小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」第48回

小説を読む効能を考えたとき、しばしば言われることではありますが「他人の人生を生きることができる」ということがあります。もちろん、自分自身を振り返ってみるに、なんらかの効能を期待して小説を読んでいるわけではないし、効能が薄い=小説としてのクオリティが低い、というわけではありません。というよりも、クオリティというと、自分が述べるにはあまりにも不遜な気がするので、自分にとっては読み切れる小説であるか否か、でしかないですし、ややこしいことに読み通せなかった小説でも、自分にとってはたいへん意義深い読書であった本すら、存在します。エッセイやノンフィクション(広義の意味で)に幅を広げれば、その数は膨大なものになります。
そういう長い前書き(言い訳)を含んだ上で、あえて小説の効能を考えるとき「他人の人生を生きる」というのは、確かに小説や映画などの芸術でしか得られない体験かもしれません。そしてそれは、自分自身の「生」(そのもの、生活)や「性」(そのもの、性格)の鬱陶しいほどの現実を、しばしのあいだ軽くしてくれるものでもあります。時には引き裂かれそうなほどのその困惑を、ちょっと俯瞰させてくれる、そんな存在が小説の凄さでもあるのでしょう。
さて、今回取り上げるのは、滝口悠生『長い一日』(講談社)です。

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講談社のPR誌『本』に連載され、その最終号に最終回を迎えた、滝口さん四年ぶりの長編小説です。
連載中、後を追いかけるように当店の店頭で冊子をお配りしていたのを覚えている方もおいでかもしれません。
そのご縁もあり、なんと帯の裏に、同じく配布店舗だった2店舗の皆さんと一緒に、コメントを書かせていただくことにもなりました!
また当店でお買い求めの方には、滝口さんの書き下ろし冊子「窓目くん、青いカバに行く」が付きます。(冊子の表面には滝口さんのサインも入っています。)

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滝口さんのこの小説は、8年の間住んでいた家からの引っ越しを考え、その物件探しや、身近な人々との生活、家やその町に暮らす人々への様々な思いが描かれていく小説です。主人公は小説家「滝口悠生」なのでエッセイのようにも思えるし、後半は、登場人物たちがその書かれ方を巡って一悶着を起こすし、これまでの滝口さんの作品同様、小説の「たくらみ」をさりげなく使い倒す、すごい作品なのですが、読み心地は、まさに自分の人生の一部が描かれているように心地いい。
「窓目くんはうつむいて背中を震わせているので、笑っているのかと思ったら、そうではなくて泣いていた。夫はそんなに驚かなかった。とはいえ、なんで泣いているのかはわからなかった。
上着の袖で目と頬を拭い、大きく息を吸い込みながら上体を起こした窓目くんは泣き笑い
のような、困ったような顔をしていて、夫がどら焼きを食べながら黙って見ていると、はは、と笑って見せ、しかし夫と正対し、向き合った顔の両目からは、まだまだ涙がこぼれ出てきた。また腕を顔にあてて、小さな嗚咽が続き、合間にまた、ちくしょう、という言葉が漏れた。」

こんな文章に描かれる、泣くことの一筋縄ではいかない感情の動きは、とても鮮やかでいつまでも胸に残るし、

「横長の店内の左側と右側に入り口があって、私が入り口にしているのは左の入り口だった。右の入り口から入るひともいるから、店内には右から左への流れと左から右への流れと両方あるはずなのだが、左から右の流れの方がいつも優勢であるように思え、私もそっちの流れで動く。私が左から入るのは、その方が買い物がしやすいからで、左から右への場合、物色する品目の流れはおおまかに言って、パン、乳製品、酒、肉、調味料類、魚、そして最後に青果、という流れで、右から左の場合はこれが逆になる。多くのスーパーではふつう最初に野菜売り場があることが多く、となれば左派は邪道なのかもしれないが、野菜を最初にカゴに入れるとあとで牛乳とか酒とか重たいものを入れるとき野菜がつぶれないように積み直したりする必要があって、野菜や果物を最後にする方がよかった。」

この場面のように、ここまでスーパーにこだわる作品があったかという驚き、日常の一コマを切り出す文章は、滝口さんの真骨頂に思えます。
なかでも、個人的に最も印象深いシーンは、窓目くんと同じように、自分の中で渦巻く感情の中で、ふと涙を漏らしてしまった「八朔さん」が、それを後で思い出しながら自分自身に涙の訳を説明したあとで言う、こんなセリフ。

「ほらね、と八朔さんは言った。それらしい理由が言えてしまう。言ったらまるでそうだっ
たかのように思えてしまう。昨日の私が言わなかった気持ちは、私しか守ることができなか
ったのに。すぐにこうして、こんなにしゃべってしまう。しゃべれてしまう。」

自分の生活の中で揺れ動く感情に、あとで様々な「論理的理由」を与えて、説明した時に、零れ落ちてしまうもの。それこそ、自分が守らなくてはならなかったものではないか、と問うこのシーンは、僕にとっての小説そのもの。
そう、守るべき自分の感情を、小説家が代わりに語ってるくれることで、僕は自分の大切な経験や体験を、しっかりと守っているのかもしれません。
おくに たかし

小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は毎月5日の更新です。

■小国貴司 Takashi OKUNI
「BOOKS青いカバ」店主。学生時代より古書に親しみ、大手書店チェーンに入社後、店長や本店での仕入れ・イベント企画に携わる。書店退職後、新刊・古書を扱う書店「BOOKS青いカバ」を、文京区本駒込にて開業。

●本日のお勧め作品は瀧口修造です。
takiguchi2015_III_26瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"III-26"
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:12.7×9.3cm
シートサイズ:19.4×13.1cm
Ⅲ-27と対
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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