新連載「ガウディの街バルセロナより」
その1 ガウディとの出会い
丹下敏明
大学の3年目ともなるとそろそろ卒論のテーマを考えなければならない。ちょうどその頃、偶然ガウディのカサ・ミラなどの写真を目にした。それで、その作家であるガウディについて調べてみた。しかし1969年当時は文献などというものは早稲田の今井兼次さんと池原義郎さんの建築学会で発表されたいくつかの論文、それと磯崎さんのみづゑの原稿、SD選書から坂崎乙郎が『幻想の建築』を発刊予定、高階秀爾、千足伸行の翻訳とされるS.T.マドセンの『アール・ヌーヴォー』などは1970年刊で、新聞広告を見て発行日を待つというような時代であった。そんな中で、担当教授はガウディについての資料は集まらず、書けないから、ガウディについて書くのは無理だから、ガウディを研究した今井兼次論を書きなさいという優しい言葉だった。教授にはそう言われのだが、逆にエネルギーが沸いてきて。急遽丸善の洋書部へ行き、目を付けていた本3冊を注文。スペインからの本は到着までに2か月かかり、しかも英語、スペイン語だったのでこれを読み切るのがまた大変だった。もちろん早稲田にも行き、すでに引退されていた今井さんには研究室で会うことはできなかったが、池原義郎教授にはインタヴューできた。ただ一切資料は見せていただけなかった。というか、何を見せていただきたいという事が分かっていなかったのだろうか。それでも何とか本も読破し、卒論を書き上げた。総ページ350枚、担当教授もさすがこの量に驚き”優”を付けてくれた。その時の買った本というのがカサネージャス、G.R.コリンズ、プーチ・イ・ボアダらが書いた本だった。卒論を出した1971年は世の中は高度成長期の真っただ中で、学内ではまだ学生運動はくすぶっていた。

カサ・ミラ1972年3月

カサ・ミラ2022年2月
3月に卒業式を終えても就職はせず、アルバイトを続けた。その目的はもちろん卒論を出したのだが、まだ実際には見ていないガウディに会いに行くための資金作りのためだった。そのルートは、五木寛之の『青年は荒野をめざす』が我々の世代では常識だったので、横浜を出港し、モスクワ経由、ストックホルムというコースの片道切符だった。横浜を出たのは6月23日だった。そして、最終目的地はバルセロナではなくマドリッドだった。それはガウディを知るきっかけとなった写真の所有者で当時早稲田で坂崎乙郎の研究室にいた薮野健氏だった。薮野さんはスペイン留学をしていたが、ちょうど彼の帰国とバトンタッチするようなタイミングだった。彼が滞在していたマドリッドのアパートで空室ができ、ここに世話になった。たどり着いたマドリッドは青空にムクムクと浮かぶゴヤが描いた特有な空があった。
卒論を書いた日本の60年代の後半というと、今井研究室以外は一応にガウディを幻想の建築家というレッテルを貼っていた。ダリは「食べられる建築」とガウディを吹聴し、日本の美術界ではこのダリからの影響で前衛芸術界で多くの共鳴を得た。そんな時代だった。そして私自身がなぜガウディに興味を持っただろうか。それに気づいたのは、卒論を出し、ガウディの実物に接し、さらに何年も経ってからの事だった。私が学んだ時期というのは高度成長期の中で、しかも大学は工学部だった。講義では例えばスパンの取り方、柱の形状、配筋の原理、コンクリートのかぶりといった機能性、合理性が教えられ、当然のことそれは整然としたフォームの事ばかりだった。それに比べるとガウディは全く違っていて、授業での単純で合理な計算ではありえない建築ばかりだ。これはどういう事なのか、大学で教えていることが間違っているのか、あるいはガウディが特異なのかという、多分非常に単純な疑問からガウディへの興味が涌いたのだろうと気づくようになった。
薮野さんのおかげで使えることになったマドリッドの部屋には1年ほどいたけれども実は旅行を重ねた。当初語学学校に通ったけれども、私だけなのかもしれないがコースはハードルが高すぎて、すぐに授業の進行についていけない。例えば、次の文章をスペイン語に訳しなさいという演習が出ていて、テキストには英語、フランス語、ドイツ語が載っている、そこからまずそれらの外国語をスペイン語に訳し、演習は何なのかを日本語に訳さなければならない。とりあえず英語を読むわけだが、ふとその横のフランス語を読むと、これはもう私にはフランス語なのか、スペイン語なのかの区別もできなかった。これでは授業についていけないのは無理もない。それなら言葉を学ぶなら旅行しながら覚えた方が早いのではないかという身勝手な判断で旅行に出るようになる。
まず行ったのはもちろんバルセロナで、ガウディを見に行った。ストックからマドリッドへ到着する前にもちろんバルセロナを通過しているがろくに見ていない。バルセロナではいつもテルミノ駅(現在のフランス駅)のすぐ前のリウスというペンションに泊まったが、その後もバルセロナではこのペンションに泊まることに決めていた。もちろんガウディを見て歩いたが、実はその時一番インパクトを与えられ、一番シャッターを切ったのがガウディではなく同時代のモデルニスモと呼ばれる建築群だった。

