関根伸夫資料をめぐって 6
鏑木 あづさ
第5回長岡現代美術館賞展(1968)、パリ青年ビエンナーレ(1969)、大阪万博三井グループ館の《位相―大地》(1970)、ヴェネチア・ビエンナーレ(1970)、ベスビオ大作戦 プロジェクト展(南画廊、1973)、そして、もの派とポストもの派の展開(1987)。これら関根伸夫が出品した展覧会には、東野芳明とのかかわりがある。
関根資料には「電話メモ」と題されたノートが遺されており、関根や家族、環境美術研究所のスタッフらが、不在時に受けた電話の情報を共有できるように記されている。ノートの使用期間はおそらく、関根の帰国直後からしばらくの間。このなかにいくつか、東野からの電話の記録がある。
もっともこれは電話があったことを示すか、せいぜい折り返しを求める伝言がある程度に過ぎない。無論、彼らがどのような会話を交わしたかはわからない。しかし最初にこれを見たときには、少々意外に感じた。なぜなら以前、関根への聞き取りで東野について尋ねてみたものの、話があまり広がらなかった印象があるためである。関根資料のなかに、東野との関係を示すものはほとんどない。そこで関根と東野のかかわりをあらためて整理してみると、たとえば上記が浮上する。ここから、なにかを見いだすことはできるだろうか。かならずしも東野の仕事を渉猟しているわけではないものの、手探りで考えてみたい。
関根資料 整理風景
いうまでもなく東野は、ポップ・アートや同時代のアメリカ美術を紹介するとともに、“反芸術”、“発注芸術”などのことばを生みだし、60年代以降の美術批評を牽引したひとりである。軽妙洒脱と見せかけた東野のエッセイは時代を的確にとらえた透徹な批評であり、今あらためて読んでも触発されるスリリングさがある。
1969年、東野は9月末からはじまる第6回パリ青年ビエンナーレのコミッショナーとして、参加作家のひとりに関根を選出する。このとき東野は、テクノロジー・アートと同義となってしまった環境芸術に見切りをつけ、これとは対極にある「水、空気、土、火といった『自然』の元素的な要素だけを中核にした作品」が出始めつつあることに着眼する。そこで最初に浮かんだ作家が、《位相―大地》を発表したばかりの関根である。東野はすでにサンパウロ・ビエンナーレへの参加が決定していた関根を、パリ・ビエンナーレの候補作家のひとりと交換して、どうにか獲得するという力の入れようだった。この年のパリ・ビエンナーレは国別展示を廃止し、グループによる出品に重点を置くこととなったため、ともに参加する高松次郎、田中信太郎、成田克彦と、急ごしらえのグループ「ボソット4」のメンバーとしてエントリーされることになる。
関根と高松の作品は、東野も審査員を務めたこの年5月の第9回現代日本美術展から出品されており、ここでの一部の作品の傾向がパリ・ビエンナーレの構想の契機となったことがうかがわれる。東野はこれらに「表現的な詐術を排除し、中性的な素材を無表情に“ボソット”置いてある」ことを見て取り、そのような作品を「一つの批評行為であろう」と評すとともに、関根による「創ることはできない。もののほこりをはらいのけ、それが含む世界をあらわにする」との言を借りることで解説した。
もっとも東野自身、この企てが成功するかどうかは未知数だったようである。「いかに四人が、ボソッと作品を置くだけの行為に堪えられるか、これは、結果を見なくては分からない」と述べていたものの、蓋を開けてみれば現地でかなりの好評を博し、団体賞を受賞した。自然を素材とするランドアート的な関心や、高松、田中とのかかわりは措くとしても、東野が日本の若い美術家たちに現象学的かつ還元主義的な傾向の片鱗を感じ取り、これをいち早くとりあげた批評家のひとりであったことは、いまいちど一考の余地があるのではないか。東野が名づけた“ボソット・アート”は、後に出現した“もの派”とかならずしもイコールではなく、ことばとしては定着しなかったものの、一連の動向を示すにはこの上なく的を射ている。東野はその後、「1970年8月 現代美術の一断面」展(東京国立近代美術館)を企画した際も、カタログで先の関根のことばに触れている。
写真 パリ・ビエンナーレ設営記録(1969)
