中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第7回
高木凛『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』(講談社 2013年)
『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』
著:高木 凛
発売日:2013年06月19日
判型 四六
ページ数 266ページ
表紙は渡邊庄三郎が刊行した伊東深水の「対鏡」1916年
本書はいわゆる「新版画」、大正初期から戦後まで制作され、海外ではShin-hangaとして広まった木版画を世に送り出した渡邊庄三郎の生涯をたどっている。
著者の高木凛は脚本家・ノンフィクション作家で、未見の展覧会『よみがえる浮世絵:うるわしき大正新版画』図録(東京都江戸東京博物館、2009年)から、かつてドイツ旅行中に偶然見たのが「対鏡」と知って興味を抱く。そして”一人の男によって仕掛けられた「大正の浮世絵」” “渡邊庄三郎の死とともに終焉の時を迎えた”「新版画」の、 “誕生の経緯をたどってみたいという衝動にかられた”という。
仕掛けるという言葉がふさわしいほどの商才を発揮し、版画の新機軸に臨んだ浮世絵商兼版元である。
当時31歳の庄三郎が、まだ18歳ながら画才に期待を寄せられていた日本画家の深水に熱意を伝え、ともに挑んだのが「対鏡」だった。刷り重ねの紅で深みを出し、背景にはバレンの跡を大胆に残す「ザラ摺り」を施した同作のように、庄三郎の念頭にあったのは新奇の美術である。浮世絵全盛期の他彫・他摺の熟練技、版元主導の出版形態を踏襲するも、そこに版元・画家への彫師・摺師の共鳴がなくてはならなかった。副題の浮世絵再興をそのまま「新版画」の特色とみなしては語弊があろう。
この試みの発端は1914年。オーストリアの画家フリッツ・カペラリとの試作に自信を得て、翌1915年に意中の34歳の画家、橋口五葉に依頼した。同書によれば1916年に渾身の「浴場の女」が完成したが、浮世絵に造詣の深い五葉は満足しなかった。自ら1918年に私家版の木版画「化粧の女」、1920年に「髪梳ける女」などを発表して新境地を開く。庄三郎の方は深水のほか、川瀬巴水、伊藤総山、笠松紫浪、高橋松亭、山村耕花、吉田博ら、カペラリ以外の欧米作家とも組んで刊行・頒布を続け、その成果を1921年に「新作板畫(板画)展覧会」の形で発表する。情緒あふれる主題にモダンでみずみずしい大正の気風をもつ200点余りの作品群は、国内はもとより海外の関心をひいた。
ところでこの時でさえ「新作板畫」だった「新版画」の概念を、庄三郎はどう考えていたのだろうか。著者は「創作版畫出版に就いて」という一文に触れ、のちに名称が統一されていくとだけ述べている。カペラリ作品とともにあったメモの“日本でも初めての新版画”は固有の語と断言できず、同書の底本である私家版『渡辺庄三郎』(渡辺木版美術画舗、1974年)をあたっても定まらない。名のつかない、新しいものへ突き動かされていたことだけがわかる。
一介の若き商人がなぜここまでの情熱を持てたのか。
生い立ちを要約すると、1885年、明治18年に五霞村(茨城県五霞町)の大工の家に生まれた庄三郎は東京へ奉公に出され、貿易商人への夢を抱く。17歳で美術輸出商の二代目小林文七商店に雇われて浮世絵を知り、1909年、若干21歳で独立。当時、浮世絵のなかでも一枚物の版画(錦絵)は品薄で、古版木を刷り直して時代色をつけた「模造版画」が考案されていた。対して庄三郎は良心的な復刻や輸出用新作版画の刊行を信条とし、1914年に美術史家の藤懸静也と「浮世絵研究会」を発足して浮世絵の復刻画集刊行に心血を注ぐ。さらに念願の「新版画」に着手した。1923年の関東大震災で自宅と店舗を失うも、海外向けの商材できりぬけて刊行を再開。1926年、昭和元年を迎える頃には庄三郎の「新版画」に追随する版元や作家が増えた。
しかし日米開戦直前の関係悪化がその発展を妨げる。アメリカの「新版画」コレクター、ロバート・ムラーがギャラリーの閉廊を余儀なくされるという悲劇もあった。戦後はもう海外の活況が戻ることはなかったが、1980年代に再評価の動きが生まれる。庄三郎はそれを知ることなく川瀬巴水の「平泉金色堂」版画化を終え、1962年にこの世を去る。浮世絵研究や版画刊行の功績に紫綬褒章が与えられている。
