ガウディの街バルセロナより
その3 バルセロナの新市街
丹下敏明
新市街が生まれる背景
現在のバルセロナの街の決定的な特徴はグリッドに整然と切られた新市街の俗にエイシャンプレ(Eixampele)と呼ばれる街区だろう。多くのガウディの作品やモデルニスモの作品がこの新市街にある。では、この新市街はどうして生まれたのかを見てみたい。
図版1.15世紀のバルセロナはほぼそのまま19世紀の半ばまで市街区は拡張されなかった。
産業革命と鉄道開設の関係は蒸気機関の開発と深く関係しているわけだが、スペインでの最初の鉄道敷設は首都マドリッドではなく、バルセロナと隣接のマタロを結ぶ28.4Kmの民間経営の路線だった。これは1848年の出来事なので、リヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道開通は1830年なのでそれより18年遅れての開通である。しかし、当時スペイン領であったキューバではそれより前、イギリスからわずか7年遅れた1837年に奴隷運搬などのために29.1㎞の鉄道が開通していた。このキューバでの鉄道の運搬能力を知ったのはマタロ出身の起業家で、帰国すると20万人都市バルセロナと北の1万人そこそこのマタロを結ぶ鉄道路線敷設に力を注いだ。
カタルーニャの法律では長男が唯一遺産相続の権利が認められていたこともあり、あるいは単に新天地での可能性を求めて、主に中南米への移民が19世紀の早い時期から始まった。その新天地から持ち帰った莫大な富を元手に故郷に戻った人たちが、スペイン国内では唯一の産業革命をバルセロナはじめ地方都市も含めカタルーニャ全域で起こした。
その結果、中世の海運を軸にした豊かな国を産業革命で取り返し、何よりも更に莫大な富を蓄積していった。この時代でも特に1876年以降からスペインが中南米の植民地を失ってしまう1898年の間は繊維産業を基盤とし、ゴールド・ラッシュとさえ言われた黄金時代を迎えている。
図版2.13世紀から15世紀開運で栄えたバルセロナの交易ルート(以上市歴史博物館蔵)
この経済発展に前後し、その中心であるバルセロナ市は他地方から生活の改善を求めた流入人口が短い時期に爆発的に増えた。ブログの第2回目で紹介した市の歴史博物館(Museu d'Historia de Barcelona)にある1500年頃の市の模型を見ても分かるように、19世紀前半のバルセロナの街には以前中世同様な市門があり、周囲は市壁でぐるりと囲まれた中世都市の構造をもっていた。軍は古代ローマ時代の市壁を崩し、徐々に拡張を許していたものの、全体としては中世そのものの要塞化された都市だった。
しかも、この要塞都市の周辺は軍によって砲弾の届く距離は、敵が隠れることができるような建造物の建設を禁止されていたので、この規定に従うならば、市域を拡大するには市壁を更に外に移動させるか、新たに建設するかという大工事を敢行するしか手が無かった。しかも、市側として人口集中からくる衛生問題の悪化を解決せねばならないという急務があった。極度に手狭になった市域は、コレラなど疫病に何度も襲われていた。しかし、この頃大砲の砲弾着地距離性能が向上していたので、市壁外の射程距離範囲には何も建設してはならないという軍の規定を堅守するということであれば、隣接の町すら壊す必要が出てきてしまった。結果的にはこれが甲冑を着た中世都市バルセロナの崩壊に繋がり、周辺へ市域を拡張することが実現する。19世紀の半ばになって中央政府から市壁を撤去し、市域の拡張の認可が下りたために拡張街区の建設が可能になった。
この頃、アントニ・ガウディは繁栄の地方都市レウス(Reus)に生まれたのだった。
エンジニア・セルダ
拡張計画案の設計者であるイルデフォンソ・セルダ・イ・スネェール(Idedefonso Cerda i Suner)は1815年12月23日バルセロナの近郊センテージャス(Centelles, バルセロナから約52Km)に生まれた。その祖先は少なくとも15世紀からこの土地に居を構えていた。といってもセルダ家は田園生活を送っていたわけではなく、バルセロナの中南米と取引のある商社を通じての投資事業をすでに2代前から始めていたので、セルダ家は国外の事情にも明るかった。