サン・パウ病院1972年3月

サン・パウ病院2019年
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blans計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
現在、磯崎新スペイン事務所代表
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
*画廊亭主敬白
今月より、スペイン在住の丹下敏明先生のエッセイを隔月・奇数月の16日に掲載します。
ガウディの建築に憧れスペインに渡って半世紀、ガウディだけでなくモデルニスモの建築について日本に紹介し続けてこられました。また磯崎新先生のスタッフとして、多くの建築設計に参加されています。
最初にお目にかかったのがいつなのか記憶が定かではありませんが、いつかガウディについてブログに寄稿していただきたいと思っていましたがようやく実現しました。ご愛読ください。
●本日のお勧めは磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI ”Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”(5点組)より
「Preliminary studies(初期スケッチ)」
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:56.0x55.4cm
シートサイズ:60.3x88.7cm
Ed.25 サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その1 ガウディとの出会い
丹下敏明
大学の3年目ともなるとそろそろ卒論のテーマを考えなければならない。ちょうどその頃、偶然ガウディのカサ・ミラなどの写真を目にした。それで、その作家であるガウディについて調べてみた。しかし1969年当時は文献などというものは早稲田の今井兼次さんと池原義郎さんの建築学会で発表されたいくつかの論文、それと磯崎さんのみづゑの原稿、SD選書から坂崎乙郎が『幻想の建築』を発刊予定、高階秀爾、千足伸行の翻訳とされるS.T.マドセンの『アール・ヌーヴォー』などは1970年刊で、新聞広告を見て発行日を待つというような時代であった。そんな中で、担当教授はガウディについての資料は集まらず、書けないから、ガウディについて書くのは無理だから、ガウディを研究した今井兼次論を書きなさいという優しい言葉だった。教授にはそう言われのだが、逆にエネルギーが沸いてきて。急遽丸善の洋書部へ行き、目を付けていた本3冊を注文。スペインからの本は到着までに2か月かかり、しかも英語、スペイン語だったのでこれを読み切るのがまた大変だった。もちろん早稲田にも行き、すでに引退されていた今井さんには研究室で会うことはできなかったが、池原義郎教授にはインタヴューできた。ただ一切資料は見せていただけなかった。というか、何を見せていただきたいという事が分かっていなかったのだろうか。それでも何とか本も読破し、卒論を書き上げた。総ページ350枚、担当教授もさすがこの量に驚き”優”を付けてくれた。その時の買った本というのがカサネージャス、G.R.コリンズ、プーチ・イ・ボアダらが書いた本だった。卒論を出した1971年は世の中は高度成長期の真っただ中で、学内ではまだ学生運動はくすぶっていた。