「新版画」のユニークな点は、海外との強いネットワークだろう。浮世絵リバイバルとの紹介も後の展覧会で改められる。しかし戦後になって「創作版画」や後進の版画家の芸術性に光が当たると、商業と美術をまたぐ版画の混迷のなかに置き去りにされた感がある。
著者はその商業面に紙面を割いている。引用元の『紙魚の昔がたり』を、昭和9年版の訪書会叢書第一編下巻「第六話 浮世繪商の今と昔」(訪書会、1934年)で読んだ。語り手は玩古洞・竹田泰次郎。叔父で明治の最初期の浮世絵商、吉田金兵衛から聞いた話として、外国人客の買い上げによって二束三文だった錦絵の予期せぬ高騰や「模造版画」の容認、大コレクターの買い方、地本問屋(江戸時代の出版業)だった商家の蔵に眠る幻の錦絵、数々のスリリングな談話が続く。幕末期の出版事情の顛末がかいま見える。さらに庄三郎少年を預かった小林文七という人物は新進気鋭の浮世絵商で、一時サンフランシスコに支店を持ち、晩年は浮世絵の編纂史を構想して肉筆画や錦絵、絵本の大蒐集家だったとある。岩切信一郎『明治版画史』(吉川弘文館、2009年)によれば、ヘレン・ハイドら来日画家の木版画も出版した。庄三郎は文七を追っていたのだろうか。
こうした画商・版元中心の相関図は学術的な通史をかすめるように広がっている。起業家スティーブ・ジョブズの「新版画」コレクションはともかく、本書では触れられないが建築家アントニン・レーモンドの妻でデザイナーのノエミ・レーモンドの木版画などが思い出され、その広がりに興味が尽きない。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は2021年7月19日の予定です。
●本日のお勧めは織田一磨です。
織田一磨 Kazuma ODA
《大阪風景 住吉》
1918年
石版
イメージサイズ:43.0×28.0cm
シートサイズ:48.5×33.5cm
サインあり
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●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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高木凛『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』(講談社 2013年)
『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』著:高木 凛
発売日:2013年06月19日
判型 四六
ページ数 266ページ
表紙は渡邊庄三郎が刊行した伊東深水の「対鏡」1916年
本書はいわゆる「新版画」、大正初期から戦後まで制作され、海外ではShin-hangaとして広まった木版画を世に送り出した渡邊庄三郎の生涯をたどっている。
著者の高木凛は脚本家・ノンフィクション作家で、未見の展覧会『よみがえる浮世絵:うるわしき大正新版画』図録(東京都江戸東京博物館、2009年)から、かつてドイツ旅行中に偶然見たのが「対鏡」と知って興味を抱く。そして”一人の男によって仕掛けられた「大正の浮世絵」” “渡邊庄三郎の死とともに終焉の時を迎えた”「新版画」の、 “誕生の経緯をたどってみたいという衝動にかられた”という。
仕掛けるという言葉がふさわしいほどの商才を発揮し、版画の新機軸に臨んだ浮世絵商兼版元である。
当時31歳の庄三郎が、まだ18歳ながら画才に期待を寄せられていた日本画家の深水に熱意を伝え、ともに挑んだのが「対鏡」だった。刷り重ねの紅で深みを出し、背景にはバレンの跡を大胆に残す「ザラ摺り」を施した同作のように、庄三郎の念頭にあったのは新奇の美術である。浮世絵全盛期の他彫・他摺の熟練技、版元主導の出版形態を踏襲するも、そこに版元・画家への彫師・摺師の共鳴がなくてはならなかった。副題の浮世絵再興をそのまま「新版画」の特色とみなしては語弊があろう。
この試みの発端は1914年。オーストリアの画家フリッツ・カペラリとの試作に自信を得て、翌1915年に意中の34歳の画家、橋口五葉に依頼した。同書によれば1916年に渾身の「浴場の女」が完成したが、浮世絵に造詣の深い五葉は満足しなかった。自ら1918年に私家版の木版画「化粧の女」、1920年に「髪梳ける女」などを発表して新境地を開く。庄三郎の方は深水のほか、川瀬巴水、伊藤総山、笠松紫浪、高橋松亭、山村耕花、吉田博ら、カペラリ以外の欧米作家とも組んで刊行・頒布を続け、その成果を1921年に「新作板畫(板画)展覧会」の形で発表する。情緒あふれる主題にモダンでみずみずしい大正の気風をもつ200点余りの作品群は、国内はもとより海外の関心をひいた。