図版3.セルダが生まれたセンテージャスの家
イルデフォンソ・セルダの兄ジョセップ(Josep, 1806~48年)は家督を継いで、農業の傍ら資本投資をし、工業、鉱業へも手を広げていた。次男ラモン(Ramon, 1808~37年)は薬学を勉強するためバルセロナへ出て、次いでリオン、パリ、ロンドンへ留学している。そういった兄たちの中に育ったイルデフォンソは初等教育を終えると兄ラモンを頼りバルセロナへ出て(1832年)建築と数学を学び、後1836年マドリッドの道路工学校へと進んでいる。しかし、この学校は学校とは名ばかりで、校長を除いて3人の教授がいただけのお粗末なものだった。スペインにはまだ鉄道すらない時代だった。1841年にその学校を終え、道路・運河・港湾技術者の称号を得る。その間次兄には死なれ、父をも亡くし、それから7年後の1848年には長兄をも亡くして、セルダ家の後継者として莫大な財産と家名を相続する。また、その頃(1849年)彼自身は道路技術者団というものを創ってエンジニアとしての業績を残そうとしていた。しかし、この道路技術者団も名ばかりで建設省の下部機関でもない、非公認団体であった。この時代から彼の死までの研究と活動生活の資金は全て私財から捻出された。しかもその晩年には全ての家財を使い果たし、娘のわずかばかりの稼ぎを当てに、国や役所への支払い請求に当てる日々ばかりか、彼の業績が世の中で評価されるようになったのは1世紀を待たねばならなかった。
セルダ案とは
セルダの都市計画の理論はその大著『都市計画の一般論』(“Teoria General de la Urbanizacion” 全3巻, 1867年、2018年に英語版刊行又はhttp://tgu.urbanization.org/)に明文化されている。それは一言でいえば「家族内における個々の独立性」、「都市内における家族の独立性」を大きな特徴としている。この主意に従い都市をブロック単位に区画し、建物の棟間隔を十分に取り、そして都市自体の将来の拡張性を考えるという、大前提のものに立案された。
図版4.セルダ案の原案
図版5.セルダ案を印刷するときに使われた石板(市歴史博物館蔵)
具体的にはセルダ案は3ブロックが400メートル四方、つまり1ブロック単位が133.33メートル x 133.33メートルを並べたグリッド状に構成され、これを海岸線に平行に並べている。このグリッドは20メートル幅の道路が切り取られ、うち両側5メートルは歩道にあてられる。更にセルダ案の特徴のひとつはブロックの隅部を45度でカットしていることだろう。
グリッド状の都市計画は現在トルコになっている古代ギリシャのミレトスで紀元前5世紀に建設された例(ヒッポダモスのミレトス計画以前にもグリッド状の街区はあったとされている)があるわけだが、セルダがコーナーをカットしたというのは決定的な違いで、自動車交通という新時代に対応しようというものであった。
中心を持たせない。あくまで均一性を目指したため、用途地区も市心さえも存在しない。このため教会は何ブロックに対し1つ、学校は何ブロックに対し1つというように割り当てられた。こうして全体を極力分散化している。ブロック内では建物を2辺だけに置き、階高は5層に制限。つまりブロック内は道路幅と同じ20メートルの奥行きが建設可能と考えられているので、ブロック内では向かいの建築まで73メートルのスペースがとられる。工場にしろ、棟間隔を充分取ることで住産共存するよう考えられている。
約百本の樹がブロック内の両端の建物の間(36本)と周囲の歩道(8メートル間隔に計56本)が植えられ、それとは別にプライベートの庭園もブロックの内側つまり巨大なパティオにつくられる。また公園は400ブロックに1つの割合で作られ、更に市の南端モンジュイックの丘とその反対にあるエル・ベソス河(El Besos)流域の森林地帯をそのままに保存することで市の両端を自然公園化している。