関根をヴェネチア・ビエンナーレに送り込む直前、大阪万博三井グループ館における《位相―大地》の制作を依頼したのも、また東野である。これは、《位相―大地》最初の再制作である(ただしサイズと数が違うため、厳密には再制作とはいえない)。このときの様子は、先述した関根への聞き取りその他で触れられているが、この再制作は依頼を受けてのアルバイト感覚で、作家にとってはさほど思い入れのあるものではなかったようである。
再制作は以後、ときを隔てて和光大学(土の円筒は実現せず、2003)、多摩川アートラインプロジェクト(2008)、神戸芸術工科大学(2011)、「太陽へのレクイエム もの派の美術」展(Blum & Poe、2012)で実施され、作品はその後人手にわたる。再制作の是非については、いずれも賛否両論あるだろう。
ところで2008年、神話化された作品の再制作を多摩川アートラインで実見したときの最初の印象は、思っていたよりも小さい、ということだった。村井修による写真の印象があまりにも強く、記憶のなかでイメージを膨らませすぎていたのだろう。ただし土の円筒の大きさとは対照的に、そのかたわらへ掘られた穴、すなわち虚の円筒は予想外に深く、のぞき込んで恐怖を感じたことを覚えている。また本稿の共同執筆者は当時、この再制作を「まるで原寸大の模型のように感じた」という。ちなみにここでの制作には、重機と金型が用いられている。
その他で行なわれた再制作も含めて、これらをどのようにとらえるべきか。また関根は80年代後半以降のもの派の再検証によって、60年代末の作品のいくつかを再制作しているが、これらと《位相―大地》は一体なにが違うのだろうか。関根の作品や仕事の多くは協働によることもあってか、再制作が指示書や設計図にもとづく第三者の手による “発注芸術”となること自体については、厭わなかったものと思われる。これらはそれぞれ目的が異なるため一括りにはいえないが、位相における場所性の問題や、作品にみられるべき身体性の希薄さなど、オリジナルとの違いを正面から解釈することはたやすい。しかし、最初にこの作品の再制作を依頼した東野がもしこれを見たら、果たしてどのように思うだろうかと考える。
東野は関根が、ポップ・アートを享受した世代であることに着目していた。『芸術のすすめ』(筑摩書房、1972)その他では、このことをしきりに尋ねている。「ポップ・アートは、いわゆる現実というものを、一つのマスメディアの中を通したものとして捉えている。こういう一種の虚像みたいなものが、きみたちの世代には当りまえのようなところがありませんか」、「ポップ・アートというのは、(中略)虚像の形で現れている世界ですね。これがいまのわれわれのコミュニケーションとか、認識とか、全部の根底になっているわけでしょう。実際これとやはりぼくは関係ないと言えないと思うね」等々。しかし、当事者である関根にとって、この指摘はいまひとつピンとこなかったようである。他所で、「ポップ・アートが60年代で、今、70何年になってみても、それが全然整理だって考えられてはいないわけね。つまりゴッチャになっているわけですよ」とつれなく語っている。
環境美術研究所を設立する直前の関根と、個展のために来日したオルデンバーグを会わせて、『美術手帖』(371号、1973年9月)で彼らの共通項であるモニュメントについて対談をさせたことや、「ベスビオ大作戦」へのプロジェクトの出品依頼は、東野のこのような関心によるものだろう。はじめたばかりの環境美術の仕事に対する期待もまた、あったに違いない。東野がもし2000年代以降に行なわれた《位相―大地》の再制作の数々を見ることができたなら案外、虚像化された作品の実態化を喜んだのではないだろうか。
図面《空相―水》(2000年代)
