「マン・レイとパリの作家たち」

 読者の皆様こんにちは。案の定非常事態宣言が延長された中、皆様いかがお過ごしでしょうか? イギリス生活が長いおかげで、昨日も今日もコンビニグルメとスーパーのお弁当が美味しい、スタッフSこと新澤です。

 自虐ネタはさて置きまして、現在開催中の「銀塩写真の魅力Ⅶ 20世紀の肖像」では、表現分野が多彩な広がりを魅せた20世紀において活躍した、稀有な表現者たちの肖像写真を展示中です。今回はその中からマン・レイの作品を紹介させていただきます。

 マン・レイといえば同時代の作家たちの肖像写真やヴォーグ等のファッション写真で知られていますが、その始まりはというと、1921年にパリに移住した際に生活の糧を稼ぐためという、何とも生臭いものでした。ですが、この後20年に亘る彼の写真家としての活動はレイヨグラフやソラリゼーション等の技法の開発に結び付き、アートのみならず、ダダやシュルレアリスムの資料としても価値のある作品を多数生み出すことになりました。

ManRay_51マン・レイ
星型の剃髪(マルセル・デュシャン)
1921年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:34.7×26.2cm
シートサイズ:39.1×29.7cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント
 マン・レイとマルセル・デュシャンの付き合いは古く、マン・レイがパリで写真家として活動を始める前、NYで活動していた1910年代半ばにまで遡ります。1914年に第一次世界大戦の戦火から逃れるべく、フランスからアメリカに移住してきたデュシャンは、その頃に絵画に動的な要素を付け加えることを試行しており、彼と親交を持ったことにより、その後マン・レイ自身の作品にも動的な要素が現れ始めました。1920年にはマン・レイはデュシャン初期のキネティックアートの代表作である"Rotary Glass Plates"の制作を手伝ったり、ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラよりお墨付きを与えられることになる、1号のみの刊行となった「ニューヨーク・ダダ」の発行を共同で行いましたが、NYとダダイズム(反芸術主義)はあまり相性が良くなかったようで、マン・レイは「ダダの実験はニューヨークにあわなかった。なぜならニューヨーク全体がダダであり、ヨーロッパのようにライバルとなる旧勢力が存在しなかったからだ」と語っています。
 この翌年の1921年にはデュシャンは故郷であるフランスに戻りますが、この時にマン・レイもパリに来るように誘っています。当時開催した3回目の個展の結果が芳しくなく、また離婚してスタジオで一人暮らしだったマン・レイはこの誘いに乗ってパリ・モンパルナスに移住しました。デュシャンはこの時、マン・レイのためにパリの生活拠点として自分と同じアパートメントを手配するなど、二人の親密さが伺えます。
 《星型の剃髪(マルセル・デュシャン)》はタイトルの通り、デュシャンが星形に剃った後頭部を撮影した作品です。これはデュシャンがブエノスアイレスでシラミに寄生されてしまい、フランス帰国後に剃髪をせざるをえなくなった結果だそうですが、わざわざこのような髪型にしたのは、通常は丸く剃髪して信仰の純粋さを表現するカトリック僧に対する、デュシャンのダダ的(反教権主義的)なリアクションではないかと言われています。

ManRay_49マン・レイ
アンドレ・ブルトン
c.1930年(モダンプリント1990年)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:30.2×24.4cm
シートサイズ:35.6×26.4cm
裏面にスタンプあり
※ピエール・ガスマンによるモダンプリント
 デュシャンと比べると短くなりますが、ブルトンとマン・レイの付き合いもまた長いものでした。1921年7月、パリへ移住したマン・レイはサン・ラザール駅でデュシャンに迎えられ、その日の内にアンドレ・ブルトンを紹介されたといいます。
 ダダの創始者であるトリスタン・ツァラと対立を深め、1924年のシュルレアリスム宣言を持ってダダイズムと袂を別った後もマン・レイとブルトンの親交は続き、マン・レイはシュルレアリスムの重要人物として認識されていきますが、ダダ・シュルレアリスムのどちらの正式のメンバーではありませんでした。ですが、ダダ・シュルレアリスムの「公証人」を自任したマン・レイは公私にわたって彼等の活動を撮影し、当然シュルレアリスムの旗頭であったブルトンも多く撮影しました。
 パトリック・ワルドベルグ著「シュルレアリスム」のインタビューで、マン・レイはブルトンを雄々しく、人の上に立つ人物として「ライオンのよう」と形容しています。ですが、モデルにしてみるとそれは持ち上げすぎと感じていたようで、ブルトン本人はパスポート写真のような凡庸な写真を好んだそうです。マン・レイはこれに「立派なのは写真じゃないよ。被写体が立派すぎるんだよ」と返しているのが印象的です。また、造形的にもブルトンはマン・レイの眼鏡に適ったようで、同著内で自分が彫刻家だったら彼をこそ彫刻したし、自らが開発したソラリゼーションはヌードや「良い横顔」の輪郭を強調するために使用するもので、だからこそブルトンのポートレートに使用したと語っています。
 ブルトンの死後、彼の墓石に刻まれた「私は時の黄金を探す」というフレーズを自らの時計のブレスレットに刻むなど、その影響は大きかったようです。

(しんざわ ゆう)

画廊亭主敬白
倉俣史朗ファンに
堀江敏幸ファンに
批評の可能性に興味がある人に
ぜひ読んでほしい。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53444413.html
(20210216/kenjiro hosakaさんのtwitterより)>
昨夜(深夜)から突如ブログへのアクセスが激増し、何事かと思ったら1月31日ブログの堀江敏幸先生の「かぎりなく喪失を所有する薔薇――倉俣史朗展」へのアクセスでした。どうやら東京国立近代美術館から滋賀県立近代美術館の館長に転じられた保坂健二朗先生のtwitterに触発された皆さんからのアクセスです。フォロワーが1万6千人もいらっしゃるなんて驚きです。
保坂先生、ありがとうございます!

◆「銀塩写真の魅力Ⅶ 20世紀の肖像」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望の方は事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年2月12日(金)―3月6日(土)*日・月・祝日休廊
327_a327_bマン・レイボブ・ウィロビーロベール・ドアノーエドワード・スタイケン金坂健二細江英公安齊重男平嶋彰彦の8人の写真家たちが撮った20世紀を代表する優れた表現者た ち(ピカソ、アンドレ・ブルトン、A.ヘップバーン、A.ウォーホル、ブランクーシ、 三島由紀夫、イサム・ノグチ、黒澤明、他)のポートレートをご覧いただきます。
出品全作品の詳細は2月9日のブログをご覧ください。
気鋭の写真史家・打林 俊先生には「怒号にさざめく現像液-細江英公の〈薔薇刑〉をめぐって」をご寄稿いただきました。

●打林 俊先生によるギャラリートークもYouTubeにて公開しております。
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也


●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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