「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」第2回

「キュビスム版画誕生の軌跡」

松井裕美


 将来ジャック・ヴィヨンという名で知られることになるガストン・デュシャンは、1875年7月31日に、ノルマンディーのダンヴィルという街で、中ブルジョワの家庭の長男として生まれた。その後一家はブランヴィル=クルヴォン(父親はこの町の町長を務めている)、次いでルーアンに越した。母親は素描家、母方の祖父は退職後に絵画や版画を制作しており、その影響から、ガストンは8歳の頃からデッサンをしていたという。ルーアンに移ってからはしばしば祖父の指導のもと、版画制作についても学んだ。可愛いロバや象などが描かれた彼の幼少期のデッサン帳がポンピドゥー・センターに所蔵されている。



 芸術に触れる機会は、家庭の中だけではなかった。ルーアンという街そのものが、芸術的な環境に恵まれた場所だった。印象派の画家クロード・モネが連作を描いたことでも知られる古い大聖堂、革命政府によって建立された美術館、美術コレクターたち、そうした存在が、街を活気づけていた。さらに1832年から開かれているサロンには、ブーダンやコロー、ピサロ、モネなどが出品している。そうした雰囲気に触発され、バルビゾン派や印象派の流れを汲む「ルーアン派」と呼ばれるような画家の一派が登場し、ルーアンの都市の風景や近郊の農村の風景を描いた。
 やがてそうした画風をやや時代遅れのものと感じ始めた若い世代の中から、ピエール・デュモンのような人物が登場する。ガストンの弟であるマルセル・デュシャンとルーアンのリセで同級生でもあったこの画家は、1907年にはXXXと呼ばれるグループを創設し、マティスやドランら「野獣たち」と呼ばれた人々を含む画家のグループ展を企画した。これは現代絵画ノルマンディー協会(Société normande de Peinture moderne)の起源となり、新たに登場したキュビスムの芸術家たちも吸収しながら、サロン・ドートンヌとサロン・デ・ザンデパンダンに続く、前衛芸術家のためのサロンを毎年開催した。1909年12月から1910年1月にかけて開催されたこのサロンの第一回目には、美術史家エリー・フォールが序文を寄せ、デュシャンやピカビア、ヴィヨンも作品を展示している。以降ヴィヨンはこの展覧会に出品する常連メンバーとなった。
 
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ピエール・デュモン《ルーアン大聖堂》1912年。カンヴァスに油彩、138 x 92 cm。ウィスコンシン、ミルウォーキー美術館

 とはいえ、やはり新たな芸術の誕生にパリという都市の環境は欠かせないものだった。ガストンは1894年に大学で法学を修めるためにパリに赴いたが、半年も経つとルーアンに戻って公証人の書記として生計を立てる傍ら美術学校に通い始め、さらに翌年再びパリに戻って風刺画家となる。この頃から彼は、家族(とりわけ地元の名士であった父親)に迷惑をかけないために、アルフォンス・ドーデの小説『ジャック』と15世紀の放埒な詩人フランソワ・ヴィヨンにちなんだ筆名で活動するようになる。版画家ジャック・ヴィヨンの誕生である。『ル・リール』誌や『ジル・ブラース』誌などに掲載された、闊達な線で人々の特徴を捉えた彼の挿絵には、皮肉のきいた文章が添えられた。

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ジャック・ヴィヨンによる『ル・リール』誌(1900年3月31日)掲載の挿絵。出典:フランス国立図書館デジタルサイトgallica

 パリではムーラン・ルージュに通い、そこでエドガー・ドガやトゥールーズ・ロートレックとも出会っている。またベルギー出身の建築家フランツ・ジュールダンとは1898年から近所に住むようになったことをきっかけに交流を深めた。ヴィヨンは1904年には、ジュールダンが会長を務めるサロン・ドートンヌの委員になってもいる。こうした人脈の広がりから得る芸術的な刺激と新しいキャリアの確立は、まさにパリという都市が彼にもたらしたものだった。
 そして彼のその後の方向性を大きく変えることになったのは、やはりキュビスムとの出会いである。ヴィヨンは1906年にピュトーに移り住むのだが、1911年ごろから、このアトリエに毎週日曜日、アルベール・グレーズやジャン・メッツァンジェ、ル・フォーコニエといったキュビスムの画家が集うようになる。すでに1909年頃から徐々に風刺画を描かなくなっていたヴィヨンは、こうして1911年頃から、キュビスム的な試みを版画や絵画で展開するようになるのだ。

 次回は彼のキュビスム期の作品の様式的な展開について見ていきたい。
まつい ひろみ

■松井 裕美(まつい ひろみ)
1985年生まれ。パリ西大学ナンテール・ラ・デファンス校(パリ第10大学)博士課程修了。博士(美術史)。現在、神戸大学国際文化学部准教授。専門は近現代美術史。
単著に『キュビスム芸術史』(名古屋大学出版会、2019年)、共編著に『古典主義再考』(中央公論美術出版社、2020年)、編著に『Images de guerres au XXe siècle, du cubisme au surréalisme』(Les Editions du Net, 2017)、 翻訳に『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。

・松井裕美さんの連載エッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」は毎月25日の更新です。

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