さて、本稿では関根伸夫資料をめぐって、さまざまに思考を重ねてきた。資料に隠された“知られざる事実”や“真実”を読み解こうとするだけでなく、資料を起点になにが想起されるか、そしてそこからなにを見いだすことができるか。その一端を、これまでの調査、整理をふまえて書き連ねてきた。たとえば先に述べたように、関根資料には東野との関係を示すものがそれほど多く遺されているわけではない。しかし、だからといって東野とあまり交流がなかった、ということにはならないだろう。それは関根の手元に最期まで遺されていたかもしれないし、いなかったかもしれない。また関係する資料の多寡とかかわりの深さは、かならずしも比例しない。資料についてはときに、なにがあるかを知ることと同時に、なにがないかを考えることもまた、必要なのである。この先、東野の資料へアクセスすることができれば、あらたな視点がもたらされることも考えられる。
資料は資料であって、それ以上でもそれ以下でもない。だが、これが美術館に収まると、作品の従属的な存在とみなされることもあれば、ときに“作品以上の貴重品”として扱われ、所管する者が特権的に振る舞うこともある。そして彼らがそのことに充足するだけで、利活用しきれないまま存在そのものが可視化されなくなってしまう、という事態に陥ることさえある。しかし資料と作品は、このような関係でとらえるべきものではない。今後はどのような施設・機関であっても、資料を預かることによって生じる社会的責任と、その公共性が問われていくはずである。
資料をめぐって考察することは、いうなれば、関根が《位相―大地》で行なった思考実験のように、大地を掘り進めることによって皮膜となった地球をつまみ上げ、これを裏返す作業のようなものではないだろうか。もっとも表裏のどちらか片側からだけ見ているだけで、なにかがわかるとは限らない。表から眺めたり裏から透かして見たりをつづけているうちに不意に、資料のあらたな広がりを感じられる瞬間があるのである。
参考文献
関根伸夫オーラル・ヒストリー、梅津元、加治屋健司、鏑木あづさによるインタヴュー、2014年5月3日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ(URL: www.oralarthistory.org)
G.U. [梅津元]「ふたたび、《位相―大地》をめぐって」『ソカロ:埼玉県立近代美術館ニュース』70号(2014年8月-9月)
東野芳明「批評家の眼6 ボソット・アートの誕生」『芸術生活』238号(1969年6月)pp. 33-36
池田満寿夫、菅井汲、関根伸夫、堀内正和、東野芳明 談「座談会 つくるということ、つくらないということ 明日の芸術を考える」『美術手帖』315号(1969年7月)、pp. 176-192
東野芳明「本年度のパリ青年ビエンナーレ展」『国際文化』181号(1969年7月)pp. 12-17
東野芳明「パリ青年ビエンナーレ陳列騒動記」『国際文化』186号(1969年12月)pp. 18-21
粟津潔、磯崎新、一柳慧、植草甚一、関根伸夫、東野芳明、中谷芙二子 談「座談会 だれもが芸術家になる時代の論理」『みづゑ』839号(1975年2月)、pp. 30-47
(かぶらき あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 1(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 2(梅津元)
・関根伸夫資料をめぐって 3(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 4(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 5(梅津元)
■鏑木あづさ
1974年東京都生まれ。司書、アーキビスト。2000年より東京都現代美術館、埼玉県立近代美術館などに勤務し、美術の資料にまつわる業務に携わる。企画に「大竹伸朗選出図書全景 1955-2006」(東京都現代美術館、2006)、「DECODE / 出来事と美術―ポスト工業化社会の美術」の資料展示(埼玉県立近代美術館、2019)など。最近の仕事に『中原佑介美術批評選集』全12巻(現代企画室+BankART出版、2011~刊行中)、「〈資料〉がひらく新しい世界ー資料もまた物質である」『artscape』2019年6月15日号、「美術評論家連盟資料について」『美術評論家連盟会報』20号(2019)など。
●カタログのご紹介