図版6.セルダは自らモデル棟を建設(現在4棟のうち3棟が残されている)
図版7.ガウディがカサ・ミラの建築申請時に市役所に提出した地階の図面でコーナー部がカットされているのが分かる
セルダ案は立案からその後約100年かかって、計画区域が概ね開発されるが、グリッドに切られた街区は残したものの、この間市条例の改正によってグリッドの2辺だけではなくブロックを囲む4辺に建物が建てられてしまった。パティオ側もほぼ建造物で占拠され、もちろん緑地も失われている。階高制限も同様に緩和され、現在の様なブロック四周を囲む街並みになった。セルダによる拡張計画により1100ヘクタールに及ぶ拡張市域はエル・ベソス河、モンジュイック(Montjuic)の丘の南のジョブレガット河の両端をリミットとし、グラシア(Gracia)、サリア(Sarria)、サンツ(Sants)、サン・マルティ(San Marti)、オルタ(Horta)、オスピタレット(L´Hospitalet)などの周辺の町を取り組んで200万弱の一大メトロポリス・バルセロナを築いた。
図版8.現在のセルダ案のブロック内部(左一か所のみセルダが描いた木が生い茂るパティオの夢が現存)
産業革命による経済的な繁栄がなければバルセロナの拡張計画(エイシャンプレはカタルーニャ語で拡張の意味)は実現しなかったのは無論だが、このセルダ案の立案がなければ、建築家たちにとっては新たな膨大な量の建築のチャンスが生まれず、建築設計活動の場、あるいは建築現場での実務経験の場もなかった。もちろんモデルニスモの建築家たちは生まれなかったし、地方都市で、職人の息子として生まれたガウディもこの街に出てくることさえなかったはずだ。
*写真はすべて筆者撮影
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blans計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その3 バルセロナの新市街
丹下敏明
新市街が生まれる背景
現在のバルセロナの街の決定的な特徴はグリッドに整然と切られた新市街の俗にエイシャンプレ(Eixampele)と呼ばれる街区だろう。多くのガウディの作品やモデルニスモの作品がこの新市街にある。では、この新市街はどうして生まれたのかを見てみたい。
図版1.15世紀のバルセロナはほぼそのまま19世紀の半ばまで市街区は拡張されなかった。産業革命と鉄道開設の関係は蒸気機関の開発と深く関係しているわけだが、スペインでの最初の鉄道敷設は首都マドリッドではなく、バルセロナと隣接のマタロを結ぶ28.4Kmの民間経営の路線だった。これは1848年の出来事なので、リヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道開通は1830年なのでそれより18年遅れての開通である。しかし、当時スペイン領であったキューバではそれより前、イギリスからわずか7年遅れた1837年に奴隷運搬などのために29.1㎞の鉄道が開通していた。このキューバでの鉄道の運搬能力を知ったのはマタロ出身の起業家で、帰国すると20万人都市バルセロナと北の1万人そこそこのマタロを結ぶ鉄道路線敷設に力を注いだ。
カタルーニャの法律では長男が唯一遺産相続の権利が認められていたこともあり、あるいは単に新天地での可能性を求めて、主に中南米への移民が19世紀の早い時期から始まった。その新天地から持ち帰った莫大な富を元手に故郷に戻った人たちが、スペイン国内では唯一の産業革命をバルセロナはじめ地方都市も含めカタルーニャ全域で起こした。
その結果、中世の海運を軸にした豊かな国を産業革命で取り返し、何よりも更に莫大な富を蓄積していった。この時代でも特に1876年以降からスペインが中南米の植民地を失ってしまう1898年の間は繊維産業を基盤とし、ゴールド・ラッシュとさえ言われた黄金時代を迎えている。
