生誕100年 駒井哲郎 Part2 駒井哲郎と瀧口修造」では、「日本の四季」や「恩地孝四郎頌」など晩年の作品も展示しています。
「Part 1 若き日の作家とパトロン」のWeb展もこちらからぜひご覧いただきたいのですが、駒井先生は先行する銅版画家として長谷川潔に強い敬意を抱いていました。

昨年表慶館の現代フランス版画展で久し振りに氏の作品に触れ感動をあらたにしたのですが、僕が長谷川氏の銅版画をはじめて見たのは未だ中学生の頃でした。その頃日曜日毎に麹町の西田さんのところへ通って銅版画の手ほどきを受けていたのですが、或日山とつまれた画集や版画や紙の間から大切そうに取り出して見せて下さったのでした。素晴らしいビュランの冴え、アクワタントとルーレットの織りなす巧緻なレース模様、マニエール・ノワールの妖しい花の静物等が静かな世界を展開しているのでした。そしてなんと云う見事な刷りなのでしょう。
 長谷川潔については全然知らなかったのですが、巴里画壇で銅版画家として確固たる位置を占め毎年すぐれた作品を発表されていると云うことがだんだんと解って来ました。それから僕たち銅版画を少しずつでもやっているものにとっては、氏の存在は大きな一つの星であり、夢であり、誇りにすらなってしまったのでした。
 すぐれた作品は時と場所とを超絶して大きな影響力を持つものです。しかも同一ジャンル、同時代、同民族のうちにそのようなすぐれた作者を持ち得るのは非常な幸せであり、励みであり、力でもあります。遠い巴里の地にあってたゆみない精進と、地味な努力を続けられる長谷川潔に対して僕等は誠にオマージュの心を禁じ得ません。

(後略)(1951年6月)
*駒井哲郎『白と黒の造形』(1989年小沢書店・新装版)158~159頁「長谷川潔の銅版画」より>

No.19~No.22 駒井哲郎『日本の四季』シリーズ
駒井哲郎日本の四季表紙シール駒井哲郎『日本の四季』
1975年6月10日
北辰画廊刊行
銅版画4点所収

駒井哲郎日本の四季表紙

駒井哲郎_丘_日本の四季シリーズより 銅版画No.19 駒井哲郎 《丘 <日本の四季>より春》
1975年
銅版(エッチング)
25.5×23.5cm/44.0×34.0cm
7/30
サインあり
都美No.328、美術出版社No.319

駒井哲郎_岩礁2No.20 駒井哲郎《岩礁 <日本の四季>より夏》
1975年
銅版(エッチング〈雁皮刷〉)
25.5×23.5cm/44.0×34.0cm
7/30
サインあり
都美No.329、美術出版社No.320

駒井哲郎_樹木_日本の四季シリーズより 銅版画No.21 駒井哲郎《樹木<日本の四季>より秋》
1975年
銅版(エッチング)
25.5×23.5cm/44.0×34.0cm
7/30
サインあり
都美No.330、美術出版社No.321

駒井哲郎_影_日本の四季シリーズより 銅版画No.22 駒井哲郎《影<日本の四季>より冬》
1975年
銅版(エッチング〈雁皮刷〉)
25.5×23.5cm/44.0×34.0cm
7/30
サインあり
都美No.331、美術出版社No.322

駒井哲郎の最晩年の連作「日本の四季」4点は、北辰画廊という日本画を主に扱う画廊のエディションでした。その経緯については中村稔著の評伝『束の間の幻影ー銅版画家駒井哲郎の生涯』(1991年、新潮社)の<第十三章 死>に詳しいので引用します。
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二月二十七日〈夜北辰画廊の人に吉田善彦さんと浜作で御馳走になる、往復とも車で送ってくれるのでたすかる〉
三月三日〈朝、ワタリ画廊の素描水彩画三点つくる、ワタリで二〇万円もらう、恩地邦郎さん、久保貞次郎さんに久し振りで会う、恩地三保子さんに御馳走になる〉
(299頁より)