『DECODE/出来事と記録―ポスト工業化社会の美術』展カタログ
B5変形・95ページ+写真集47ページ
主催:埼玉県立近代美術館、多摩美術大学
図録執筆編集:梅津元、石井富久、平野到、鏑木あづさ、多摩美術大学、小泉俊己、田川莉那
発行:2020年/多摩美術大学
価格:税込2,400円 ※ときの忘れもので取り扱っています。
*この展覧会に関しては、土渕信彦さんのレビューをお読みください。
埼玉県立近代美術館『版画の景色 現代版画センターの軌跡』展 図録
2018年 埼玉県立近代美術館 発行
サイズ:ケース表紙:26.0×18.5cm
編集:梅津元、五味良子、鴫原悠(埼玉県立近代美術館)
資料提供:ときの忘れもの
デザイン:刈谷悠三+角田奈央+平川響子/neucitora
印刷製本:株式会社ニッショープリント
※ときの忘れもので取り扱っています。
価格:税込2,750円 ※ときの忘れもので取り扱っています。
*この展覧会に関しては、植田実先生のレビューをお読みください。
●本日のお勧め作品は関根伸夫です。
関根伸夫 Nobuo SEKINE
《位相ー大地 1》
1986年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
イメージサイズ:87.2×186.5cm
シートサイズ:100.6×199.4cm
Ed.25 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●磯崎新、木村茂、舟越保武/共同エディションで生まれた銅版画集を特別頒布
現代版画センターが10年余りの活動で約80作家、700点余のエディションを制作、発表できた原動力は、全国各地の支部との「共同エディション」でした。具体的にどのよううな作品が共同エディションとして生まれたのか、いくつかの例をご紹介し、特別頒布します(7月31日までの期間限定)。ブログ7月18日をご覧ください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
鏑木 あづさ
第5回長岡現代美術館賞展(1968)、パリ青年ビエンナーレ(1969)、大阪万博三井グループ館の《位相―大地》(1970)、ヴェネチア・ビエンナーレ(1970)、ベスビオ大作戦 プロジェクト展(南画廊、1973)、そして、もの派とポストもの派の展開(1987)。これら関根伸夫が出品した展覧会には、東野芳明とのかかわりがある。
関根資料には「電話メモ」と題されたノートが遺されており、関根や家族、環境美術研究所のスタッフらが、不在時に受けた電話の情報を共有できるように記されている。ノートの使用期間はおそらく、関根の帰国直後からしばらくの間。このなかにいくつか、東野からの電話の記録がある。
もっともこれは電話があったことを示すか、せいぜい折り返しを求める伝言がある程度に過ぎない。無論、彼らがどのような会話を交わしたかはわからない。しかし最初にこれを見たときには、少々意外に感じた。なぜなら以前、関根への聞き取りで東野について尋ねてみたものの、話があまり広がらなかった印象があるためである。関根資料のなかに、東野との関係を示すものはほとんどない。そこで関根と東野のかかわりをあらためて整理してみると、たとえば上記が浮上する。ここから、なにかを見いだすことはできるだろうか。かならずしも東野の仕事を渉猟しているわけではないものの、手探りで考えてみたい。
関根資料 整理風景いうまでもなく東野は、ポップ・アートや同時代のアメリカ美術を紹介するとともに、“反芸術”、“発注芸術”などのことばを生みだし、60年代以降の美術批評を牽引したひとりである。軽妙洒脱と見せかけた東野のエッセイは時代を的確にとらえた透徹な批評であり、今あらためて読んでも触発されるスリリングさがある。