図版2.13世紀から15世紀開運で栄えたバルセロナの交易ルート(以上市歴史博物館蔵)この経済発展に前後し、その中心であるバルセロナ市は他地方から生活の改善を求めた流入人口が短い時期に爆発的に増えた。ブログの第2回目で紹介した市の歴史博物館(Museu d'Historia de Barcelona)にある1500年頃の市の模型を見ても分かるように、19世紀前半のバルセロナの街には以前中世同様な市門があり、周囲は市壁でぐるりと囲まれた中世都市の構造をもっていた。軍は古代ローマ時代の市壁を崩し、徐々に拡張を許していたものの、全体としては中世そのものの要塞化された都市だった。
しかも、この要塞都市の周辺は軍によって砲弾の届く距離は、敵が隠れることができるような建造物の建設を禁止されていたので、この規定に従うならば、市域を拡大するには市壁を更に外に移動させるか、新たに建設するかという大工事を敢行するしか手が無かった。しかも、市側として人口集中からくる衛生問題の悪化を解決せねばならないという急務があった。極度に手狭になった市域は、コレラなど疫病に何度も襲われていた。しかし、この頃大砲の砲弾着地距離性能が向上していたので、市壁外の射程距離範囲には何も建設してはならないという軍の規定を堅守するということであれば、隣接の町すら壊す必要が出てきてしまった。結果的にはこれが甲冑を着た中世都市バルセロナの崩壊に繋がり、周辺へ市域を拡張することが実現する。19世紀の半ばになって中央政府から市壁を撤去し、市域の拡張の認可が下りたために拡張街区の建設が可能になった。
この頃、アントニ・ガウディは繁栄の地方都市レウス(Reus)に生まれたのだった。
エンジニア・セルダ
拡張計画案の設計者であるイルデフォンソ・セルダ・イ・スネェール(Idedefonso Cerda i Suner)は1815年12月23日バルセロナの近郊センテージャス(Centelles, バルセロナから約52Km)に生まれた。その祖先は少なくとも15世紀からこの土地に居を構えていた。といってもセルダ家は田園生活を送っていたわけではなく、バルセロナの中南米と取引のある商社を通じての投資事業をすでに2代前から始めていたので、セルダ家は国外の事情にも明るかった。
図版3.セルダが生まれたセンテージャスの家イルデフォンソ・セルダの兄ジョセップ(Josep, 1806~48年)は家督を継いで、農業の傍ら資本投資をし、工業、鉱業へも手を広げていた。次男ラモン(Ramon, 1808~37年)は薬学を勉強するためバルセロナへ出て、次いでリオン、パリ、ロンドンへ留学している。そういった兄たちの中に育ったイルデフォンソは初等教育を終えると兄ラモンを頼りバルセロナへ出て(1832年)建築と数学を学び、後1836年マドリッドの道路工学校へと進んでいる。しかし、この学校は学校とは名ばかりで、校長を除いて3人の教授がいただけのお粗末なものだった。スペインにはまだ鉄道すらない時代だった。1841年にその学校を終え、道路・運河・港湾技術者の称号を得る。その間次兄には死なれ、父をも亡くし、それから7年後の1848年には長兄をも亡くして、セルダ家の後継者として莫大な財産と家名を相続する。また、その頃(1849年)彼自身は道路技術者団というものを創ってエンジニアとしての業績を残そうとしていた。しかし、この道路技術者団も名ばかりで建設省の下部機関でもない、非公認団体であった。この時代から彼の死までの研究と活動生活の資金は全て私財から捻出された。しかもその晩年には全ての家財を使い果たし、娘のわずかばかりの稼ぎを当てに、国や役所への支払い請求に当てる日々ばかりか、彼の業績が世の中で評価されるようになったのは1世紀を待たねばならなかった。
セルダ案とは
セルダの都市計画の理論はその大著『都市計画の一般論』(“Teoria General de la Urbanizacion” 全3巻, 1867年、2018年に英語版刊行又はhttp://tgu.urbanization.org/)に明文化されている。それは一言でいえば「家族内における個々の独立性」、「都市内における家族の独立性」を大きな特徴としている。この主意に従い都市をブロック単位に区画し、建物の棟間隔を十分に取り、そして都市自体の将来の拡張性を考えるという、大前提のものに立案された。
