24回

石原輝雄のエッセイ(ただいま連載中)

・石原輝雄「ウィーンでのマン・レイ展報告

・銀紙書房『光の時代 レイヨグラフを中心とした、マン・レイと三條廣道辺り

・宮脇愛子「私が出逢った作家たち~マン・レイのこと

マン・レイによる宮脇愛子ポートレート