1969年、東野は9月末からはじまる第6回パリ青年ビエンナーレのコミッショナーとして、参加作家のひとりに関根を選出する。このとき東野は、テクノロジー・アートと同義となってしまった環境芸術に見切りをつけ、これとは対極にある「水、空気、土、火といった『自然』の元素的な要素だけを中核にした作品」が出始めつつあることに着眼する。そこで最初に浮かんだ作家が、《位相―大地》を発表したばかりの関根である。東野はすでにサンパウロ・ビエンナーレへの参加が決定していた関根を、パリ・ビエンナーレの候補作家のひとりと交換して、どうにか獲得するという力の入れようだった。この年のパリ・ビエンナーレは国別展示を廃止し、グループによる出品に重点を置くこととなったため、ともに参加する高松次郎、田中信太郎、成田克彦と、急ごしらえのグループ「ボソット4」のメンバーとしてエントリーされることになる。
関根と高松の作品は、東野も審査員を務めたこの年5月の第9回現代日本美術展から出品されており、ここでの一部の作品の傾向がパリ・ビエンナーレの構想の契機となったことがうかがわれる。東野はこれらに「表現的な詐術を排除し、中性的な素材を無表情に“ボソット”置いてある」ことを見て取り、そのような作品を「一つの批評行為であろう」と評すとともに、関根による「創ることはできない。もののほこりをはらいのけ、それが含む世界をあらわにする」との言を借りることで解説した。
もっとも東野自身、この企てが成功するかどうかは未知数だったようである。「いかに四人が、ボソッと作品を置くだけの行為に堪えられるか、これは、結果を見なくては分からない」と述べていたものの、蓋を開けてみれば現地でかなりの好評を博し、団体賞を受賞した。自然を素材とするランドアート的な関心や、高松、田中とのかかわりは措くとしても、東野が日本の若い美術家たちに現象学的かつ還元主義的な傾向の片鱗を感じ取り、これをいち早くとりあげた批評家のひとりであったことは、いまいちど一考の余地があるのではないか。東野が名づけた“ボソット・アート”は、後に出現した“もの派”とかならずしもイコールではなく、ことばとしては定着しなかったものの、一連の動向を示すにはこの上なく的を射ている。東野はその後、「1970年8月 現代美術の一断面」展(東京国立近代美術館)を企画した際も、カタログで先の関根のことばに触れている。
写真 パリ・ビエンナーレ設営記録(1969)関根をヴェネチア・ビエンナーレに送り込む直前、大阪万博三井グループ館における《位相―大地》の制作を依頼したのも、また東野である。これは、《位相―大地》最初の再制作である(ただしサイズと数が違うため、厳密には再制作とはいえない)。このときの様子は、先述した関根への聞き取りその他で触れられているが、この再制作は依頼を受けてのアルバイト感覚で、作家にとってはさほど思い入れのあるものではなかったようである。
再制作は以後、ときを隔てて和光大学(土の円筒は実現せず、2003)、多摩川アートラインプロジェクト(2008)、神戸芸術工科大学(2011)、「太陽へのレクイエム もの派の美術」展(Blum & Poe、2012)で実施され、作品はその後人手にわたる。再制作の是非については、いずれも賛否両論あるだろう。
ところで2008年、神話化された作品の再制作を多摩川アートラインで実見したときの最初の印象は、思っていたよりも小さい、ということだった。村井修による写真の印象があまりにも強く、記憶のなかでイメージを膨らませすぎていたのだろう。ただし土の円筒の大きさとは対照的に、そのかたわらへ掘られた穴、すなわち虚の円筒は予想外に深く、のぞき込んで恐怖を感じたことを覚えている。また本稿の共同執筆者は当時、この再制作を「まるで原寸大の模型のように感じた」という。ちなみにここでの制作には、重機と金型が用いられている。
その他で行なわれた再制作も含めて、これらをどのようにとらえるべきか。また関根は80年代後半以降のもの派の再検証によって、60年代末の作品のいくつかを再制作しているが、これらと《位相―大地》は一体なにが違うのだろうか。関根の作品や仕事の多くは協働によることもあってか、再制作が指示書や設計図にもとづく第三者の手による “発注芸術”となること自体については、厭わなかったものと思われる。これらはそれぞれ目的が異なるため一括りにはいえないが、位相における場所性の問題や、作品にみられるべき身体性の希薄さなど、オリジナルとの違いを正面から解釈することはたやすい。しかし、最初にこの作品の再制作を依頼した東野がもしこれを見たら、果たしてどのように思うだろうかと考える。