図版4.セルダ案の原案
図版5.セルダ案を印刷するときに使われた石板(市歴史博物館蔵)具体的にはセルダ案は3ブロックが400メートル四方、つまり1ブロック単位が133.33メートル x 133.33メートルを並べたグリッド状に構成され、これを海岸線に平行に並べている。このグリッドは20メートル幅の道路が切り取られ、うち両側5メートルは歩道にあてられる。更にセルダ案の特徴のひとつはブロックの隅部を45度でカットしていることだろう。
グリッド状の都市計画は現在トルコになっている古代ギリシャのミレトスで紀元前5世紀に建設された例(ヒッポダモスのミレトス計画以前にもグリッド状の街区はあったとされている)があるわけだが、セルダがコーナーをカットしたというのは決定的な違いで、自動車交通という新時代に対応しようというものであった。
中心を持たせない。あくまで均一性を目指したため、用途地区も市心さえも存在しない。このため教会は何ブロックに対し1つ、学校は何ブロックに対し1つというように割り当てられた。こうして全体を極力分散化している。ブロック内では建物を2辺だけに置き、階高は5層に制限。つまりブロック内は道路幅と同じ20メートルの奥行きが建設可能と考えられているので、ブロック内では向かいの建築まで73メートルのスペースがとられる。工場にしろ、棟間隔を充分取ることで住産共存するよう考えられている。
約百本の樹がブロック内の両端の建物の間(36本)と周囲の歩道(8メートル間隔に計56本)が植えられ、それとは別にプライベートの庭園もブロックの内側つまり巨大なパティオにつくられる。また公園は400ブロックに1つの割合で作られ、更に市の南端モンジュイックの丘とその反対にあるエル・ベソス河(El Besos)流域の森林地帯をそのままに保存することで市の両端を自然公園化している。
図版6.セルダは自らモデル棟を建設(現在4棟のうち3棟が残されている)
図版7.ガウディがカサ・ミラの建築申請時に市役所に提出した地階の図面でコーナー部がカットされているのが分かるセルダ案は立案からその後約100年かかって、計画区域が概ね開発されるが、グリッドに切られた街区は残したものの、この間市条例の改正によってグリッドの2辺だけではなくブロックを囲む4辺に建物が建てられてしまった。パティオ側もほぼ建造物で占拠され、もちろん緑地も失われている。階高制限も同様に緩和され、現在の様なブロック四周を囲む街並みになった。セルダによる拡張計画により1100ヘクタールに及ぶ拡張市域はエル・ベソス河、モンジュイック(Montjuic)の丘の南のジョブレガット河の両端をリミットとし、グラシア(Gracia)、サリア(Sarria)、サンツ(Sants)、サン・マルティ(San Marti)、オルタ(Horta)、オスピタレット(L´Hospitalet)などの周辺の町を取り組んで200万弱の一大メトロポリス・バルセロナを築いた。
図版8.現在のセルダ案のブロック内部(左一か所のみセルダが描いた木が生い茂るパティオの夢が現存)産業革命による経済的な繁栄がなければバルセロナの拡張計画(エイシャンプレはカタルーニャ語で拡張の意味)は実現しなかったのは無論だが、このセルダ案の立案がなければ、建築家たちにとっては新たな膨大な量の建築のチャンスが生まれず、建築設計活動の場、あるいは建築現場での実務経験の場もなかった。もちろんモデルニスモの建築家たちは生まれなかったし、地方都市で、職人の息子として生まれたガウディもこの街に出てくることさえなかったはずだ。
*写真はすべて筆者撮影
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blans計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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