ところでこの時でさえ「新作板畫」だった「新版画」の概念を、庄三郎はどう考えていたのだろうか。著者は「創作版畫出版に就いて」という一文に触れ、のちに名称が統一されていくとだけ述べている。カペラリ作品とともにあったメモの“日本でも初めての新版画”は固有の語と断言できず、同書の底本である私家版『渡辺庄三郎』(渡辺木版美術画舗、1974年)をあたっても定まらない。名のつかない、新しいものへ突き動かされていたことだけがわかる。
一介の若き商人がなぜここまでの情熱を持てたのか。
生い立ちを要約すると、1885年、明治18年に五霞村(茨城県五霞町)の大工の家に生まれた庄三郎は東京へ奉公に出され、貿易商人への夢を抱く。17歳で美術輸出商の二代目小林文七商店に雇われて浮世絵を知り、1909年、若干21歳で独立。当時、浮世絵のなかでも一枚物の版画(錦絵)は品薄で、古版木を刷り直して時代色をつけた「模造版画」が考案されていた。対して庄三郎は良心的な復刻や輸出用新作版画の刊行を信条とし、1914年に美術史家の藤懸静也と「浮世絵研究会」を発足して浮世絵の復刻画集刊行に心血を注ぐ。さらに念願の「新版画」に着手した。1923年の関東大震災で自宅と店舗を失うも、海外向けの商材できりぬけて刊行を再開。1926年、昭和元年を迎える頃には庄三郎の「新版画」に追随する版元や作家が増えた。
しかし日米開戦直前の関係悪化がその発展を妨げる。アメリカの「新版画」コレクター、ロバート・ムラーがギャラリーの閉廊を余儀なくされるという悲劇もあった。戦後はもう海外の活況が戻ることはなかったが、1980年代に再評価の動きが生まれる。庄三郎はそれを知ることなく川瀬巴水の「平泉金色堂」版画化を終え、1962年にこの世を去る。浮世絵研究や版画刊行の功績に紫綬褒章が与えられている。
「新版画」のユニークな点は、海外との強いネットワークだろう。浮世絵リバイバルとの紹介も後の展覧会で改められる。しかし戦後になって「創作版画」や後進の版画家の芸術性に光が当たると、商業と美術をまたぐ版画の混迷のなかに置き去りにされた感がある。
著者はその商業面に紙面を割いている。引用元の『紙魚の昔がたり』を、昭和9年版の訪書会叢書第一編下巻「第六話 浮世繪商の今と昔」(訪書会、1934年)で読んだ。語り手は玩古洞・竹田泰次郎。叔父で明治の最初期の浮世絵商、吉田金兵衛から聞いた話として、外国人客の買い上げによって二束三文だった錦絵の予期せぬ高騰や「模造版画」の容認、大コレクターの買い方、地本問屋(江戸時代の出版業)だった商家の蔵に眠る幻の錦絵、数々のスリリングな談話が続く。幕末期の出版事情の顛末がかいま見える。さらに庄三郎少年を預かった小林文七という人物は新進気鋭の浮世絵商で、一時サンフランシスコに支店を持ち、晩年は浮世絵の編纂史を構想して肉筆画や錦絵、絵本の大蒐集家だったとある。岩切信一郎『明治版画史』(吉川弘文館、2009年)によれば、ヘレン・ハイドら来日画家の木版画も出版した。庄三郎は文七を追っていたのだろうか。
こうした画商・版元中心の相関図は学術的な通史をかすめるように広がっている。起業家スティーブ・ジョブズの「新版画」コレクションはともかく、本書では触れられないが建築家アントニン・レーモンドの妻でデザイナーのノエミ・レーモンドの木版画などが思い出され、その広がりに興味が尽きない。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。次回は2021年7月19日の予定です。
●本日のお勧めは織田一磨です。
織田一磨 Kazuma ODA《大阪風景 住吉》
1918年
石版
イメージサイズ:43.0×28.0cm
シートサイズ:48.5×33.5cm
サインあり
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●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
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