「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」第5回

「デュシャン家の芸術家たち」

松井裕美


 デュシャン家には、長男として生まれたジャック・ヴィヨンの他にも、その後を追うようにして芸術家となることを志した兄弟たちがいた。その中でも最も有名なのは、既製品に芸術作品としての定義を与える「レディメイド」のコンセプトを創案し、男性用便器を《泉》というタイトルで展覧会に出品しようとしてスキャンダルを起こしたマルセル・デュシャンだろう。

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マルセル・デュシャン《泉》1917年。男性用便器(レディメイド)。アフルレッド・スティーグリッツによる撮影。

 全く作風の異なる弟マルセルの奔放な振る舞いに対して兄ジャックがどれほど理解を示していたのかは定かではない。しかし1934年にはジャック・ヴィヨンは、マルセル・デュシャンがキュビスムの影響から抜け出した頃に描いた油彩画《花嫁》(1912年。フィラデルフィア美術館)をアクアチントによって版画化している。



 ジャックの版画は、機械の部品のようでありながら同時に「臓器のような」柔らかさを兼ね備えたマルセルの油彩画の特徴を掴みつつ、油彩画では強調されていた無機質な光のグラデーションの表現を和らげることで(例えば「花嫁」の胸に当たる部分など)、オリジナルの作品よりは身体の形象を想起しやすいものになっている。
 より歳の近い弟であり彫刻家でもあるレイモン・デュシャン=ヴィヨンの作品《ボードレールの頭部》についても、1920年に版画化している。



 また1922年から30年までの間、ジャック・ヴィヨンは経済的に困難な状況にあり、生計を立てるために、主にベルネーム・ジュヌ画廊の企画によってマティスピカソ、マネ、デュフィ、ブラックといった近代絵画の版画化を行っていたのだが、そのうちには妹シュザンヌや、義弟ジャン・クロッティ(シュザンヌの妹)の作品も含まれていた。
 興味深いことに、ジャック・ヴィヨン以外は皆、デュシャン家の人間であることを隠していない。この連載の第二回の記事「キュビスム版画誕生の軌跡」では、ジャック・ヴィヨンの名前の由来について触れた際、地元の名士であった父親への配慮から、ヴィヨンが版画家として活動するにあたって本名を使用するのを避けた経緯について説明した。だがヴィヨンの1歳年下の弟ピエール=モーリス=レイモン・デュシャンについて言えば、兄の通称から「ヴィヨン」という名前をもらい、彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンとして活動している。ヴィヨンとは12歳も年が離れたマルセル・デュシャン、さらにマルセルより2歳年下のシュザンヌ・デュシャンは、本名のまま活動している。「三男坊のマルセルは地元の家族を慮る必要がなくて、好き放題させてもらった結果、兄たちとは違って名前も変えなかったんだよ」と、研究の過程で知り合ったヴィヨンのご遺族の一人がこっそり教えてくれたことがある。デュシャン家には他にもイヴォンヌとマグドレーヌの姉妹がおり、この二人は度々3人の兄たちの初期の素描のモデルになっている。
 彼らはそれぞれ異なる経歴を経て芸術家になっている。法学への道を完全に放棄し版画家として生活することを決めたジャック・ヴィヨンとともに1895年にパリ5区のエコール通りでの生活を始めた弟のレイモンは、最初は父親の期待に応えるべく、大学で医学を勉強していた。しかし1898年にリウマチ熱を患って学業を中断したのをきっかけに、独学で彫刻を始め、1902年以降は国立美術協会のサロンに、1905年以降はサロン・ドートンヌに作品を出品するようになる。それから2年後には、早くもサロン・ドートンヌの審査員になっていることからも、この界隈の芸術家たちによる彼の作品の評価の高さが窺える。もちろんすでに同じサロンの委員をつとめていた兄の口利きはあったに違いない。しかしキュビスムの影響を受けつつ何処か古典的な厳格さを感じさせる彼の幾何学的な彫刻は、同時代の批評家たちにも好意的に受け入れられた。
 マルセル・デュシャンの活動の軌跡はさらに複雑である。すでに二人の兄たちが父親の用意した道をそれて芸術家として活動していた1904年、マルセルは父親の了承を得て、兄のジャックと共に私的な画塾であるアカデミー・ジュリアンに登録した。だがマルセルはアカデミーでの教育に馴染まず、すぐに独自の道を模索し始める。彼は兄たちが参与したキュビスムのグループの動向にも関わったが、しかしそこに留まることもなく、かの有名な「レディメイド」の創出、彼の分身であるローズ・セラヴィとしての活動、そしてチェス・プレイヤーへの転身といった具合に、自らに与えられた定義(画家/男性/芸術家)を次々に破壊していくことになるのだ。
 年が近い兄マルセルと仲の良かったのが、画家シュザンヌ・デュシャンである。第一次世界大戦中、シュザンヌが渡米中のマルセルに頼まれて彼のアパートの「レディメイド」にサインを代筆したことは、よく知られている話だ。彼女は1905年からルーアンの美術学校に通い始め、1912年以降は、地元の現代絵画ノルマンディー協会のサロンと、パリのサロン・デ・ザンデパンダンに展示するようになった。第一次世界大戦中に、彼女は機械のような形状を描いた油彩画を制作し始める。やがてマルセルの友人であったジャン・クロッティと結婚をし、彼と共に「TABU」というグループ名で活動を開始し、パリのダダにおける新たな運動を展開している。彼女についてはこの連載では深く取り上げることはできないが、いずれ場を改めてきちんと紹介する機会があればと願っている。ダダの時期の作品としては、例えばドローネーを想起させるような美しい彩りの円とパリの街のシルエットの重なりに、ピカビア風の機械的なデッサンと文字とを組み込んだ油彩画《破壊され回復された多様性》(1918年~19年。シカゴ・アート・インスティチュート)、またダイアグラムや紐の使用方法にマルセルの影響を色濃く感じさせる《隔てられた二つの孤独の放射線》などがある。後者の作品については、上下に分かれたモチーフに、当時たびたび離れながらも互いに密に連絡を取り合いながら活動を展開していたクロッティとシュザンヌの姿が重ね合わせられているとも考えられており、その構想としてマルセルの《大ガラス》から着想を得ていることが窺える。




 ジャック・ヴィヨンが、弟レイモンやマルセルと共に関心を寄せていたのが、「科学」である。次の記事では、この3人の兄弟たちが、芸術と科学の交差する共通の視座からどのように異なる作品を生み出していたのかを解説したい。
まつい ひろみ

■松井 裕美(まつい ひろみ)
1985年生まれ。パリ西大学ナンテール・ラ・デファンス校(パリ第10大学)博士課程修了。博士(美術史)。現在、神戸大学国際文化学部准教授。専門は近現代美術史。
単著に『キュビスム芸術史』(名古屋大学出版会、2019年)、共編著に『古典主義再考』(中央公論美術出版社、2020年)、編著に『Images de guerres au XXe siècle, du cubisme au surréalisme』(Les Editions du Net, 2017)、 翻訳に『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。

・松井裕美さんの連載エッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」は毎月25日の更新です。

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