東野は関根が、ポップ・アートを享受した世代であることに着目していた。『芸術のすすめ』(筑摩書房、1972)その他では、このことをしきりに尋ねている。「ポップ・アートは、いわゆる現実というものを、一つのマスメディアの中を通したものとして捉えている。こういう一種の虚像みたいなものが、きみたちの世代には当りまえのようなところがありませんか」、「ポップ・アートというのは、(中略)虚像の形で現れている世界ですね。これがいまのわれわれのコミュニケーションとか、認識とか、全部の根底になっているわけでしょう。実際これとやはりぼくは関係ないと言えないと思うね」等々。しかし、当事者である関根にとって、この指摘はいまひとつピンとこなかったようである。他所で、「ポップ・アートが60年代で、今、70何年になってみても、それが全然整理だって考えられてはいないわけね。つまりゴッチャになっているわけですよ」とつれなく語っている。
環境美術研究所を設立する直前の関根と、個展のために来日したオルデンバーグを会わせて、『美術手帖』(371号、1973年9月)で彼らの共通項であるモニュメントについて対談をさせたことや、「ベスビオ大作戦」へのプロジェクトの出品依頼は、東野のこのような関心によるものだろう。はじめたばかりの環境美術の仕事に対する期待もまた、あったに違いない。東野がもし2000年代以降に行なわれた《位相―大地》の再制作の数々を見ることができたなら案外、虚像化された作品の実態化を喜んだのではないだろうか。
図面《空相―水》(2000年代)さて、本稿では関根伸夫資料をめぐって、さまざまに思考を重ねてきた。資料に隠された“知られざる事実”や“真実”を読み解こうとするだけでなく、資料を起点になにが想起されるか、そしてそこからなにを見いだすことができるか。その一端を、これまでの調査、整理をふまえて書き連ねてきた。たとえば先に述べたように、関根資料には東野との関係を示すものがそれほど多く遺されているわけではない。しかし、だからといって東野とあまり交流がなかった、ということにはならないだろう。それは関根の手元に最期まで遺されていたかもしれないし、いなかったかもしれない。また関係する資料の多寡とかかわりの深さは、かならずしも比例しない。資料についてはときに、なにがあるかを知ることと同時に、なにがないかを考えることもまた、必要なのである。この先、東野の資料へアクセスすることができれば、あらたな視点がもたらされることも考えられる。
資料は資料であって、それ以上でもそれ以下でもない。だが、これが美術館に収まると、作品の従属的な存在とみなされることもあれば、ときに“作品以上の貴重品”として扱われ、所管する者が特権的に振る舞うこともある。そして彼らがそのことに充足するだけで、利活用しきれないまま存在そのものが可視化されなくなってしまう、という事態に陥ることさえある。しかし資料と作品は、このような関係でとらえるべきものではない。今後はどのような施設・機関であっても、資料を預かることによって生じる社会的責任と、その公共性が問われていくはずである。
資料をめぐって考察することは、いうなれば、関根が《位相―大地》で行なった思考実験のように、大地を掘り進めることによって皮膜となった地球をつまみ上げ、これを裏返す作業のようなものではないだろうか。もっとも表裏のどちらか片側からだけ見ているだけで、なにかがわかるとは限らない。表から眺めたり裏から透かして見たりをつづけているうちに不意に、資料のあらたな広がりを感じられる瞬間があるのである。
参考文献
関根伸夫オーラル・ヒストリー、梅津元、加治屋健司、鏑木あづさによるインタヴュー、2014年5月3日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ(URL: www.oralarthistory.org)
G.U. [梅津元]「ふたたび、《位相―大地》をめぐって」『ソカロ:埼玉県立近代美術館ニュース』70号(2014年8月-9月)
東野芳明「批評家の眼6 ボソット・アートの誕生」『芸術生活』238号(1969年6月)pp. 33-36