カサ・ミラ1972年3月

カサ・ミラ2022年2月
3月に卒業式を終えても就職はせず、アルバイトを続けた。その目的はもちろん卒論を出したのだが、まだ実際には見ていないガウディに会いに行くための資金作りのためだった。そのルートは、五木寛之の『青年は荒野をめざす』が我々の世代では常識だったので、横浜を出港し、モスクワ経由、ストックホルムというコースの片道切符だった。横浜を出たのは6月23日だった。そして、最終目的地はバルセロナではなくマドリッドだった。それはガウディを知るきっかけとなった写真の所有者で当時早稲田で坂崎乙郎の研究室にいた薮野健氏だった。薮野さんはスペイン留学をしていたが、ちょうど彼の帰国とバトンタッチするようなタイミングだった。彼が滞在していたマドリッドのアパートで空室ができ、ここに世話になった。たどり着いたマドリッドは青空にムクムクと浮かぶゴヤが描いた特有な空があった。
卒論を書いた日本の60年代の後半というと、今井研究室以外は一応にガウディを幻想の建築家というレッテルを貼っていた。ダリは「食べられる建築」とガウディを吹聴し、日本の美術界ではこのダリからの影響で前衛芸術界で多くの共鳴を得た。そんな時代だった。そして私自身がなぜガウディに興味を持っただろうか。それに気づいたのは、卒論を出し、ガウディの実物に接し、さらに何年も経ってからの事だった。私が学んだ時期というのは高度成長期の中で、しかも大学は工学部だった。講義では例えばスパンの取り方、柱の形状、配筋の原理、コンクリートのかぶりといった機能性、合理性が教えられ、当然のことそれは整然としたフォームの事ばかりだった。それに比べるとガウディは全く違っていて、授業での単純で合理な計算ではありえない建築ばかりだ。これはどういう事なのか、大学で教えていることが間違っているのか、あるいはガウディが特異なのかという、多分非常に単純な疑問からガウディへの興味が涌いたのだろうと気づくようになった。
薮野さんのおかげで使えることになったマドリッドの部屋には1年ほどいたけれども実は旅行を重ねた。当初語学学校に通ったけれども、私だけなのかもしれないがコースはハードルが高すぎて、すぐに授業の進行についていけない。例えば、次の文章をスペイン語に訳しなさいという演習が出ていて、テキストには英語、フランス語、ドイツ語が載っている、そこからまずそれらの外国語をスペイン語に訳し、演習は何なのかを日本語に訳さなければならない。とりあえず英語を読むわけだが、ふとその横のフランス語を読むと、これはもう私にはフランス語なのか、スペイン語なのかの区別もできなかった。これでは授業についていけないのは無理もない。それなら言葉を学ぶなら旅行しながら覚えた方が早いのではないかという身勝手な判断で旅行に出るようになる。
まず行ったのはもちろんバルセロナで、ガウディを見に行った。ストックからマドリッドへ到着する前にもちろんバルセロナを通過しているがろくに見ていない。バルセロナではいつもテルミノ駅(現在のフランス駅)のすぐ前のリウスというペンションに泊まったが、その後もバルセロナではこのペンションに泊まることに決めていた。もちろんガウディを見て歩いたが、実はその時一番インパクトを与えられ、一番シャッターを切ったのがガウディではなく同時代のモデルニスモと呼ばれる建築群だった。

サン・パウ病院1972年3月

サン・パウ病院2019年
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blans計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
現在、磯崎新スペイン事務所代表
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
*画廊亭主敬白
今月より、スペイン在住の丹下敏明先生のエッセイを隔月・奇数月の16日に掲載します。
ガウディの建築に憧れスペインに渡って半世紀、ガウディだけでなくモデルニスモの建築について日本に紹介し続けてこられました。また磯崎新先生のスタッフとして、多くの建築設計に参加されています。
最初にお目にかかったのがいつなのか記憶が定かではありませんが、いつかガウディについてブログに寄稿していただきたいと思っていましたがようやく実現しました。ご愛読ください。
●本日のお勧めは磯崎新です。

磯崎新 Arata ISOZAKI ”Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”(5点組)より
「Preliminary studies(初期スケッチ)」
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:56.0x55.4cm
シートサイズ:60.3x88.7cm
Ed.25 サインあり
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●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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