さて、二月二十七日の日記にみられるとおり、駒井はこの夜、北辰画廊の山本英治と食事を共にした。用件は同画廊が同年六月に企画した第一〇回「日本の四季」展に日本画の吉田善彦との二人展を開催することであった。すでに肺に転移した癌についてレントゲンの照射をうけながら、駒井はそのための制作にかかった。「丘」(春)、「岩礁」(夏)、「樹木」(秋)、「影」(冬)の四作はこうして制作されたものである。これらのうち、「丘」は「森の中の空地」以来の系譜につらなる作であり、「樹木」は一九五六年(昭和三十一年)の「樹木・ルドンの素描による」以来の「樹」の連作の最後の作である。「影」は遡れば一九七〇年(昭和四十五年)作の「室内」、『九つの夢から』フロントピース、一九六六年(昭和四十一年)作の「入口」などを経て、パリ留学中の「教会の横」につらなるものである。また、「岩礁」と題した作品は一九七二年(昭和四十七年)にも制作している。だから、これらはいずれもそれまでの作品のいくつかの系列の試みのはてに駒井がいきついた最後の地点を示しているのだが、これらはすべて静かで寂しい。なかでも凄絶な感が強いのは「岩礁」である。これは私が駒井を屢々案内した鵜原海岸の岩壁をモチーフにしたことに間違いないのだが、駒井の心象の中でまったく変容している。岩壁の顎は削りとられ、よくいわれるように髑髏のように描かれている。顎や頬をそぎとられた顔がどす黒く湧き立つ海にそそり立っているようにみえる。この岩礁はあたかも心象中の駒井の自画像のように思われるのである。これら四作品には、かつて若き日の駒井の作品にみられたような抒情性はみとめられない。ただふかく心の暗部に沈んでいく嘆きをきくばかりである。
この「日本の四季」展は駒井に思いがけない収入をもたらした。北辰画廊はこの展覧会にさいし駒井に現金で三百万円持参した。ちなみにこの当時、駒井の作品を主として買っていたのは自由が丘画廊だが、自由が丘画廊は大小、着色、モノクロームを問わず、駒井に一点一万円支払っていた。自由が丘画廊と駒井との間で、時に駒井が前借りしたり、逆に渡した作品の数が受けとった金より多くなっていたこともあり、駒井が死んだ時点で渡辺達正が自由が丘画廊との間で整理したさい、自由が丘画廊が持っていた作品は百五点、同画廊から駒井に百万円支払えば清算がすむ計算になっていた。渡辺達正の努力で、作品の六十点は戻してもらい、ただし売るときは同画廊経由で売ることにする、というかたちで解決した。これは死後のことだが、こうした価格からみても北辰画廊から受けとった三百万円という金額は、当時の駒井にとって予想外に巨額なものであったことが知られるのである。駒井は美子夫人に、このうち百万円は僕が使っていいかしら、パリへ行きたいと思うんだ、と相談をもちかけた。すでに癌の転移を承知していた美子夫人に否応があるはずはなかった。その結果、駒井は一九七五年(昭和五十年)七月六日渡仏した。単独行であった。依然として美加子は小児喘息に苦しんでいたので美子夫人は同行できなかったし、何よりもこの当時はまだ相当に元気であった。
駒井は渡仏するとすぐ長谷川潔を訪ねた。『銅版画のマチエール』の「あとがき」に、〈その後、ぼくの病気、大手術などということがあって、自分自身大分打撃をうけたが、体もやや回復したので、一九七五年の夏には長谷川先生の避暑先の、芸術院の別荘まで押しかけたりした。そこはポントワーズの先にマリンヌという小さな村があって、もっと行くとシャールという村があり、レ・パンソン (かわらひわ)という名の別荘であった。夏に来ても見せたいものが見せられないから、パリのアトリエに秋か冬にまたいらっしゃいといとも簡単にいわれるのであった。この時に村の教会に連れて行って下さり、ぼくの病気の快癒を心から祈って下さって、大いに感謝したのである〉と書いている。この旅行から帰国直後『プリントアート』第二二号(一九七五年十月一日発行)の岡田隆彦との対談では、この訪問の様子をもすこし詳しく、肉声で語っている。〈シャールというのは、電話がパリから直通のところなので、前日に連絡しておきました。それで昼ごろ着いたら、ちゃんともう、玄関のところに立って、待っておられました。もう凄く感激でしたね、久しぶりで......。それで、先生がお昼のご飯を用意しておいて下さいましたので、私と同行したお二人とむこうの御家族とで一緒に食事したんです。先生は葡萄酒なんかもどんどん飲まれるし、食事だって僕よりずっと食べられるし、それで大いに安心して......。で、ご飯がすんでから、「村の教会にキミの全快のお礼に行くから、一緒に行こう」と言って、それで行って、教会の中でこうお祈りあげて下さって、ロウソク立てて......。非常に感激しました〉
長谷川潔は一八九一年(明治二十四年)生まれだから、この時すでに八十四歳であった。長谷川は駒井の死後上甲ミドリに寄せた書簡の中で、大手術に成功、わざわざシャールの田舎まで訪ねてきてくれたのは奇蹟的なこととよろこんでいたのに、と書いてきた由である。この再会は長谷川潔にとっても駒井哲郎にとっても「命なりけり」といった感慨だったにちがいない。(302~305頁より)
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日本の四季4点(総部数120部)の代金として「北辰画廊から受けとった三百万円という金額は、当時の駒井にとって予想外に巨額なものであった」云々の記述を読むと、当時を知る亭主は胸が締め付けられるような思いです。既に舌癌の肺転移が判明し、放射線治療を受けていた駒井先生は1975年6月北辰画廊での第10回日本の四季展を終えた後、7月にその金で単身渡仏し、避暑地で敬愛する長谷川潔に会います。帰国後、病状は進みますが、12月には再び渡仏し、長谷川潔をパリのアトリエに訪ねます。長谷川潔に抱く敬愛の念の強さをひしひしと感じます。翌1976年11月20日、国立がんセンターで56歳の生涯を閉じられました。
その4年後の1980年12月13日、長谷川潔は遂に一度も日本に帰ることなくパリで没します、享年89でした。