池田満寿夫、菅井汲、関根伸夫、堀内正和、東野芳明 談「座談会 つくるということ、つくらないということ 明日の芸術を考える」『美術手帖』315号(1969年7月)、pp. 176-192
東野芳明「本年度のパリ青年ビエンナーレ展」『国際文化』181号(1969年7月)pp. 12-17
東野芳明「パリ青年ビエンナーレ陳列騒動記」『国際文化』186号(1969年12月)pp. 18-21
粟津潔、磯崎新、一柳慧、植草甚一、関根伸夫、東野芳明、中谷芙二子 談「座談会 だれもが芸術家になる時代の論理」『みづゑ』839号(1975年2月)、pp. 30-47
(かぶらき あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 1(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 2(梅津元)
・関根伸夫資料をめぐって 3(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 4(鏑木あづさ)
・関根伸夫資料をめぐって 5(梅津元)
■鏑木あづさ
1974年東京都生まれ。司書、アーキビスト。2000年より東京都現代美術館、埼玉県立近代美術館などに勤務し、美術の資料にまつわる業務に携わる。企画に「大竹伸朗選出図書全景 1955-2006」(東京都現代美術館、2006)、「DECODE / 出来事と美術―ポスト工業化社会の美術」の資料展示(埼玉県立近代美術館、2019)など。最近の仕事に『中原佑介美術批評選集』全12巻(現代企画室+BankART出版、2011~刊行中)、「〈資料〉がひらく新しい世界ー資料もまた物質である」『artscape』2019年6月15日号、「美術評論家連盟資料について」『美術評論家連盟会報』20号(2019)など。
●カタログのご紹介
『DECODE/出来事と記録―ポスト工業化社会の美術』展カタログ
B5変形・95ページ+写真集47ページ主催:埼玉県立近代美術館、多摩美術大学
図録執筆編集:梅津元、石井富久、平野到、鏑木あづさ、多摩美術大学、小泉俊己、田川莉那
発行:2020年/多摩美術大学
価格:税込2,400円 ※ときの忘れもので取り扱っています。
*この展覧会に関しては、土渕信彦さんのレビューをお読みください。
埼玉県立近代美術館『版画の景色 現代版画センターの軌跡』展 図録
2018年 埼玉県立近代美術館 発行サイズ:ケース表紙:26.0×18.5cm
編集:梅津元、五味良子、鴫原悠(埼玉県立近代美術館)
資料提供:ときの忘れもの
デザイン:刈谷悠三+角田奈央+平川響子/neucitora
印刷製本:株式会社ニッショープリント
※ときの忘れもので取り扱っています。
価格:税込2,750円 ※ときの忘れもので取り扱っています。
*この展覧会に関しては、植田実先生のレビューをお読みください。
●本日のお勧め作品は関根伸夫です。
関根伸夫 Nobuo SEKINE《位相ー大地 1》
1986年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
イメージサイズ:87.2×186.5cm
シートサイズ:100.6×199.4cm
Ed.25 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●磯崎新、木村茂、舟越保武/共同エディションで生まれた銅版画集を特別頒布
現代版画センターが10年余りの活動で約80作家、700点余のエディションを制作、発表できた原動力は、全国各地の支部との「共同エディション」でした。具体的にどのよううな作品が共同エディションとして生まれたのか、いくつかの例をご紹介し、特別頒布します(7月31日までの期間限定)。ブログ7月18日をご覧ください。●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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