長谷川潔
長谷川潔_樹と村の小寺院No.31 長谷川潔《樹と村の小寺院
1959年
銅版(エッチング)
33.5x24.0cm/51.5x38.0cm
28/100


長谷川潔_ヴォルクスの村No.32 長谷川潔《ヴォルクスの村
1927年
銅版(メゾチント)
20.1×28.0cm/33.0×46.0cm
11/50
サインあり

長谷川潔の生涯と作品については、千葉市美術館の西山純子さんのエッセイ「パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 ーはるかなる精神の高みへ ー」をお読みください。

「生誕100年 駒井哲郎展 Part 2 駒井哲郎と瀧口修造」
会期=2022年2月8日(火)~26日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日は休廊
2月9日ブログに出品全作品の画像、データ、価格を掲載しました。
駒井哲郎と瀧口修造展DM
駒井表紙画像1280
「生誕100年 駒井哲郎展」カタログ

1,540円(税込み)+送料250円
A5変形、56ページ、
出品/駒井哲郎、瀧口修造、恩地孝四郎、長谷川潔、オディロン・ルドン、パウル・クレー
執筆/栗田秀法土渕信彦
編集・デザイン/柴田卓
発行/ときの忘れもの

2020年に銅版画の詩人と謳われた駒井哲郎(1920-1976)の生誕100年の記念展「Part1 若き日の作家とパトロン」を開催しました。
今回の「Part2 駒井哲郎と瀧口修造」では詩人・安東次男との詩画集『人それを呼んで反歌という』全点を展示するほか、その才能にいち早く注目した詩人・評論家の瀧口修造など駒井が影響を受けた作家たちの作品も合わせてご覧いただきます。